写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

お宝発掘

2012年02月07日 | 生活・ニュース

 聞き覚えのない女性の声で電話がかかってきた。「お宅に、お使いになっておられない貴金属の装飾品はございませんか? ただいま、高価で買い取りを致しておりますが……」という。さては、我が家の床下に埋蔵している金や銀の塊を知ってのことかと思ったが、残念ながら床下といわず天井裏にも、そんなものはひとかけらもない。

 世界経済を不安感が覆う中、不変の価値を持つ金が安全資産と見られているため、このところ金の価格が上昇を続けているようだ。調べてみると、10年前に比べて4~5倍も値上がりをしている。買い取り業者が、所かまわず電話しまくっている理由が分かった。

 そういえば先日、知人が「今、金が高騰している。使っていない指輪やネックレスを引き出しの奥から探し出して、いい値段で買い取ってもらった」と話していたことを思い出した。私には無縁な話ではあるが、今一度、我が家にはどんな貴金属があるのか考えてみた。 

 純金製の指輪やネックレスなどは何もない。金歯もない。腕時計や装飾品など、金に見えるものはみんなメッキだ。仏壇も金色に光ってはいるが金箔か。こればっかりは、罰が当たるので剥ぎ取るわけにはいかない。結局、買い取ってもらえるような金製品など何一つ持っていないことを改めて認識した。

 そんな中、書斎で探し物をしているとき、久しく開けていない小物入れの引出しを開けてみた。父がはめていた手巻きや自動巻き、電池駆動の腕時計が何個も出て来た。その奥から、鈍い金色の指輪が転がって出て来た。装飾は何もないシンプルなものである。

 内側に小さな四角の刻印がしてある。虫めがねを取り出して見ると「24K」と読める。おっ、これは24金か。小さく胸が躍る。純金の発掘に気を良くして、私の装身具をチェックすると金色のネクタイピンが出て来た。これには「18K」と刻印がしてある。

 

 思いがけなく成り金の誕生だ。いやいや、父が残してくれた形見である。簡単に買取屋さんに持ち込むなんてことは出来ない。小さなお宝を丁寧に元の位置に収めたが、図らずも秘密のへそくりが出来た。  


「エッセイとは」

2012年02月06日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 パソコンでネットサーフィンをしているとき、エッセイストの宝彩有菜(ほうさい ありな)さんのブログに出会った。その中に「さぁ、エッセイを書いてみよう」という項があり、エッセイとは何かを書いている。

 「
日常はすべてエッセイです。 エッセイとは、『自分』が考えたり、感じたりしたことを、自分も含めた、他の人に伝えるということです。ですから、『自分』が必ず入っています。個性のある『自分』がエッセイの中に入っていませんと、それは、レポートとか、記事になってしまいます。

 また、エッセイは、その短い文章の中で、一つのテーマが完結しているのが特徴です。 作者はその文章で、言いたいことを、言い得ているということです。 このように考えていきますと、エッセイを書くと言うことは、つまりは、『自分』を書くことになります。一つの花を見て、その花の描写をするだけではなく、その花に対して自分がどう感じているのか、何を思うのか、何を思い出すのか、そのような自分の心の動きを文章にして書き出していくことになります。

 そこで、『ああ、私は、あまり日常に感動することがないから、エッセイはなかなか書けないわ。もっと感動的な人生ならエッセイも書けるのに』と思う方がいるかもしれませんが、それは、アプローチが逆です。 ビックリしたこと、驚いたことがあれば、エッセイが書けるのではありません。 エッセイを書くことによって、自分の『感性』や『思考』を掘り出していくことに、エッセイを書く意味があるのです。 日常をすべてエッセイにする。そのつもりで、まずは観察してみてください」と。

 今まで、内容の如何にかかわらず、よしなきごとを
何でもいいから文字にすればエッセイだと思っていたが、これを読んでみるとそうではない。大切なことは、書いた文章の中に個性のある「自分」が入っていなければエッセイとはいえないという。

 「写真エッセイ」と題して、今まで書いてきた私のブログを読み返してみると、「自分」の入っていないレポートとか記事に類するものも結構沢山ある。ブログのタイトルに偽りがあることになるが、まあ、前述のことが分かった上で、レポートとか記事も紛れ込ませているんだと思い直すことで、今日もエッセイもどきを書いてみた。明日からは正調エッセイを書いてみよう。その前に「自分」さがしが必要だ。
 


リーダーシップ

2012年02月01日 | 生活・ニュース

日経新聞に「ビジネススクール」というコラムがある。「成長へ導く8つの秘訣」と題して、リーダーのすべきこととして、8つのルールが紹介してあった。20世紀最高の経営者に選ばれた米ゼネラル・エレクトリック(GE)の前CEO(最高経営責任者)ジャック・ウェルチが書いた「ウィニング」から引用したものである。

 

8つのルールとは(1)チームの成績向上を目指して一生懸命努力する。あらゆる機会をとらえて、チームメンバーの働きぶりを評価し、コーチし、自信を持たせる (2)部下にビジョンを理解させるだけでなく、ビジョンにどっぶりと漬かるようにさせる

 
(3)みんなの懐に飛び込み、ポジティブなエネルギーと楽天的志向を吹き込む (4)率直な態度、透明性、実績を通じて信頼を築く (5)人から嫌われるような決断を下す勇気、直観に従って決断をする勇気を持つ 

 (6)うたぐり深く質問し、部下が行動で答えるようにさせる (7)リスクをとること、学ぶことを奨励し、自ら率先して手本を示す (8)派手にお祝いする

 
8つのルールの中には相反するものもあるが、リーダーは様々な相反するニーズのバランスをとる必要がある。これは難しいことだが、逆に言えばそれが「難しくてできない」と言い訳をする人はリーダーの資格がないということだと書いてある。

 さてこのリーダーシップ論、大勢の部下を率いている現役のビジネスマンだけの話ではない。家庭の中のお父さんやお母さん、ちょっとした仲間の世話役さん、同好会の会長さんなど、小さなグループのリーダーに対しても当てはまる話のようだ。

 今現在、私の家庭は夫婦2人だけの組織。定年退職後、主導権争いはずっと続いている。未だどちらがリーダーかは定かではない。言ってみれば日替わりのリーダー。いや、担当業務別のリーダー制。食事関係は奥さん、力仕事は私という類だ。

 奥さんが食事を作ってくれたときには、(1)「お前の作ったものはおいしいよな」と言って自信を持たせ(2)今夜は何が食べたいかはきちんと言っておき(3)何か手伝おうか、など優しく言ってみる(5)甘すぎたり辛過ぎたときにはその旨伝える(8)おいしかった時には、感謝の気持ちを表し、ワインなどを出して派手にお祝いする、などが差し当たり亭主の立場のリーダーシップ論か。