まつたけ山復活させ隊運動ニュース

 松茸は奈良時代から珍重されてきたが、絶滅が心配される.松茸山づくりは里山復活の近道であり里山の再生は松茸復活に繋がる.

アカマツ林とマツタケ-3- 

2005年07月20日 | マツタケの生理生態

マツタケ増産はアカマツ林の保全である
原生林は、人による、結果的にであるが、破壊で禿山になり、その禿山はアカマツ林として再生したため、アカマツ林は2次林(遷移林)といわれる.そのために、人手が入らず放置されると,林内は広葉樹の立木密度が増加して薄暗く湿潤となるため、典型的陽樹であるアカマツの幼樹は成育できない.アカマツ林は、その生理生態的特徴ゆえに、その土地のクライマックス林に置き換わる運命にある.アカマツ林は活用しなければ,必ずなくなるのである.
1960年頃から始まる高度経済成長による私達の生活や農業や林業の近代化で、里山林は開発されその面積が激減した.残った林は放置され、その地域の極相林に遷移しつつある.炭の生産は、1955年にはピークを過ぎた.早いところでは、その頃に放置されていたといえる.放置された林床には,落葉や腐植が堆積する.そんなアカマツ林土壌には、糸状菌,細菌,放線菌やそれらをエサとするセンチュウなどの生息数が、マツタケの発生するアカマツ林土壌のそれと比べると非常に多くなっている.このことは微生物との競争に弱いマツタケにとって致命的なことであるばかりか,アカマツもマツタケの感染を拒否する傾向にある.
アカマツ林土壌の富栄養化は、樹木の生長を助ける菌根性のキノコの生活を許さなくなるため、林は不健全で低生長になり、病気にも弱く(マツの材線虫病)、人が期待する森林機能も低下する.アカマツ林構成樹種の葉面には,二酸化炭素よりも地球温暖化に影響の高い一酸化炭素やメタンを資化=吸収する細菌Methylobacteriumが、大量に生活している.アカマツ林の減少は、森林機能の一部を担っている葉面細菌の生活空間を奪っていることでもある.マツタケが生活することは、アカマツ林が健全である指標であり、マツタケを増産することは、アカマツ林を保全することと表裏一体である.
写真は、里山林再生ボランティアの活動である.
-続く-

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アカマツ林とマツタケ-2-

2005年07月16日 | マツタケの生理生態

里山林(アカマツ林)の登場
写真は、まつたけのトンネル栽培(虫除けにもなる)
昔、人は自分とその家族の生活のために炭や薪、柴などエネルギー源を集落近辺の原生林で調達した(これは雑木林になった).住居や神社仏閣を造るためにもあるいは土木工事用にも膨大量の材木を伐採している(禿山化推進).木製用具の材料採取も原生林であった.また、食糧生産には農地に肥料を施すが、肥料用の落葉や刈敷(緑肥)の採取もなされた(アカマツ林を生んだ).
このような原生林の活用が人口増とともに激しさを増し、終には原生林という生態系から新しい里山林という生態系を創出するのである.いつ頃からアカマツ林が、今は全国的にはマツノザイセンチュウの害で減少しているが、日本列島にこれほどの密度で見られるようになったのであろうか.
花粉分析によると、瀬戸内沿岸では、6500年前頃にはアカマツ林は存在していた(安田喜憲 1980).本州、四国、九州で、アカマツ花粉が優占する時期は西暦500年頃からであるが(塚田松雄 1974)、その急増期は鎌倉時代以降で、東北地域へのアカマツ林の拡大は江戸時代後半から明治の初め頃である(安田喜憲 1995).明治の初めまでは、日本の里山は、草山や禿山が多かったが、明治以降の砂防工事によって、禿山からアカマツ林が再生したという(吉良竜夫 2001).

マツタケもあわせて登場
奈良時代に、マツタケは内陸の山の尾根筋に侵入してきたアカマツ林に登場し,まつたけ狩の様子が万葉集にうかがえる(高松のこの峰も背に立ててみちさかりたる秋の香のよさ).平安時代には、素性法師が北山にキノコ狩りに出かけて「もみぢ葉は袖にこきいれても出でなむ 秋は限りと見む人のため」と詠んでいる(古今和歌集).平安京周辺の原生林が破壊され、常緑広葉樹林がアカマツ林に代わっていることが読み取れる.鎌倉時代にもなると、マツタケ発生量も増えてきたのか、室町時代にかけて天皇や公家が盛んにマツタケ狩を楽しみ,贈答しあっている様子が日記に見られる.
しかし、江戸時代でも、林の激しい活用で禿山が多く、マツタケの生産量は少ない. “松茸や食ふにもおしい遣るもおし”いものであり(蕪村),また“下臈のロにはかなわない”代物であった(本朝食鑑、人見必大).時代が下って、昭和10-20年代は,マツタケが「蹴飛ばすほど生えた」とか言われたが,昭和16年の12、222tの生産量を最高に,昭和35年頃からその生産量が激減している.これは、アカマツ林を含む里山の現況を反映しており、2003年はその150分の1に減少している.
-続く-

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里山林(アカマツ林)とマツタケ -その1-

2005年07月13日 | マツタケの生理生態

 森林をその成林過程で分けると、原生的森林と里山林と人工林に分けることが出来る.人が干渉しない方がよいといえる生態系は原生的森林のみである.多くの人が、森林はすべてアンタッチャブルが良いと思っているようだが、それは間違いである.里山林を放置して置いたために、マツノザイセンチュウ病によって写真のようなアカマツ林になってしまったのである.

はじめに
 環境省のレッドデータブック(2000年)によれば、およそ7000種の維管束植物の23.8%が絶滅危惧種に挙げられている.絶滅の恐れのある動物・植物の生息域は、その多くが里山であることが最近分かってきた.植物に依存している動物、特に、以前どこにでもいた昆虫で絶滅危急種に指定されるものがでている.訪花性昆虫がいなくなることは、虫媒花植物が絶えることを意味し、また、これらを餌とする鳥類に影響が出てくるはずだ.すると、それらの捕食動物も絶滅の恐れをまぬかれない.日本でも、 669種の動物が絶滅危惧種とされている.国際環境NGOコンサベーションインターナショナルが「地球規模での生物多様性が高いにもかかわらず、破壊の危機に瀕している地域(ホットスポット)」に日本列島を指定したように、絶滅の恐れのある動物や植物の種数は、残念ながら着実に増えている.マツタケも、人による森林破壊によって生まれ,最近の森林放置による「破壊」によって,その生を終わろうとしているのかもしれない.
マツタケとは
 マツタケはカビの仲間であるが、独特の香りを呈する大型の子実体(キノコ)をつくる.おがくず栽培が出来るキノコと異なり、生物遺体を分解する能力を欠いた菌根菌である.マツタケという菌根菌は生きた植物(宿主)の細根に感染し,光合成産物である糖類を宿主から摂取する.逆に宿主は,土壌中に伸びた菌糸が集めたミネラル類を受け取ったり,マツタケの菌根が作る微生物排除物質で土壌微生物の攻撃から根を守られている.また,菌根はホルモンを分泌し、アカマツの根をサンゴやフォーク状に分岐させ、根の吸収面積を増やしている.アカマツとマツタケは共生関係にあるといわれる所以である.宿主は日本においては,アカマツ,クロマツ,ハイマツ,トドマツ,ツガやコメツガなどであるが,マツタケの生産量の多い宿主はアカマツであり日本のマツタケはアカマツの存在抜きには考えにくい.
-続く-

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マツタケの食文化考-4-

2005年07月06日 | マツタケの生理生態

マツタケの食文化考-4- 
マツタケを扱った古い文献は、まだまだあるが、筆者の専門ではないので今回で閉じることにします.この項を書くにあたっては、同志社女子大学の小原弘之先生に色々教わりました.この場で感謝いたします.
本草学上では
薬用になる植物などを研究する学問を本草学と言います.
1695年(元禄4年)に、人見必大が「本朝食鑑」と言う食物誌を著している.その中に食用菌として、茸芝類の項に、初茸、標芽茸、鹿茸、椎茸、平茸、榎茸、木海茸、石茸、松露と並んで松茸が書かれています.形態、生態、薬理、栽培、貯蔵法などが解説されている.少し紹介すると、「松茸はわが国の菌蕈の中の第一のものであり」、発生場所は「つつじの樹の多い赤松林で陰い所に」、「八から九月頃」発生する.「地面から出るときに木の葉がくっついて視つけにくい」.「五月に生じるものを俗に早松茸」という.最近は、九州は熊本県で、4月ごろに、Kg当り100万円ほどで取引されている.形状は、「柔滑、香美、甘脆さは諸茸よりも勝れ、大きいもので、一尺くらい.小さいもので一~二寸」.非常に興味深いことに菌根の観察です.「根の下に鬚があり、窠をなしている.これを俗に松茸の蔓といい」と言う記載はマツタケのShiroあるいは活性菌根帯の概念である.「これを採って栽培すれば、生えなかった地に生える」と人工栽培法を記載している.もちろん、この方法の成功例はありません.
貯蔵法には、「八、九月に鮮いものを採って淹蔵し、陰幹して、全国に出荷する」.塩蔵の方法は、「白塩を炒過り、松茸の生える処の砂土と合わせて、その中に漬け、松葉で覆う」.これを「俗に松葉塩」と言い、他に「生塩漬」や「寒水漬」法もあり「豆腐の滓に白塩を和して漬けるのも佳い」と書かれている.
「気味」という項には、長い下痢や虚脱には「乾し松茸の石突を細く伐り、二、三枚を鯨の陰茎の陰乾一銭と一緒に味噌汁に煎じ、服用すればたちどころに癒える」とあります.効能は分かりません. 
 大和本草(貝原益軒、1709)にも松茸が解説されているが本朝食鑑の焼き直しに見える.
 重修本草綱目啓蒙(1803、小野蘭山)では、香蕈と扱われていて、松茸の産地、等級、品定めが載っている.「松蕈マツダケ、一名松耳、松花菌、鎕蕈」といわれ、八九月に生ず.「京師は丹波より出す者、最早けれども味劣れり下品なり、蓋の色黒を帯ぶ」と昨今では、最高といわれる丹波まつたけは評判がよくない.「深草稲荷山の産は甚大にして味優れり、蓋厚く白色にして堅し上品なり」・・・・・、更に続けて、嵯峨の産は、4品種あって色よく香りが良いと最高級となっている.
 まつたけ十字軍は、岩倉の整備作業が終われば、まさにここに記載されている最高の京まつたけを産したといわれる嵯峨嵐山付近のアカマツ林の手入れに入るつもりである
菌譜上では
 現在のキノコ図鑑といったものを菌譜といいますが、「日光菌譜、1766」、「菌譜、1767」、「信陽菌譜、1799」等に松茸お国自慢もありますが、江戸時代には松茸の分類学は相当進んでいたようです.皇和菌譜(1791、曽占春)にツガ、コメツガ林に出るものを「栂松茸」と記載されています.岩手山の北側斜面や富士山麓で、また、長野県では全域に発生している.
マツタケの学名が変わる?
ところで、松茸の和名は、マツタケ、学名が、今、色々と騒がれている.遺伝子解析では、日本のマツタケは、8つのタイプに分かられるという.
マツタケの学名は、先述したように、Tricholoma matsutake(S. Ito et Imai) Singerであるが、それがPriorityの関係から危ぶまれている.
1834年、イタリアのVivianiが著した「イタリアの菌類」にTricholoma caligatum(Viv.) Rickenを科学的に正確に記載しています.外国では、松茸は嫌われると書きましたが、当時のニースでは「生でかむと少し酸っぱく、焼くと良い」と書いてあるそうです.スゥエーデンでは、1854年にFriesがマツタケの標本を残しています(T. nauseosum).本朝食鑑(1695)の記載は正確な図はあるが、標本も無く科学的記載にもとると考えると現代の分類学上の約束事から我々が欧州マツタケと呼ぶTricholoma carigatum(兵隊の靴の意)になるかもしれません.ちなみに、アメリカマツタケはTricholoma magnivelareといいます.
 
マツタケをこれほどまでに珍重する人種は、日本人だけである.このマツタケを絶やさないように、また、絶滅危急種・危惧種の50%が里山と言う生態系の生物であることから、この生態系を守るためにも、マツタケ十字軍は、マツタケの聖地再生活動を展開させていきます.
 ご支援・ご援助をお願いします.
なお、第4回の活動は、7月9日、10時30分、岩倉です.

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マツタケの食文化考-3

2005年07月02日 | マツタケの生理生態

図は、マツタケのトンネル栽培で、虫食いを防いだり生長の同期を取ったりできる.

 和歌では松茸を詠むことはご法度だった
松茸を歌に詠むことを許されるようになったのは、
「閑窓自語(1749年 )」によると、「この年の9月の歌会に柳原光綱が、あかずなほ茸狩くらし帰るさに木の実を拾う秋の山ぶみ」と詠んだところ、時の上皇桜町院が「内々の和歌にはこの後よみ入れてもも苦しかるまじく」と仰せられたとある.
  
平安の女流文学には、マツタケの形態から疎まれたのかまつたけは登場しないが、狂言にも「独りまつたけ」と言う番外編がある.また、江戸小咄にも小咄だけにエロチシズムが強いものあれば、「笑長者(安永9年)」に、きのこと宿主の樹種の関係を小話にしたものが見られる.

 俳句の季語としては、まつたけは秋である.
 茸狩一般を詠んだ句は非常に多い.
茸狩やあぶなき事に夕しぐれ(芭蕉)
茸狩や山よりわめく台所 (許六)
茸狩や頭を挙げれば峰の月 (蕪村)
枚挙に暇も無いほどである.初茸、椎茸、耳茸、舞茸、しめじ、栗茸、いぐち、こうたけ、ならたけ、ちちたけ、ねずみたけ、たまごたけ、さくらたけ、、なめこ、てんぐたけ、つきよたけ、べにたけ、さるのこしかけ、マッシュルームも題材になっている.

 茸狩というとまつたけ狩を意味する句も多い.
人多き松茸山の日和かな (杷栗)
茸狩やしばらく探る松林 (格堂)
松茸の山かきわくる匂かな (芭蕉)
松茸や知らぬ木の葉のへばりつき (芭蕉)
松茸や一つ見つけて闇の星 (曽堂)
松茸も笠ほす雨の晴間かな (宗因)
松茸や都に近き山の形 (惟然)
松茸や人にとらるる鼻の先 (去来)
茸狩や浅き山々女づれ (子規)
茸狩や女に勝ちをとられけり (一茶)
よき人や松茸山を狩りくらし (碧梧桐)
山でのむ酒は別なり木の子狩(打海枝鳳)
茸狩のから手で戻る騒ぎかな (一茶)
秋もはや松茸飯の名残かな (子規)

 俳句には、マツタケを読み込んだものがたくさんあるが、その全部は紹介しきれないので、このあたりで閉じることにしよう!どうでしょう、皆さん、クスリと来る句がありましたか?
では、続く.

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マツタケの食文化考-2-

2005年06月29日 | マツタケの生理生態

まつたけの食文化考-2-  

 さて、前回の続きであるが、日本人は、マツタケを好んで食べたり楽しんだり、五感で味わったという.公家も、マツタケには目がない人が多いようである.
 
例えば、関白近衛政家公は、「1467年9月28日宇治に行って椎の実を拾わせてマツタケをとったが、大層面白かった」.一献かたむけて夕方帰参した」とある.応仁の乱の最中である、いつの世も実際に戦うのは庶民ばかりなのか.10月11日にも紅葉狩りに出かけて「余以外みな泥酔.正体も無く前後覚えなし(後法興院日記)」.
戦いの前線にいるのは、どこの国でも時代を問わず こういう人ではないらしい.

 秀吉は大変なマツタケ好きのようである.
老人雑話(伊藤担庵)の中に山城の内山里に梅松が松を植林したところ、間もなく“マツタケが発生した”と秀吉に献上.秀吉 “ご威光、まことにさもあらん”と喜ぶ.調子にのって数回マツタケを献上したところ、“もはや献ずることをやめさせよ.生い過ぎる”と注意を受ける.
秀吉はマツタケの発生法を良く知っていたようである.
 翁草(江村専斉)に伏見の稲荷山でマツタケ狩りをすると急に言い出した.奉行たちはすぐに山止めをさせた.しかし、すでに人に採られていたのか、稲荷山にマツタケは1本も無かった.急遽、他の山から取り寄せ植え松茸をしたのである.当日、秀吉もお女中も大いにマツタケ狩りを楽しんで、いざ帰城と言うとき女中の一人が“何事にも御抜かりのない明智の君にあらせても、これ丈はご承知あそばさぬと見える”と口を滑らせた.しかし、太閤はそんなことはとうに知っていると人の好意を考えるようにその女中を諌めるくだりが紹介されている.

 この頃も、今と同じで、松茸を採ったことやマツタケの発生する場所は採る人の秘密であったようである.「きのふはけふの物語(日本古典文学大系:岩波書店)」に、「吉田殿の山には松茸がはへ候えども、松茸の有るよし、よそへ聞こえ候えば、むつかしきとて、ふかく隠密なさるる」.長岡幽斉に送る際、念の入ったことに、「これは、われらが山に生え候えども、世上へは隠密いたし候えども、其の方へ進じ候.よそへ御かくし候」.と添え状を書いていることなどが紹介されている.

江戸時代の初め、金閣寺の鳳林承章禅師の日記である隔蓂記(1632-1668)を解析した近代マツタケ学の創始者 濱田 稔先生(1972)によると、金閣寺の裏山で採れたマツタケを克明にその日の天候や送り先が記してあるそうだ.1636年から1650年までは、出たり出なかったりを繰り返しているが1655年から5年間は300本台の収穫で、1661年には1055本、1662年には2050本と急増している.当時の気象とマツタケの発生との関係を知ることが出来る.
他に伏見稲荷神社の宮司による稲荷山のマツタケの発生などを記した記録がある.徳川将軍への献上に用いたことなどが書かれている.

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マツタケは、このように、昔から好まれていた

2005年06月23日 | マツタケの生理生態

マ ツ タ ケ の 食 文 化 考-1-

マツタケの産地は、日本、朝鮮半島、サハリン、中国、台湾(玉山、八通関)、ブータン、トルコ、モロッコ、アルジェリア、スペイン、フランス(ニース、19C)、スゥエーデン、フィンランド、北米大陸など.
マツタケを好む民族は日本人.やはりマツタケの産地である韓国では慶州(Kyongju)の人はマツタケを好むが、他は興味を示さない.中国のある地域では、香りが合わないらしく皮を剥いで食べている.ヨーロッパ・アメリカ人、アフリカ人も香りを嫌う.
しかし、今は、各地の日系人などが松茸に特別な気持を抱いて探し求めたことによって、結構現地の人たちも食べる人が増えているのも事実である.

日本では、まつ-たけと言うように松と茸という両生物をセットで考えている.(英語圏ではMatsutake Fungi とかMatsutake Mushroomと表現:学名はTricholoma matsutake (S. Ito et Imai) Sing.
何回で終了にになるか検討してないので分からないが、兎に角、前に進もう!
 

奈良時代になると、万葉集(8世紀)に、題は詠芳(2233)で、
「高松のこの峯も背(迫)に笠立てて満ち盛りたる秋の香の良さ」
とマツタケの生態を詠んだと思われる歌がある.
本居宣長は題は詠芳ではなく、詠茸の間違いという.この歌はマツタケの生態を詠んだという説(窪田空穂、鴻巣盛広、阿蘇瑞枝、沢潟久孝、小清水卓司)といやこれは「芳」すなわち蘭でフジバカマを詠んだもの(土屋文明)という2説がある.
また、大和の山は古い地質でマツタケの適地ではないのでマツタケと結論付けられない(小幡弥太郎)という説もある.しかし、マツタケの生態から見て、大和の国が必ずしもマツタケ不適地とはいえないし、開きのマツタケが数本尾根筋に生えることはアカマツ若齢林ではあることである.

平安時代になると、古今和歌集(905年)卷第5 には、素姓法師が北山に僧正遍正と茸狩りにまかれりけるによめる
「紅葉は袖にこきいれてもていでなん 秋はかぎりと見ん人のため」

拾遺和歌集(1005年)巻第7
「あしびきの山下水に濡れにけりその火先づ焚(松茸)衣焙らん」
「いとえどもつらき形見を見るときは先づ猛(松茸)からぬ音こそ泣かるれ」

愚昧記(三条実房の日記:1177年)
「9月26日、西山にある光明寺へマツタケ狩りに行って、山上の竹の柱のあずまやで酒を飲んだ」とある.

明月記(藤原定家:1206年)
「9月3日、御所へ参内すると、天皇はマツタケ山へお出かけになって、お帰りは夜更けである」とある.

鎌倉・室町時代の公家、僧の日記を見ると、マツタケ狩りを楽しみ、互いに贈りあっている(極めてワイロ性が高いという).松茸を戴いたから飲もうと誘われると、飯を持参で駆けつけている.朝から夜まで飲んだと言うような日記が多い.当時の習慣らしい.

 もう、この頃には、マツタケは高級食材として認知されていたようである.
徒然草(吉田兼好:1331年)、第118段に「鯉ばかりこそ、御前にてきらるるものなれば、やんごとなき魚なり.雉、松茸などは、御湯殿の上にかかりたるも苦しからず」.
次回に続く

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