まつたけ山復活させ隊運動ニュース

 松茸は奈良時代から珍重されてきたが、絶滅が心配される.松茸山づくりは里山復活の近道であり里山の再生は松茸復活に繋がる.

マツタケは林地栽培できる

2018年12月25日 |  マツタケの林地栽培 

マツタケの林地栽培法を2回に分けて掲載します.

再生アカマツ林にマツタケが復活

マツタケとは

担子菌類の仲間で、ハラタケ目キシメジ科キシメジ属マツタケ(和名)、学名Tricholoma matsutake(S. Ito et Imai)Sing.といわれる特有の香りを持つ大型の食用きのこである.隔膜を持つ多細胞の菌糸からなり、単相核を持つ一次菌糸と複相核を持つ二次菌糸が見られる.有性的に作られる胞子はきのこのヒダの担子器の上に4個できる.

マツタケの生活様式は、有機物の分解能を無くし(腐生性ではないということ)、生きた植物(寄主、宿主、ホストという)と相利共生関係を持つすなわち菌根性である.マツタケは、寄主樹と共生しないとその生活環が完結しない(子実体をつくらない).

マツタケはその化石が見つからないため、いつから日本にあったか定かではない.万葉集に 『高松の この峰も 背に笠立てて 満ち盛りたる 秋の香のよさ』という歌がある(783年?、万葉集2233 巻第十秋 雑歌、詠み人知らず).これは、奈良県高圓山の尾根道に発生するマツタケを詠んだと思われる.どうしていち早く奈良に登場したのか?寄主樹の分布とその登場を理解する必要がありそうだ.

 

マツタケの寄主植物は?

マツタケの寄主植物は、主に、マツ科植物(カラマツ・ヒマラヤスギなどを除く)とブナ科コナラ属やシイ属の一部である.日本ではアカマツ、クロマツ、ハイマツ、アカエゾマツ、トドマツ、ツガ,コメツガ、シラビソ、ヒメコマツなど、朝鮮半島ではアカマツやチョウセンゴヨウ、アメリカ大陸ではダグラスファー(ダグラスモミ;トガサワラ属)やツガの仲間やコントルタマツ(ロッジポールパイン)、地中海沿岸ではレバノンスギ(マツ科)、ヨーロッパではアカマツの仲間である.

東南アジアの一部、中国雲南省辺りにはマツ科植物以外に、シイ、コナラなどの仲間をホストにするマツタケがある.日本にもシラカンバの仲間であるオノオレをホストにするマツタケが岩手県岩泉町にある.ヒノキ科のネズ(野外で)やセドロ(センダン科:人為的)に感染するが、子実体は見たことがない.

現在のマツタケ産地は?

中国、日本、朝鮮半島、ネパール、ブータン、モロッコ、アルジェリア、トルコ、スゥエーデン、フィンランド、ノルウェイ、カナダ、U.S.A.、メキシコなどが知られる.ロシアも輸出国である(財務省).いずれも北半球の中緯度~北極圏に位置する.

 

まつたけを好むのは日本人!

中国のある地域では、香りが彼らの好みに合わないらしく皮を剥いで、ニンニクと辛みのあるトウガラシを効かせたきのこ炒めか油ぎとぎとのきのこ鍋の具材である.Woo~n!

やはりマツタケの産地である韓国では、慶州(Kyongju)の人は昔から松茸を好んだという.その食べ方を見ると、表皮を剥いだ松茸の薄切りを肉と焼いて食べる.あるいは、同じく表皮を剥いでスライスした松茸に薄切りニンニクをのせ、加熱せずに生を食べている.「旨いか」と訊くと「美味しい」と返事が返ってきた.我々から見ればこれもWoo~n!.ヨーロッパでも好まれず、アメリカ大陸、アフリカ大陸、オーストラリア大陸の人たちも香りを嫌う.しかし、例外もありますね!10月6日、米国ペンシルバニア州ハヴァホード大学の学生がまつたけ山復活させ隊にやって来た.彼は、マツタケの傘を鼻に付けて香りを嗅ぎ、マツタケの香りが「大好き!」とニコッとした.

 

人とアカマツとマツタケの関係

里山林は、古くから、集落近辺の林を薪炭林として繰り返し利用することによって生まれた.また農業用水を育み緑肥を提供するため、農業とも深い関係を持つ.水田と共に全国的に拡がったと考えられている.

日本で、マツタケの生産量の多い寄主樹はアカマツであり、日本のマツタケはアカマツの存在抜きには考えにくい.里山の中核的存在は里山林で、里山林の過度の利用は、アカマツ林を登場させた.人がアカマツ林を育てそれをホスト樹にマツタケが生活するという関係で結ばれている.

里山は豊かな生物相

日本の緑はかつてないほどの豊かさである.でも、最近の京都三山は、5月といえば、シイの花の黄緑とスギ・ヒノキの深緑とのパッチ状で奇異な景観である.山の姿がなんか変だと思いつつも、「緑が豊かなことは良いことだ」と人は思ってしまう.しかし、豊かな緑の中に棲んでいるはずの生き物が、絶滅したり生活を脅かされていたりする.これは変じゃないか!絶滅を危惧される動植物の50%が里山の生き物である.

日本では、細菌・ウイルスを除いて94,500種の生物が記載されている(生物多様性センター、2000年).環境省のレッドリスト(2018年)によれば、動物の評価対象約41,936種の内2819種(7.1%)が、維管束植物評価対象約7,000種の内2159種(30.1%)

が、菌類評価対象約3,000種の内160種(5.3%)がレッドリストに上がっている(動植物・菌類あわせて5,715種=9.9%掲載).マツタケも絶滅が心配される菌類である.世界では、91,523種の動植物や菌類などを評価し、そのうち26,840種(29.3%)を、特に絶滅のおそれの高い「絶滅危機種」として掲載した(2018年11月、国際自然保護連合).

「里山林なんてなくてもよいよ」と考える人は多い.果たしてそうでしょうか!里山林の生物に果たす役割は、今も昔と変わらない.里山とのふれあいを無くした現代人は、縄文時代から里山で育まれた自然観や人間観や感性を無価値化させ、人の命をも軽んじる現在の風潮を生み出していると思えてならない.

マツタケとアカマツは相利共生

日本では、まつ-たけと言うように松林に生えるきのこと考えている.英語圏では,日本語訳以外の何ものでも無く、Matsutake Fungi(or Mushroom)、Pine Mushroomと表現.

マツタケはチッ素やリンというミネラル分をホスト植物に与え、糖類をホスト樹種からもらうなど相利共生関係を維持する.また、土壌病原菌からホスト根と自分を守る.感染するとホストの成長が良い.アカマツとマツタケは良いパートナーシップを築けるが、アカマツをホストとする菌根菌はマツタケモドキ、シメジ類、テングタケの仲間、イグチ類、クロカワなどいろいろある(200種以上というデータもある).

マツタケは、アカマツなど寄主になる植物がなければ、その生活は成り立たない(子実体が出来ない).一方、アカマツはマツタケがなくとも生活できる(マツタケの代わりを準備).両者は、絶対的相利関係を築くまで進化していないと考えている.どちらかといえば寄生的である.

 

アカマツ林の登場とマツタケ

花粉分析によると、日本にマツ属の花粉が急増した時期は、500年頃と考えられている(長野県野尻湖、大阪府羽曳野市).奈良時代になると、照葉樹林の活用が激しくなり、はげ山が誕生、アカマツ林が内陸の山の尾根筋に侵入・定着したのである.奈良県高圓山にマツタケが発生し、まつたけ狩りの様子が万葉集にうかがえる.

平安時代には、人口の増加とともに相変わらず寺院や住居、道具のための材や毎日の薪炭・柴や肥料としての刈敷や落ち葉などの需要も飛躍的に増えた.そのために、平安京周辺の原生林が破壊され、アカマツが都周辺にも登場し(7世紀頃)、マツタケも増えてきた(905年 古今和歌集 マツタケ狩りの歌が見られる).しかし、平安京周辺の山には林が無くなり、亀岡や周山から材など物資を持ち込んでいる.都は相当な物資不足であったらしい.

鎌倉時代~室町時代になると、公家達も入浴がこの上ない贅沢と記している.しかし、全国的にもアカマツ林が増え、天皇や公家、高級僧侶がマツタケ狩りを楽しみ、盛んに贈答しあっている(三条実房 愚昧記).徒然草(吉田兼好、1330年頃)に、「きじ、松茸などは御湯殿の上にかかりたるもくるしからず、その外は心うきことなり」とあって、鯉とともに雉、松茸は高級食材であるとうかがえる.松茸狩りは、季節の移ろいを味わうという、大切で外すことが出来ない行事となった.定家が内裏に参内すると天皇は松茸狩りに出掛け、帰りは遅いとのことと日記に記している(藤原定家 明月記).関白近衛政家公は、「1467年9月28日宇治に行って椎の実を拾わせてまつたけをとったが、大層面白かった.一献かたむけて夕方帰参した」とある.応仁の乱の最中である.10月11日にも紅葉狩りに出かけて「余以外みな泥酔.正体も無く前後覚えなし」とある(後法興院日記).秀吉も伏見の稲荷山でまつたけ狩りを大いに楽しんでいる(翁草).

江戸時代にも、“下﨟の口にはかなわない”しろものであったが、京都の錦小路や大阪天満にまつたけの市がたち、金持商人が買っていたようである(本朝文鑑、支考編).与謝蕪村に言わせると “松茸や食ふにもおしい遣るもおし”いものであったようだ.元禄の頃には、嵯峨産が良いとか北山産がいいとかブランド化している.

明治以後の治山治水工事によって、はげ山がアカマツ林化し (千葉徳爾;はげ山の研究)、1930年代にその面積は極大となり、生産量が増えてくる.その頃、マツタケが「蹴飛ばすほど生えた」とか言われたが、1941年(昭和16年)の12,222tの生産量を最高に、戦中、戦後の木材伐採圧力増で減少し始め、1960年頃からその生産量が大きく減少している.直近の10年間の年平均生産量(2008-2017:52.5t)は、1930年代(7582t/年)の0.7%である.2015年、京都市場で30万円/Kgの値が付いた.いま、外国産も減っていて、輸入量は787tであるが、安価に売られている(2017). 続く

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