だらだら日記goo編

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思想なんて要らない生活

2007-06-15 22:07:42 | アート・文化

これまでの僕の記事から僕がかなり思想めいた芸術にはまっていることをご存知だろう。

実験工房、グラフィック集団、「アサヒグラフ」の作ったAPN-アヴァンギャルドだ、はじめは喜び勇んで記事を書こうと思っていた。

しかしこの人の作品があるときから変わっていくのを目の当たりにしてはたと思った。

ビデオでは代々木上原の何の変哲もない風景が映し出され、写真は日本の伝統のものづくりを探った「文房四宝」とか、「隣り近所」といったこれまたありふれたものになる。

何があったのだろうーカタログのエッセイを読んでたぶんこれかと思った。

紹介が遅れたが写真家大辻清司の回顧展、渋谷の松涛美術館である。

そのエッセイはかいつまんで言うとそれまでの自分の写真はシュルレアリズムで言うオブジェを対象にしてきたが「うどん屋稼業を境にしてそうした写真は次第に撮れなくなっていった」「僕が生きている実感は、このなま身を手触りのある現実の中においてー明日の食事をどうしようか迷ったり、先ほど別れた友人の最後の一言を、もう二時間も反芻しているのに突然気がついたり、そうしたことを味わうところにあるのではないか」

「アサヒカメラ」の1977/12月号の言葉である。

そしてこの人は「大辻清司実験室」を連載する。

それは「頭の中で検討していた写真についての考え方と、実際に自分が撮る写真との間に違いがあるのかないのか」の実験だ。

文筆家でもある大辻の文章は長い、しかしこの展覧会ではそれがすべて展示される、さすがは松涛美術館!

そこには多木浩二の名前や、「光」より「もの」が一義的という考えが示されるがぜひ会場で全部読んでほしい。

「人はパンのみにて生きるものにあらず」とはいう、しかしパンがなければいきられないのも事実だ。

思想をとるか生活をとるかとても悩ましい。

カタログは大辻のエッセイがそのまま収録されており読み応えがある。


ただ並べりゃいいのか

2007-06-13 22:06:59 | アート・文化

この展覧会の展示構成をした人のセンスがわからない。

川瀬巴水の「東京十二景」の版画が並ぶ中で現代作家のスケッチ映像が上映される。

横山大観の屏風絵の反対側は金村修という人の写真だ。

時代もジャンルもまったく無視した展示だ。

これが最後のほうに有名な沢田教一の「安全への逃避」が展示されると少し怒りたくなった。

「水」の中を逃げるから展示したのだろうが命をかけた戦争という場での家族の必死な行為をほかのお気楽な作品と一緒にしてほしくないと思う。

横浜美術館は「水の情景ーモネ、大観から現代まで」の展覧会だ。

古典的な作品より現代の写真やビデオ作品に力を入れた展示だ。

森美術館で個展をやったビル・ヴィオラの作品もある、死と再生がテーマということだ。

さて古典作品は大観が三点、モネは「エトルタの朝」「睡蓮」「アイリス」、どこの睡蓮か気になるがアサヒビールのものだ。

クールベは五点まとまって展示される、クールベに「波」という作品は40点あるそうだがここでは村内美術館の渦巻くような波だ。

現代では高松次郎が1968に発表したやはり「波」という作品三点が面白い。

ルイス・ボルツという人は世紀末の黙示論的な風景をカメラに収めたがモノクロ写真がほとんどでカラーがわずかある、この理由を知りたい。

しかし全体的に冒頭に書いたようにただ「水」と関係ある作品ー聖書の「大洪水」の版画然りーを並べただけのような展覧会、横浜美術館はいつから志がこんなに低くなったのか。


手の営み

2007-06-08 21:50:05 | アート・文化

知っている人は知っていることだろうが知らない僕にはなかなか面白い。

まずはル・コルビュジエという名前が雑誌に投稿するためのペンネームで、本名はシャルル=エドゥアール・ジヤンヌレといったということ、さらにはパリのアトリエで32年間制作を続けたが、午前中は必ず絵を描き、「キュビズム以後」を発表して自分たちを「ピュリスト」と名乗っていたことなどなどー今回その絵もかなり展示されるが、「ピエタ、十字架降下」なる絵もありなかなか面白い、最も多くはレジェ的で後期になるとピュリスムに関心を示さなくなったそうだがー。

国立西洋美術館やサヴォワ邸で日本にもなじみのル・コルビュジエ、その回顧展をJuneさんにもらったチケットで森美術館に観に行く、乃木坂駅の新国立美術館から歩いたが案内も丁寧で迷わずに到着する。

この人の基本的な姿勢は都市は住宅によって構成されるというもので、ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平に連続する窓、自由なファサードの五原則が実現したのが前述のサヴォワ邸だ、フランスはポワシーにあるという。

そして彼の残した最も重要な業績のひとつが集合住宅「マルセイユのユニテ・ダビタシオン」だ、大型客船をモデルにつくり、17階、337戸、1600人が住んだという。

今回の展示ではこのユニテの一戸分の実物大模型が作られ自由に出入りできるようになっている、面白い。

その一方彼は「輝ける都市」を著し大規模な都市計画にも着手する。

1927に国際連盟の競技施設案がコンペで一等賞をとりながら却下されるというスキャンダルが起こり、彼はアカデミーとの対立を表明する。

その結果というかなんと言うか彼はパリ計画では「デカルト的摩天楼」を作って地上に空き地を確保しようと考えたりもする、この荒唐無稽な案は当然実現しない。

彼の都市計画で唯一実現したのはインド最北部のチャンディガールというところの都市設計で、それすらも高層都市計画は現地に適さないと彼の意のままとなったわけでもない。

「開いた手」のモニュメントがそこにはある、彼は手を人間の悠久の営為の象徴とみなしたというがとても重要な考えだと思う。

手の営みから外れたデカルト的摩天楼など抽象作為以外のなにものでもない。

その意味で彼が奥さんの誕生日にプレゼントするために作った丸太を張っただけの小さな休暇小屋が彼の最後の作品となったのは象徴的だ。

そこにはまさに愛情をこめた手の営みが表現されていると思う。

いろいろまだ書きたいが長くなりすぎた。

この展覧会を見物するにはかなりの時間が必要だとだけ書き添えて筆をおきたい。


今年はブンカムラが狙い目

2007-06-07 21:58:22 | アート・文化

家に帰るとポストに新聞屋からのチケット「プラハ国立美術館展」が入っていた。

家では東京新聞を取っているが、東京新聞は首都圏ではこれまた販売力の弱い毎日新聞と同じ販売所で売られている。

うちの販売所は一ヶ月に一回、プレゼントを三つか四つのうちからひとつ選んでファックスで応募するという仕組みになっている。

美術チケットなどほしがる人は少ないからまず当選する。

しかも毎日、東京どちらの主催でもよろしいのだからたまらない。

こうして最近では愛光とか、モディリアーニと妻ジャンヌの物語を新聞屋招待券で観た。

今回のプラハ国立美術館の展覧会は毎日だが、どうも東京新聞は今年はブンカムラの展覧会が続くようだ。

先に書いたモディリアーニもそうだし、これからもルドンの黒とか、ヴェネツィア絵画のきらめきなどがブンカムラで開催される。

まともにお金を払っていたら千何百円取られるところだ、ありがたやありがたや。

今日は朝日アスパラクラブの「世界報道写真展」のチケットとか、とあるルートでうらわ美術館須田剋太のチケットも入った、チケットは入るときは入るものだ。

その代わり最近日本橋三越の簡単にチケットが手に入る展覧会にぜんぜん行っていない、まあこれもよしとしよう。


日本絵画へのまなざし

2007-06-03 22:12:35 | アート・文化

いやいや速水御舟はやはりいい。

特に作品牡丹の墨の色合い、また違う牡丹の淡いピンクの色合いは素敵だ。

今回の名品展にあわせて作られたカタログを読むとこの美術館は速水御舟の作品を多く所蔵していることがわかる。

山種美術館は開館40周年記念名品コレクション、前期の会期が今日で終わるのででかける。

会場でまず僕らを迎えるのは横山操の「越後十景」だ、十点全部が展示される、これらの作品を好きと見るか嫌いと見るか分かれるだろうが、僕は北陸の重々しい風景に率直に惹かれる。

十点が幅を取るので勢いほかの作品の数が減るのが惜しいが竹内栖鳳の重要文化財「班猫」やら、下村観山の大作「老松白藤」、さらには村上華岳の「裸婦図」などが光った。

「班猫」は中国南宋時代の皇帝の描いた猫を想起して絵心がわいたという。

「老松白藤」も歴史があり明治神宮の依頼で伏見宮家に収めるため描かれたそうだがまことに年輪を感じさせる大作だ。

「裸婦図」はいささか西洋絵画的趣もあるが作者は「観音の清浄さ」とか「久遠の女性」を表現したかったらしい。

展示スペースと作品数がやや物足りないが、酒井抱一の重要美術品から加山又造の作品まで近現代日本画を俯瞰できる展覧会だ。

前期後期と分かれるが、全作品を一度に展示できれば満足がいくのだがうまくはいかないものだ。

出光を百点満点とすればここの展示は60点くらいだろうか。

新カタログは1800円、いままでの名品カタログが五千円近いのを考えれば妥当だろう。

ちなみに山種は江戸絵画も結構持っているが江戸絵画の名品展などやってもらえるとなおうれしい。

なおこの展覧会チケットもJuneさんにいただきました、あつくお礼申し上げます。