まつたけ山復活させ隊運動ニュース

 松茸は奈良時代から珍重されてきたが、絶滅が心配される.松茸山づくりは里山復活の近道であり里山の再生は松茸復活に繋がる.

まつたけ山復活させ隊 NEWSLETTER 1274 人とアカマツ林とマツタケと

2017年12月25日 |  マツタケの林地栽培 

質の劣化した緑が増えている

マツタケの生活しているところといえば、誰でも松林でしょうと答える。その通りで、アカマツ林は、歴史を辿るとご存じのように、私たちは、長い間、集落近くの山の資源を採取して生活を維持していたのである。

ところが、昭和30年(1955年)以降の高度経済成長が、その長い歴史を激変させた。燃料源は山の柴や薪炭から石油中心に、肥料は植物の若枝など緑肥から化学肥料に急転換した。その時から日本の緑は、都市域であれ中山間地域であれ、かつてなく量的には豊かになってきた。

なのに、である。緑が多くなったにもかかわらず、かつて私たちの周りにいた「ありふれた生き物」、たとえば、カタクリやフクジュソウやヒメシャガなどの季節を感じさせてくれる野草など、メダカやチョウ類やニホンイシガメやニホンウサギなど、また里山の食物連鎖の頂点に生きるオオタカやイヌワシなどがおかしなことに減り続けている。

逆にニホンザルやイノシシやニホンジカなどは増えすぎて獣害を引き起こし問題となっている。生態系の均衡が狂ってきている。増えすぎても問題、減りすぎても問題、何事もバランスが取れている必要があるのではないだろうか。

林というものに、原生林や里山林、人工林がある。それらの林が生まれてきた経緯の違いで呼び方が異なる。原生林は、原生林として維持する方法を生まれながらにして持っている、人工林は、人がある材を生産する目的で作り上げた林である、例外としては明治神宮の森がある。里山林は、人が林の資源を利用した結果できあがった生態である。

放置しておいてもいい原生林に対して里山林と人工林は人の手が入らなければ、里山林はほかの林に移行するし(極相林に遷移)、人工林も目的とする木が無くなったりもする。同じ木々の集団だからといって、決して同じではない生態系でその守り方も違ってくる。

その維持方法で、面倒なのは里山林といえる。人工林は残す木がはっきりしていて手入れ方法がわかりやすく育林技術も進んでいる。里山林では、マツタケの生活する里山林の再生方法は、アカマツを優占させることだとわかりやすいが、そのほかの里山林は、どの木をどの程度伐るのか或いは残すのかという基準を設けにくいという難しさがある。

何故ならば、人間の物資の採取(搾取)行為は、人の都合で決めていたのだ。生活に必要なものを適宜集めていたに過ぎないが、でも、その生態に果たしてきた役割は選択圧をかけることであった。

人が物資を選択採取することは、林内の樹種を淘汰することにつながる。このようにして今の里山林が造られてきたのである。その力を得られなくなった、すなわち人手の入らなくなった二次林(遷移林)である里山林は、樹種間の生き残り競争の激化などによって、たとえばアカマツやコナラのような優占種が生きにくい環境になったと言える。木を持ち去らない分、緑は量的に増え山は太ったが質的にはやせ細っていったのである。

かつて人によって保たれていたバランスをなくした里山林は、人手の入っていた時とは異なる緑が増え、陽射しも風通しも悪くなった。これは半自然である里山林の変化であり、実は自然に回帰したのであるが、里山林の崩壊を意味している。

人が縄文時代から作り上げてきた生態系に適応した生物が、いま人が利用しないがために崩壊する里山から追われていると理解する必要があるのではないだろうか。これが、実は今のありのままの里山の姿である。しかし私たちは、どれだけそれに気づいているだろう。里山の荒廃と考えねば里山の回復は望めないと訴えたい。

止まらない緑の質の劣化

日本人には、里山の意味するところのおぼろげな共通認識はあるが、その科学的というか生態学的定義は定かでない。言葉の登場は比較的古い。尾張徳川藩の『木曾御材木方』という「公文書」で、「村里家居近き山をさして里山と申し候」(宝暦9年;1759)と、今、里山と考えている生態系と同じような意味で用いている。

里山について、植物生態学者で里山研究会代表の田端英雄さんは次のように語っている。

「里山林は農業用水を涵養し、肥料を供給する形で農業と密接につながりをもっているので、里山林だけでなくそれに隣接する中山間地の水田や溜め池や用水路、茅場なども含めた景観を里山と呼ぶことにする。縄文時代以来人々が利用しながら維持してきた里山は,いわば人工的な安定社会である。集落、林、耕作地ときには採草地が入り組んだ日本の農村の景観は、見る人に安定感を与える。日本人は里山との関わりの中でその感性を養い、里山との関わりの中で日本の文化をはぐくんできた。」(里山国際セミナー;1994)。

これは、京都府と大阪府と奈良県に跨がる地域に、筑波学園都市を模した構想の実現による開発の是非を問うため、民間人と大学人協同でなされたアセスメントに端を発する里山研究会の中間発表である。以来、マスメディアに里山コールが始まったように思う。

国は、「里地里山とは、原生的な自然と都市との中間に位置し、集落とそれを取り巻く二次林、それらと混在する農地、ため池、草原などで構成される地域です。農林業 などに伴うさまざま人間の働きかけを通じて環境が形成・維持されてきました。里地里山は、特有の生物の生息・生育環境として、また、食料や木材など自然資源の供給、良好な景観、文化の伝承の観点からも重要な地域です」といっている。

民間も国もその定義に開きはないように思える。しかし、同じエリアを民間では農業用地と林業用地の一体性から両者を含めて里山といい、特に林を指すときに里山林と呼んでいる。一方、国は里地里山と表現していて、農業用地と林業用地を併記した印象を持ってしまう。

アカマツ林の登場と崩壊

環境考古学者の安田喜憲さんは、花粉分析から、縄文時代には瀬戸内沿岸にのみ見られたマツの花粉が、西暦500年頃になると、本州特に西日本、四国、九州で増加を見せるが、人間活動がアカマツ林を生んだと説明する。鎌倉時代になると本州一帯に特に増加、日本列島東北部には、江戸時代から明治の初めにかけて増加したことを明らかにしている。焼畑式農業、たたら式製鉄業、塩田業などが原生林をハゲ山に次いでアカマツ林に変えたと考えている。余談だが、朝鮮半島では既に6500年前には、アカマツ林が豊富であった。

植物生態学者吉良竜夫さんは、稲作が伝わり、刈敷という広葉樹の若枝やササ、青草などを採取し水田に鋤き込むことで、マツ林がマツ林として維持されたと生態学的に説明を付けている。窯業にはアカマツの薪がたたら式製鉄業にはアカマツの炭が必要なので、こういった産業はアカマツ林を大切に育てていた節がある。また薪炭生産業はナラ炭生産を主としたため、コナラ林を生み育てた。コナラ林などは萌芽林と呼ばれて、切り株から新しい枝が真上に生長し、20年も経つと元の状態に戻るため、薪炭の再生産に都合のいい林であった。森林の過剰利用による幾たびかの森林破壊を経験しつつも、江戸時代以降、日本では林の持続的利用がなされていた(コンラッド タットマン:日本人はどのように森をつくってきたのか、築地書館)。

が、日本のエネルギー源が全面的に、石油中心の化石資源に変わる時がやってきた。東京オリンピックの頃といって間違いはない。日本の近代化は急ピッチで進んだ。

それ以前の日本人の生活の多くは、木材、柴に薪炭、肥料など必要な物資を里山から集めたり加工したりしなくては成り立たないため、生産者でもあり消費者でもある里山の住人だけでなく、都市生活者の生活も里山という生態系に相当な部分を依存していた。そのような生活は前近代的でレベルが低いこと、といわんばかりに、日本を挙げて、近代化に突き進んだのである。その中で、人口の大都市集中に伴う過疎地域の拡大は里山の放棄を促し、賃金の高騰や丸太輸入の完全自由化(1961年)は里山の木の競争力を奪った。

森林資源の利用は、石油エネルギー源と比べると、確かに効率が悪い、不便である。そのことが、益々里山を価値の低いものとしていった。今のような緑いっぱいの山を作り出すことになった。効率、効率・・・と費用対効果を追求する社会に塗り代えられていったのである。そのことを見直さなければ、21世紀も20世紀の社会の有り様を是とした社会の延長にすぎなく、資源の生産を伴わない里山再生・保全はあり得ないだろう。

 

木を伐らないことは良いことか?

以前、林野庁の組織の一つに営林署があった。戦後のシャープ税制で現業部門は独立採算制が採用されているので、国有林の樹を伐って維持費を捻出していた。どんどん奥地に立派な木を求めて伐り進んで行かざるを得なかったのである。足らない分は国民の税金をつぎ込んだ。

その裏返しが「樹を伐らないことはいいことだ」である。それを正当化するように、ひととき、「割り箸を使うな!My箸を持ち歩け!」と国民的大合唱がマスメディアで喧伝もされた。割り箸は、除伐材か間伐材を元に作られている。その利用は里山保全に繋がっていると考えたがよい。

もともと人が林を利用する行為が生態系に組み込まれることによって里山林は成立していたのだから、人がそれを放棄すればその生態系は成り立たなくなってしまうのが当然の帰結である。里山という生態系が生存し持続していくための基盤は、新しい“林業”をつくることであろう。松茸産業育成、環境教育の場、癒やし空間などに利用する。

里山とは、先にいったように奥山とは異なる。「“里山の木は石油と比べて価値がないので切らない”、また“山の木を切りすぎたから保全の立場で木を切らない”、それはいいことだ」という現象が、里山崩壊の〝生みの親〟でありこれも森林破壊である。

森林破壊というと、すぐに熱帯雨林など原生林の無秩序な開拓や乱伐、違法伐採などを話題にしがちだが、里山は適度に伐らないまま放置すると逆に林の活力の低下と破壊が起こるということを忘れないでいただきたい。そこが、何度も言うが里山と原生林の違いだ。

里山の手入れも、単に樹を伐っているだけではない、マツタケ復活を狙うアカマツ林主体の里山再生・保全は、科学的なマツタケ山づくりの方法論がある。そこがはっきりしないほかの里山であっても、もちろん、樹木の生理生態や樹木間の関係と、そこで暮らす人の都合など十分知り、考えた上で伐るわけである。そうした生活の知恵が縄文時代から続く里山の暮らしの中にはいっぱいあったのだ。

里山を構成する二次林は現在全国に770万㌶あるといわれ、その内訳はミズナラ林180万㌶、コナラ林230万㌶、アカマツ林230万㌶、シイ・カシ林80万㌶、その他50万㌶である。これに農地などを加えると日本の国土の4割となる。これは今の数値でアカマツ林などはもっと多いと思える。京都府の話だが、1951年にはアカマツ林の面積は10万haを越えていたが、2000年代では6.8万haに減っている。しかも、昔のように元気な状態で残っているのでなく広葉樹の中で喘いでいる。昔の絵地図に見られるように、日本の景観はマツ林優占である。里山といえばアカマツ林という時代が長く続いていたに違いない。

その広大な里山林と農地などの荒廃が進んでいるが、今の日本では放棄された里山はお荷物と位置づけがなされている。二次林は遷移林なのだ。このまま放置しておけば、必ず、亡くなる。里山保全というテーマも同時に消えると考えられる。

全くその通りだ。国は、そこに住んでいる生き物のことや日本人の原風景の果たす役割など里山の機能などを本気で考える必要があるだろう。

私たちはどう向き合っていくのか、大変な苦労と大変な犠牲抜きには解決できない大きなテーマである。このまつたけ山復活させ隊のような活動は全国に見られるがこの運動の輪が広がり、これをもとの里山に戻すことが大切だと国民的合意がなされたとしても、その費用は誰が出すのかという議論に終始するであろう。そんな時間はもはやないと思うべきだ。

 

ヒトと里山林

毎日の日常的生活必需品を採取するというだけでなく、既に触れたが各地に見られる産業の影響が大きい。たたら式製鉄法、これは、ふいご(たたら)を踏んで空気を送り高温状態の炭で鉄を還元し鋼を作るのだが、炭にはアカマツのものが最高と記されている(下原重仲著「鉄山必要記事1784)。

しかし、これは1857年に南部藩大島高任が近代的溶鉱炉を岩手県釜石市に設置するまでのことだが。窯業、当時は燃料源は電気やガスでなく薪で、これも1200℃という高温を得るには樹脂の豊富なアカマツのものが良いとされている。

アカマツが必要な産業といえるだろうが、今では登り窯もほとんど見当たらなくなっている。ほかに、ハゲ山からアカマツ林化という遷移を考えると製塩業や焼き畑式農業なども大きな選択圧である。人はこのようにして、里山という生態系を造りだしたことになる。

里山のシンボルであったアカマツ林からは、春先、水田に肥料や土壌改良用として鋤き込む刈敷を採取するので、当然、刈り取られたアカマツ以外の木は大きくはならない。言い換えれば、アカマツの競争相手を人が押さえ込んでしまうわけだから、他の木が被い茂ることもない。また、農閑期には集落こぞって落葉を集めていた。

 

アカマツとマツタケ

陽樹といわれ「日光大好き」のアカマツは〝我が世の春〟である。林全体の土壌は貧栄養の状態が続くだろう。このため、アカマツは必要なミネラルを提供してくれるパートナーをほしがる。

その相手となるのが菌根性のキノコ(200種以上という)。アカマツはマツタケを選ぶことが多いのかマツタケがアカマツを選んでいるのかすら分かっていない。アカマツと共生関係を営むキノコは、マツタケだけでなく恋愛競争に負けることもある。しかし、マツタケはなぜか杉や檜或いはマツ科のカラマツを決してパートナーにしない。

とにかく栄養分が少ない土壌があって初めて、両者にとって真に都合の良い共生関係を結ぶことができるのである。マツタケを感染させた場合、アカマツの生長が良いことも分かっているが、両者の共生関係は以下のように微妙なものだ。

土壌の富栄養化が大敵

先述のように、高度経済成長以降、生活方式を変えた私たちは、急速に里山林を利用しなくなった。すると、アカマツ林ではそれまでと逆の変化が生じた。競争相手の樹木が茂り、しかも採り手もなく林床に残された落葉は微生物の活動によって、それは年とともに腐植として土の上に堆積していった。そうなるとアカマツ林の土壌は、人手が入っていた時と反対に富栄養化し、広葉樹向きの山に質的変化を来すことになる。

栄養たっぷりミネラルたっぷりの厚い腐植層があると、アカマツは吸収をになう細根を腐植層に伸ばしてくる。マツタケの生活帯は、鉱物質層といって腐植層の一つ下の層である、分りやすくいえば褐色~茶色の土である。その土の上層に根が集まれば、マツタケの生活帯にはマツタケ菌糸が感染できる細根が減ることになる。これはマツタケの住む家がなくなることを意味する。土地が肥えるとアカマツは共生相手がいなくても栄養摂取が容易となり、マツタケは「お役ごめんのお払い箱」とばかり感染を拒否され、根っこに付けなくなってしまう。実際、実験室では、肥えた土壌で或いは水分を多くして育てたアカマツ苗は、マツタケ菌を接種しても菌根形成率がガクンと落ちてしまう。

腐植が溜ると、もっと都合の悪いことが起こる。秋に、マツタケ子実体はつぼみ状態から生長して、大きく開いたマツタケの傘の裏のヒダから落葉の上に落ちた胞子は、細根と出会うためには、腐植層をかいくぐって土の中に潜り込まなければならない。といっても胞子の自動的な運動があるわけではなく、虫や雨水に運ばれると想像している。しかし、腐植層を通り抜ける際にマツタケの胞子は腐植に捕捉されたままとなり、これでは、地中にある頼りとする細根とであうことすら許されない。腐植の中で胞子が発芽したとしても、アカマツの細根をめぐる戦いにマツタケの菌糸は勝てないだろうし、マツタケは貧栄養の土の中でしか生活できないため、あえなく死ぬことになる。

それに、なんとか無事に土の中までたどり着いても、栄養たっぷりの土中には、マツタケの競争相手の微生物も沢山いるだけに、それらに負けてしまう。たとえ根に出会っても感染を拒否される。そして、マツタケ単独ではエネルギーの補給が絶えてしまい、これではマツタケの新しい命は生まれない。世代が途切れることになる。土の富栄養化はマツタケにとっては致命傷である。

かくして、アカマツとマツタケの共生関係が維持できなくなる。すると、アカマツにも「問題なし」とはいかない運命が待っている。栄養豊かな林内土壌では、アカマツは広葉樹など他の種類の樹木の方が競争力が高く優勢になり、次第にアカマツの樹勢は弱っていくことになる。すると、菌根性キノコが追い出され、マツタケから利益を受けていたアカマツは病害虫に対する抵抗力も落ちてくるなど考えられる。これは、今あちこちで見られるように、アカマツ林からその土地の極相林に遷移する速度を速めた現象で、これは普通のことで自然なことである。

生物の多様性の喪失

でも、昔から里山に適応した生物の住処を奪うことであると既に述べた。このように里山という生態系は、原生林のような森林と違って人が干渉してつくり上げた生態系だということを理解しておくこともいわゆる森林問題を考える重要なポイントである。

旅行すると、車窓から赤茶けたマツの姿に気づいた方は少なくないのではないだろうか。これが、アカマツが直面している厳しい環境の現われだ。いわゆる松枯れ病、マツノザイセンチュウ病による被害である。この被害は1905年(明治38年)長崎県で最初に確認された。今のアカマツ大量枯損の始まりだった。アメリカから上陸した木材の中に線虫が入っていたことによる。後、マツノザイセンチュウと名をもらう新種だ。以来105年、被害は年々日本列島を北上し、日本海側ではすでに青森県に到達している。太平洋側では岩手県中部に至っている。マツノマダラカミキリの蛹と線虫を持ったマツ材の輸送によるといわれている。また、きつい斜面上部のザイセンチュウ病枯損木の放置が新たな感染を生んでいったのである。京都も含めて、まつたけ産地といわれる地域でのアカマツの枯損被害は、まつたけ産業、秋を味わう食文化にとっては致命的である。外国産まつたけでは置き換えられないところが大である。

京都の周りの北山、東山、西山の景色が変わってきた。常緑樹林が目立ち、京都の山を、秋、美しく彩る紅葉が減っている.春には異様なシイの花に興ざめする.都市景観にとっても大きなマイナスと言える。京都の伝統的行事であるお盆の五山の送り火の薪はアカマツを用いているが、このままでは、その薪の確保が難しくなってくるのではないか。アカマツの薪を確保するためにもアカマツ林再生活動を主導している。

マツタケ林地栽培は、今では作業が大変だが、容易であることを学んだ。コツコツと教科書通りに山づくりをするだけである.まつたけ山復活させ隊は、2016年、京都岩倉の活動拠点香川山でヒノキ-ソヨゴ林から再生されたアカマツ林に、京マツタケを40年ぶりに発生させた.無から有を味わったのである.

来年は、倍増だ!の思いも虚しく大物マツタケ1本の発生に留まった(写真1).

写真 1. 今年はこれ1本だった.

理由は、図1に示したように10月4日から始まる子実体原基刺激後の(10月8日~10日まで)生長の高温障害の発生に尽きる.

図 1

泣く子と地頭とお天道様には勝てません.

                            高文研刊.まつたけ山復活させ隊のなかまたちから抜粋、改変

                            (株)トロント刊. ここまで来たまつたけ栽培                        

                                         吉村 文彦

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