Wind Socks

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小説 囚われた男(21)

2006-12-31 11:22:15 | 小説

13

『バーニー』に入った生実は、店内を見回すと午後十時だというのに混み合っていた。ジムがいつものように微笑んで迎えてくれた。テルマが目ざとく見つけて近づいてきた。
「ハーイ、元気? 二日か三日ほど前、久美子が来たわよ」
「そお、増美と二人で?」
「うん」といって浮かない顔で返事が返ってきた。
「どうしたんだい? いつものテルマじゃないね」どうやら増美とうまくいかず、久美子との三角関係に悩んでいるようだ。
生実は、ちょっと意地悪な気分で
「明日の夕方六時ごろ、女の友人がここへ来ることになっているんだ。彼女はビアンだと言っていたなあ。興味ある?」テルマのいたずらっぽい目がキラリと光った。
「どんな女(ひと)?」早速テルマの詮索が始まった。
「素敵な人だよ。今はこれだけ」
「いやーね。意地悪!」とテルマ。
「だって明日本人が来るんだから実物を見たほうがいいだろう?」生実は、これでこの話は終わらせたかった。テルマは納得したらしく「わかったわ。じゃあ、あとで」言い捨てて歩み去った。

 店内は、一人の男や女も多くそれぞれの思惑に弾みをつけたいと、野生の動物のように目だけが異様に輝いている。こちらを向いて品定めしている女も何人かが見える。男も見ているのには苦笑いする。
 久美子や増美、それに小暮さやたちの抜群のプロポーションやルックスの前では、比較にもならないと言ったら、女たちは猛烈に怒るだろうなあ。などと考えているうちに、自分の運命を決めなくてはという思いに捕らわれていた。

 東の妻、(本当は潜入捜査官)や子供を殺すというのはとても出来ない。殺し屋としてクールになる訓練を積んだが、子供もターゲットとなれば、意識の奥深いところで生実が本来持っている情という感情が頭をもたげてきつつあった。生実が東の妻や子供に手をかけなくても、誰かが仕事をするだろう。そして自分も道連れになる。
 小暮さやの言うことが本当かどうかは大して問題でない気がしてきた。生き残る手立てとしては、千葉やその背後にあるものを叩き潰すことしかない。よしこれで決まりだ。

 生実は、ジュークボックスの曲をジョニ・ミッチェルが五十代後半に歌ったなんともロマンティックな「青春の光と影(ボス・サイド・ナウ)」を選んだ。ゆったりとしたメロディ・ラインはうっとりとさせてくれる。この曲は亡き妻の一番好きな曲で、今でも聴き入っている姿が鮮明に思い出せる。

 春の暖かいそよ風にゆれるレースのカーテンの陰から、澄んだ瞳をこちらに向けながら微笑んだ姿を。ジュークボックスにもたれかかって目を閉じていると、瞼の奥に熱いものがこみ上げてくるのがわかった。おおよそ十年の間、無かった感情の発露だった。
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読書 ポール・リンゼイ「鉄槌」

2006-12-29 11:19:05 | 読書

              
 クック郡刑務所に爆弾が仕掛けられた。仕掛けたのは、クロアチア移民のコンラッド・ツィーヴェンで、彼の娘が誘拐されたがいまだに解決していない。
 FBIに問い合わせても「捜査を続けています」の繰り返しに業を煮やし、爆弾の解除と引き換えに真剣な捜査を要求する暴挙に出た。

 FBI捜査官ジャック・キンケイド、ポーカーゲームのギャンブル狂で身持ちが悪くすでに妻とも離婚している。しかも銀行の夜間金庫に罠を仕掛け、投入される現金を抜き取っていた。

 黒人の捜査官ベン・オールトンは、ガンで片足を切断しているが、こちらは真面目人間だった。
 FBIシカゴ支局長ロイ・K・ソーン、かなりやり手であるが、FBI内で政治的に巧妙な立ち回りを嫌悪していて、そこのところをうまくやればもっと上にあがれるという意見が多い。それでも実力で今の地位についていた。

 ソーンの側面援助でジャックとベンが、ツィーヴェンの娘の遺体を発見して事件を解決するが、その犯人は殺されていた。
 そして突き止めたのは元刑事のトラーベンという男だった。この男がベンの娘を誘拐してFBIを翻弄する。必死の追跡でトラーベンとジャックが死亡して一件落着を見る。

 FBIや警察も人間の集団で成り立っている以上、政治的駆け引きや助け合いもあるにせよ、その反対に足も引っ張るという人間くささも併せ持っている。
 それでも犯罪に立ち向かう姿を、元FBI捜査官だったポール・リンゼイが鮮やかな切り口で読者に提供してくれる。
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小説 囚われた男(20)

2006-12-27 16:52:11 | 小説
 部屋は寒かった。このアパートメントは、入居条件に火事を心配して、ガス・ヒーターやファン・ヒーター不使用に同意させられていて、エアコンとオイル・ヒーターで温めている。 オイル・ヒーターは大型のため、電気代がかなり高くつく。生実はオイル・ヒーターの温かみが好きだ。エアコンとオイル・ヒーターのスイッチを入れる。

「飲み物は、何にする?」
「わたし、コーヒーをいただこうかしら」六畳ほどのキッチンは機能的で、生実は一人身の気楽さで、いつも食事はキッチンで摂っている。部屋はリビング・ダイニングと寝室が二つ、そのうちの一つは書斎として使っている。古い建物ながら使い勝手はいい。欧米スタイルで靴を脱ぐことはない。

 生実は部屋にいるときはいつも足の疲れを取る部屋履きを愛用している。部屋の照明は間接的でフロア・スタンドとウオール・ライトで部屋に影を作り、落ち着いた雰囲気を醸しだしている。
 生実はコーヒーを持ってリビングのソファに座っている小暮さやの前のテーブルに置いて「どうぞ」とすすめる。そのままステレオ装置に近づきビル・エヴァンスのアルバム「ワルツ・フォー・デビー」を挿入する。
 この5.1チャンネルのシステムで部屋がコンサートホールのようにピアノとベース、ドラムのアンサンブルに包まれた。

 小暮さやは、なぜか気分が癒されるのを感じた。男の部屋でこんな曲を聴かされるのは、本来何か下心がある場合が多い。さやにはむしろ生実の優しさと受け取っていた。会話のしやすい雰囲気が漂っていた。早速用件を切り出した。
「さっきの続きだけど、私のことをすべてお話しするわ。まず、私はレズビアンなの。だから生実さんのお宅であっても気にしないと言ったの。相手が誰でもこういうことをすることはないわ。生実さんのことをよく分かった上でのことよ。
 二つ目は、生実さんに協力をお願いしたいの。私の上司の千葉をマークしているのよ。これはもっと上の方からの指令でね。この組織はかなり複雑なの。
 なぜマークしているかと言えば、千葉が地位を利用して危険な取引に手を出している疑惑によるの。例えば、麻薬や銃の密輸入、人身売買までと範囲は広いわ。そういうことで、いつか千葉を消すことになるかもしれない。
 あともう一つ付け加えなきゃいけない事があるの。生実さんのターゲットだった東、その東の妻は実は潜入捜査官なの。どうやら千葉も感づいたようだから、生実さんに委ねたようね」
 
 生実は大きな溜息をふーっと吐き出した。何てことだ。女はレズビアンで、消す相手は潜入捜査官ときた。与えられた仕事を遂行しなければ自身の存続は考えられない。
 一世一代の窮地とはこのことか。この女の言うことも本当かどうかも分からない。やみくもに信じていいのだろうか。あまりにも危険すぎる。と考えながら東の部屋で見た写真を思い出していた。あの豊満な魅力的な女が捜査官? と考えながら言葉は
「一晩考えたい。いいかな?」と口走っていた。
「いいわ。でもあまり時間はないの。だってそうでしょう。千葉からの指令を理由もなく引き伸ばすことは出来ないでしょう?」
「ああ、分かった。出来るだけ早く返事をするよ。ところで、タクシーを呼ぼうか?」

 タクシー会社に電話のあと「途中まで同乗するよ。じっくり考えたいので行きつけのバーまで」タクシーの中では無言だった。
『バーニー』の前で降りるとき小暮さやが生実の頬にキスをして、にっこり微笑んで「さよなら」と言った。
「明日この店で夕方六時ごろ、そのとき返事をするよ」
「いいわ、わかった。それじゃ」
運転手に二万円を手渡し、これで足りるだろうから彼女を無事に届けてくれ、それに釣りは君のものだといいながらドアを閉めた。運転手はうなずいて車を発進させた。

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読書 三島由紀夫「金閣寺」

2006-12-25 11:07:49 | 読書

            
 昭和25年(1950年)7月2日未明青年僧、林承賢(21歳)の放火によって金閣寺が全焼した。逮捕されたときその理由について、「世間を騒がせたかった」「社会への復讐のため」などと言っていたが、実際のところは「自身、病弱であること。実家の母から過大な期待を寄せられていること。同寺が観光客の参観料で運営されており、僧侶よりも事務方の方が幅を利かせるなどの現実から、厭世感情から来る複雑な感情が入り乱れていた」《ここまでウィキペディアからの引用》
      
      焼失前の金閣寺    
      
         その後再建された金閣寺
 書き出しは“幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。写真や教科書で、現実の金閣をたびたび見ながら、私の心の中では、父の語った金閣の幻の方が勝ちを制した。父は決して現実の金閣が、金色に輝いているなどと語らなかったはずだが、父によれば、金閣ほど美しいものは地上になく、また金閣というその字面(じづら)、その音韻から、私の心が描き出した金閣は、途方もないものであった”

 この金閣が一人の人間の精神風土に、多大な影響を及ぼしていく様を、美しい文体と論理的な肉付けで、さきの世俗的な放火理由より一段と昇華させる。
 哲学的な思考に恐れをなす私は、むしろこの金閣が、主人公のアバンチュールを邪魔することに奇異でもあり面白がってもいた。

 友人の下宿の娘とキスをして、娘の太ももに手を差し入れようとしたとき金閣が幻のように現れる。何もしない主人公に、娘はさげすみの目を向ける。
 また、友人の女であった相手が乳房をむき出しているにも拘わらず、またもや金閣が現れ悄然として、女から障子の音高く締め出される。

 とはいえ、金閣寺を焼失させようと決めた後は、郭で女と交わっても金閣の邪魔はなかった。全体から見ればこんな俗物的記述はほんのわずかで、この作品の品位をいささかも損なってはいない。
 難解な記述や単語が出てくるが、それでも惹きつけられるように読み進められたのは、三島由紀夫の天才的文才なのだろう。

 この作品は昭和31年(1956年)《新潮》1月号~10月号に発表された。三島文学の代表作の一つに数えられている。そして、米、英、フランス、ドイツ、フィンランド、スウェーデン、スペイン、デンマーク、オランダ、イタリアで翻訳出版されている。
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小説 囚われた男(19)

2006-12-23 12:59:41 | 小説

12

 指令どおり東を処理したあとの呼び出しに応じて、何度か来た代々木公園の駐車場に、いつものようにいつもの場所でいつもの車のそばに千葉がたたずんでいた。
「新聞を見たか?」挨拶抜きでいきなり聞いてきた。
「いえ、見てません。確実に死んでますよ」
「うん、それは確かだ。捜査も難航しているようだ。遺留品も一切なかったそうだ。ただ、目撃証言が中年女性から出ている。感じのいい若い人とエレベーターで会ったという。
 東とは何の関係もない君だ。大丈夫、心配はいらない。ところで、次の指令だ。東の妻と子供がターゲットだ。彼らは知りすぎている。東が寝物語に細かく話していたらしい」生実は一瞬息が出来なかった。
「いつというのは君に任せる。ただし、急いで欲しい。それじゃ」千葉は走り去った。

 生実は悩んでいた。いままで女子供のターゲットはなかった。妻と子供の悲惨な事故を、いやでも思い出した。生実の殺し屋のクールな面が徐々に溶け始めていた。東の妻子を俺が殺さなくても、誰かがやるだろう。千葉の背後にあるものはいったい何なのか。巨大なとてつもない抗し得ない何かがある。その何かは謎だった。ひょっとするとチャーミングな美女が、謎を解く鍵なのかもしれない。

 生実は監視されているのを意識しながら、イタリア料理店『ジロー』で夕食を摂ることにした。自分の身の安全は、いまや選択の余地なく危機に直面していた。
 もはや殺し屋ではなかった。自分の命はともかく、東の妻子をどう助けるか? 東を殺しておきながら、矛盾した感情にも苦しめられる。
『ジロー』は相変わらず混んでいた。カウンター席に座る。料理は、暖かくても冷たくても美味しいスープ「ミネストローネ」、しっとりとしたパン生地の中に柔らかな豚肉を包みオーブンで焼いた「豚肉の包み焼き」、絶望のパスタと呼ばれ、具のない貧相なパスタであるが美味しい「アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ」とワインの白をボトルで注文する。
 今日は誰にも煩わされずに、一人でゆっくりと食事を楽しみたかった。料理が運ばれてきて、よく冷えたワインを一口含むと、酸味と果物の甘みが気持ちよく鼻腔と胃を刺激した。ふたたび思いにふける。
 どうしても、あの指令が重くのしかかってくる。ふっとこういう風に食事を楽しむのも最後になるかもしれないという考えがよぎった。

 食事が中ほどまで進んだとき、生実の横に気配を感じて振り向くと、あの美女がにこやかな笑顔で立っていた。ボーイッシュな髪型に薄くアイシャドウとこれも薄く口紅をひいている。もともとパッチリとした目許なのでより印象的だ。黒いコートが色白の顔を浮き立たせて、ふっくらとした唇がとてもセクシーに映る。
「食事は済んだ?」
「いえ、まだよ」
生実は、丁度空いた二人席に移れるようにウエイトレスに頼み、追加でパスタと白ワインも注文する。
 席に着き、コートを脱いだ美女は、グレイのハイネックセーターが体にぴったりと張り付き、胸の隆起はその下で雨宿りできるほど出っ張っていた。生実はじかに本物かどうか確かめたくなったが、意志の力で押さえ込んだ。
「いままで何度もお会いしていたのに、自己紹介してなかったわね。小暮さやです」
「私は生実清です。これで正式に名乗りあったわけだ。それじゃあ、まずお近づきに乾杯しょう」
店内は暖房で程よい温度に保たれ、冷えた白ワインが至福の時を告げてくれるようだ。
「美味しいわ」と半ば目を閉じながら小暮さやが呟く。
「話は変わるけど、今日千葉からどんな話があったの」と瞬く間に事務的な口調になった。
 生実は一瞬戸惑った。なぜ小暮さやがそんなことを聞くのか不思議だった。用心しなくてはいけない。その件は、極秘事項だからだ。ちょっと探りを入れる必要もあるかもしれない。
「小暮さん、内部事情はよく知っているでしょう? 秘密を漏らすわけにいかないよ。そんなことをしたら私が責められる。二度と口が利けなくなる」
口が利けなくなるは、周りに人がいる場合の婉曲表現で、死を意味している。
「ええ、よく分かっているわ。やり方によっては、私も同じことになるわ」
「一体どういう事なんだ?」
「うーん、ちょっとここではまずいと思うの。生実さんのご自宅はいかが?」
「いいよ。いいけど無茶じゃないかな。男の一人住まいだよ?」生実は心にもないことを口走っていた。小暮さやは平然として
「平気よ。生実さんを信用しているし、それに……」一瞬、間が空いた。
「それに、なんだい?」生実はせっかちに詰問調になった。
「そうね。生実さんの部屋に着いたらお話します」小暮さやは、いい? というように眉毛を上げておどけて見せた。
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映画 「グッドナイト、&グッドラック(‘05)」

2006-12-21 13:08:13 | 映画
 マッカーシーは、1948年ごろから1950年代半ばの反共産主義者運動の急先鋒を担い、政治家、軍隊、映画産業、テレビなどのメディアへの追求で魔女狩りといわれて恐れられた。
              
                マッカーシー 
 この映画の背景となるマッカーシー対テレビ番組についてウィキペディアから引用すると
“マッカーシーへのもっとも有名な攻撃のひとつは、ジャーナリストのエドワード・R・マローによるテレビのドキュメントシリーズの「今(それを)見よ(See it Now)」の中の一編で、それは1954年3月9日に放映された。
 ショウのほとんどはマッカーシーの演説のクリップであり、それは否定的反応のほとんどがマッカーシー自身から生まれるようにしたものだった。
 このクリップの中で、マッカーシーは民主党を「20年間にわたる裏切り」(1933年~1953年)と非難し、陸軍大将を含む証人をどなりつけた。
 この放送は大衆に大きな反響とマッカーシーへの不信を巻き起こし、反マッカーシー派を勇気づける結果となった”
               
                 エド・マロー
 ジョージ・クルーニーが、今では珍しい白黒の色使いで制作した。カラーにない深みがあって印象的だ。出演者の自然な演技も見応えがある。屋外の撮影はまったくなく、挿入音楽もダイアン・リーヴスの歌うジャズが効果的でしかも6曲のみという控えめに徹している。
               
 その6曲をエンディング・クレジットから拾い上げてみると
  《When I fall in love》
  《I’ve got my eyes on you》
  《How high the moon》
  《TV is the thing this year》
  《You’ve driving me crazy》
  《One for my baby》
 そしてこのダイアン・リーヴスは、深みのある声が高音から低音まで淀みなく繋がって聴き惚れてしまう。風貌は、最初の映像でブッシュ政権のライス長官を連想した。

 監督 ジョージ・クルーニ
                
 キャスト デヴィッド・ストラザーン1949年1月サンフランシスコ生れ。1980年からの芸歴。この作品で、ヴェネチア国際映画祭で男優賞を受賞、アカデミー主演男優賞にノミネートされようやく花開く。
                
 ロバート・ダウニー・jr1965年4月ニューヨーク生れ。
 パトリシア・クラークソン1959年12月ニューオーリンズ生まれ。
 レイ・ワイズ1947年8月オハイオ州生れ。
 ダイアン・リーヴス1956年9月デトロイト生れ
なお、この作品は2005年アカデミー賞で作品賞、主演男優賞、監督賞、脚本賞、撮影賞、美術賞にノミーネートされた。
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小説 囚われた男(18)

2006-12-19 11:31:05 | 小説

11

 翌朝は、午前11時に目が覚める。きのうの事故や取調べで疲れていたのだろう。千葉という男はどんな用件を持ち出すのか、想像もつかない。千葉という男と会うのは初めてで、吉岡の件を電話してきて以来だ。あの千葉という男も謎めいているし、昨夜の女性も同じで、腑に落ちないことが多い。それにしても彼女もチャーミングで魅力的だったなあ。

 なぜ、こんなことを考えるのだろう。妻や子供の恨みを晴らし、気分が高揚しているためか。人を殺しておきながら自責の念や憐憫の情が湧かないのはどうしてだろう。生実は、意外にすっきりとしている自分に驚いていた。
 コーヒーを一杯飲んで、きのうと同じピーコートをはおって、正午に地下鉄駅に向かって自宅を出た。
 千代田線の代々木公園駅には早めに着いた。上空は、晴れた冬空が青く塗りつぶされ、十万本にも及ぶ木々は、深山を思わす森に迷い込んだような気分にさせてくれる。
 春先、ちょうど新緑のころには、フィトンチッドのやわらかな感じのいい匂いを発散させて、ウォーカーやジョッガーそれに散歩をする人々に香りのシャワーを浴びせる。しばらくぶらついたあと生実は、駐車場に向かった。
              
                 代々木公園駐車場
 駐車場の隅に一人の男が車に寄りかかっていた。中背の少し太り気味で、窮屈なこげ茶で縦縞の入ったスーツに身を押し込んでいる。年恰好は五十前後か。無帽の頭髪は薄くなり始め、白髪が混じっている。レイバンのサングラスをかけているが、なぜか滑稽な感じがする。
 寄りかかっている車は何の変哲もないセダンで、地味なグレイをしていた。近づいていくと車はトヨタのハイブリット車であることが分かった。男はちらりとこちらを向いて、それから下を向き手にもった紙を見つめた。そして口をゆがめるようにほころびの小さな笑みを浮かべた。
「千葉さんですか?」と生実が訊ねた。男は頷いただけだった。
「きのうの演技はまずかったな。もうちょっと上手くやるかと思っていたが。ただ、その度胸と実行力は見事だ」そこまで言うと言葉を切りじっと見つめてきた。何か言うことがあるかと言っているようだ。
「じゃあ、すべてご存知だったんだ。それに警察の方にも手を回したと?」
「うん、それは君の想像に任せるよ。ところで、用件に入ってもいいかね。一つ、君にわれわれの一員として働いてもらいたい。二つ、アメリカで訓練を受けてもらう。費用は一時君持ちだ。金額は五千万円ぐらいだ。あとで報酬として支払われる。もっとも、形は分割になるがね。一員といったが、これは言葉の綾で、私と君と、あときのう使いに行った美女の三人だけだ。何か質問は?」
「お断りしたいと言ったら?」と先が読めているが聞いてみた。
「それは自由だ。ただ、殺人罪で起訴されるだろう」生実の想定した範囲内だった。
「アメリカで何の訓練をするのですか?」
「一言で言えば殺し屋の訓練だ。ずっと観察してきて、君はぴったりの資質を備えている。だから白羽の矢を立てたんだ。けちなチンピラのような仕事はさせない。大物がターゲットだ。これ以上深く詮索は禁物だ。知らない方が身のためだからな。最初に言っておくが、ターゲットを指示されても、理由は聞かないこと。私も言わない」
「少し考えさせてください」いくら考えても答えは分かっていたが。
「即答は期待していなかった。明日の午後一時でどうか。君のよく行くイタリア料理店で、あの美女を使いに出すが?」
「ええ、結構です」千葉は車に乗り込み駐車場を出て行った。何の挨拶もなく。

 そんなわけで、生実は結局応諾しアメリカの訓練施設に入所した。そこでは、殺人の基礎から始まって、体の死の急所、そこを攻撃するさまざまな武器の習熟。ナイフやアイスピック、拳銃、ライフル、エンピツを使ったり新聞紙を武器に変える事まで。毒薬、最後に武器を使わない殺人テクニックとサバイバル術までありとあらゆる訓練を二年続けて帰国した。そして、千葉の指令を待つ身になった。
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読書 三島由紀夫「美徳のよろめき」

2006-12-17 12:54:39 | 読書

               
 こんな書き出しで、この作品は始まる。“非常に躾のきびしい、門地(もんち=家柄)の高い家に育って、節子は探究心や理論や洒脱な会話や文学や、そういう官能の代わりになるものと一切無縁であったので、ゆくゆくはただ素直にきまじめに、官能の海に漂うように宿命づけられていた、と言ったほうがよい。こういう婦人に愛された男こそ幸せである”

 それに三島の女性観が垣間見えると思うのは“節子は優雅であった。女にとって優雅であることは、立派に美の代用をなすものである。
 なぜなら男が憧れるのは、裏長屋の美女よりも、それほど美しくなくても、優雅な女の方であるから”という。確かにその通りなのだろう。

 二十八歳の節子は見合結婚をして、夫の愛の手ほどきを忠実に学習した。子供も一人できたが、何か不十分なものがあった。
 結婚後三年もたつと、夫婦の営みは疎遠になった。結婚前避暑地で知り合った男と交わした稚拙なキス(三島は接吻と書いている)を暇なときなどに思い出していた。

 夫からは巧みなキスを教えられ、時折町のレストランやダンスパーティなどで出会うその男に応用してみるという空想にとらわれたりする。
そして、その男とよろめきの軌跡をたどることになるが……
 文章は長々と続き、一人の女の心の深淵を解き明かしてくれる。この作品は、1957年(昭和32年)4月号~6月号にかけ《群像》に発表されたもの。
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小説 囚われた男(17)

2006-12-15 15:07:58 | 小説
 午後になって築地署の警官二人がやってきた。二人とも笑顔のかけらもない。三十前後でがっしりしている。
先に入ってきた警官が「生実さんでしたね。署までご同行願います」といい終わらないうちに二人の警官は、さっと生実の両側に立った。生実は服を着ていたので、すぐ立ち上がった。両脇を警官に挟まれてドアに向かった。
 振り向いて「ありがとう、大田さん。お世話になりました」大田看護婦はこわばった表情で小さく会釈した。病院を出るとき「聖路加国際病院」であることがわかった。
               
                  聖路加国際病院
 パトカーが築地署に着いて、警官の案内で交通課の小部屋に通された。それからは、年配の警官から、あらゆる質問や疑問、そして、あらゆる指摘や弁明を返し、午後八時ごろ休憩に入った。どうもまずかったかもしれない。スリップを装うつもりが急発進でぶつかったため、目撃証言が錯綜していた。
 それに死んだ男が二年ほど前に、生実の妻子を死なせていたことも問題になっているのだろう。殺人の疑いをかけているようだ。

先ほどの取調べの警官が戻ってきて
「生実さん、ご苦労様でした。大体分かりました。今日はお引取りください。何かあったら、また連絡します」生実は築地署の前でタクシーを拾った。
自宅に帰ってシャワーを浴び、黒のジーンズにブルーの綿シャツ、その上に厚手のピーコートをはおって、イタリア料理店『ジロー』に足を向ける。
 店内は時間が遅いせいか空いていた。カウンターでなく、テーブル席に座る。美味しそうな料理の匂いで、急に空腹を感じた。時間的に凝った料理は出来ないので、トマトのパスタとデキャンターで白ワインを注文する。
 
 ほっとしていると、テーブルの横に人影が立った。見上げるとこの間、この店で見かけたチャーミングな女性だった。わけが分からないのでただ見上げていると
「座ってもいいかしら?」と言い、返事も待たずに座ってしまった。生実はただ「ええ、あーどうぞ」と言うしかない。彼女はしゃべりだした。
「自己紹介は抜きね。生実さんのことはすべて分かっているわ。私は千葉の言伝(ことづて)を持ってきたの。明日の午後一時、代々木公園の駐車場にきてくれ。質問は受けられないわ。以上おわり」いい終わると
「さてと、ワインをいただこうかな」
「OKわかった。君の言う通りにしよう」ワイン・グラスを追加して意味のない乾杯をした。

 生実は女性の正体はわからないが、少なくとも今日、口説く必要がないとわかって、ワインのほろ酔いも手伝って気楽な会話へと進んだ。その様子は、仲のいい夫婦か、熱々の恋人同士の雰囲気が満ちていた。
閉店の時間が迫ってきて、女性は帰り支度を始め
「それじゃ、ご馳走様。美味しかったわ。また、会える時があるかも……」ドアに向かいながら、生実の首筋を人差し指でスーと撫でていった。横目で外を見ていると、黒塗りの車が彼女を乗せて走り去った。
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読書 ジョージ・ドーズ・グリーン「陪審員」

2006-12-13 13:09:46 | 読書
 
              
 タオイズム(老荘哲学)を信奉する精神異常者が陪審員を脅して、マフィアのボスの評決を無罪にすることを強要して、なお付きまとってくるというお話。
 このタオイズムは、インターネットで調べてみてもすぐ理解できるとは限らない。面倒くさくなるので、無視するのがいい。とにかくわけの分からないことを並べて、ややうんざりする。

 ユニークな彫刻家で美人、オリヴァーという子供のシングルマザーのアニーがその標的に選ばれる。ハンサムで教養がありお金持ちの会話の上手な男に扮した異常者は、盗聴器を仕掛けて執拗にプレッシャーを掛け続ける。
 11人の陪審員を相手に有罪の色濃い空気を無罪にするのは至難の業。いうなれば、オウム真理教の麻原こと松本を無罪に持っていくようなもの。
 結果は無罪の評決になるが、そこまでもっていく過程に説得力が感じられない。

 古くはヘンリー・フォンダ主演の映画「12人の怒れる男たち」という名作があるが、論理的に説得していく過程がスリリングだった。この本はそれが欠けている印象が強い。だから270頁目から俄然動きが早まり、アニーがどう難局を切り抜けるかという興味で満たされる。

 スコット・トゥロー、ザ・タイムズ、パブリッシャーズ・ウィークリーなどの書評が絶賛の言葉を贈っていて、人によっては満足するかもしれない。
 ついでながら、ジョージ・ドーズ・グリーンはアイダホ州生れ。アメリカ各地を転々としながら、俳優、建設労働者、新聞記者などの仕事にたずさわった後、ニューヨークへ出て詩を書き始める。
 その後、一旦グアテマラに渡り衣料会社を設立するが小説家を志して帰国。苦心の末書き上げた処女作『ケイヴマン』は、ホームレスが主人公という型破りなミステリで1995年のアメリカ探偵作家クラブ賞最優秀処女長編賞を受賞した。
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