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2000字の小説「見えない神の手」

2014-07-26 21:11:14 | 小説

 飛行機の墜落事故。その飛行機に乗り合わせた人々の運命とはどんな糸で操られているのだろうか。

 2014年7月26日午前11時銀座の歩道。梅雨明け10日と言われるように、梅雨が明けて10日間は快晴が続くと言われている。その通りの青空に浮かぶ雲は、まだ春の名残を引きずって薄ぼんやりとしたものだった。それでも降り注ぐ陽射しは思わず手をかざして光を遮りたくなるほど強く暑い。

 この暑さの中、歩道は人の行き来で途切れることはない。その中にひときわ目に付く女性が銀座四丁目に向かって歩いていた。Tシャツにジーンズや短パンというスタイルが普通という時代にあって、つば広のブルーのサマーハットに薄いブルーのサマー・ドレス、足元は白のサンダル。足首にはプラチナのアンクレットが時折陽射しを反射していた。色白で肉感的な体つきに横顔の美しい女性三十代後半に見える45歳の川路美穂という。

 行きかう人々のうち男性は目を離せなくなるようで彼女をずーっと眺めている。女性でも振り向く人も多い。そういう彼女は、女優でもファッション・モデルでもない。ごく普通の下町の娘だった。しかも、夫がいる。

 新橋方面から銀座の方へ歩いている平凡な四十六歳の男神城健一は、ぴったりと体に合った鮮やかな紺色のスーツと真っ白なボタン・ダウン、シャツを着こなして平凡さを隠していた。馬子にも衣装とはよく言ったものだ。体つきは華奢でむしろ細い体躯だった。

 銀座四丁目の人ごみを俯瞰すれば、まるで蟻が右往左往している様とそっくりだろう。それぞれが目的地へ急いでいる。

 川路美穂は三越前で友人の加奈子と待ち合わせて、近くのホテルでランチ・バイキングを楽しむ予定だった。久しぶりの友人との食事とおしゃべりの期待が自然に歩みを速めている。

 神城健一は新橋の取引先に寄って妻から頼まれた買い物に伊東屋へ急いでいるところだった。三越前の信号が赤になっていて歩行者が群がっていた。健一はポケットから妻がよこした買い物リストを取り出して眺めた。信号が青に変わって群衆が動き出した。眼をリストに落としていた健一は、前の男が何か光るものを取り出したのを気配で感じた。

 眼を上げたとたん男は異様な叫びと共に前を歩く人々をなぎ倒しながら一点を見つめて三越前の群衆に迫った。健一はいつもとは違いとっさに男を追っていた。その男はブルーのサマーハットを被った川路美穂に迫った。「今日も俺を裏切るつもりか?」と言いざまレターマン・スパーツールの鋭利な刃をむき出したナイフを振り上げた。

 健一はそのナイフしか眼に入らなかった。その腕に飛びついて全体重をかけぶら下がった。男は力強かった。男が振りほどこうとしたとき健一の腕につめたい感触が走った。数人の男が暴れる男を取り押さえていた。

 まもなく救急車とパトカーが勢いよく停止した。一帯は通行止めになった。行き場を失った車と人で混乱状態になった。パトカーは犯人を連れ去った。神城健一は、救急車で病院へ搬送された。

 青ざめた川路美穂に警官が近づいた。
「あなたの知り合いですか?」
「いえ、まったく知らない人です」
「近くにいた人の証言では、俺を裏切るつもりかというのを聞いたと言っていますが?」
「ええ、でも知らない人です」警官は美穂の身上調書をとった。途中から友人の加奈子も加わって美穂の言葉の裏づけとした。

 最後に美穂は聞いた。
「怪我をなさった方はどちらの病院へ送られたのですか?」
警官は事務的だった。「それはお伝えできません。事件発生直後ですから」
「そうですか。犯人は私に向かってきて、犯人の手を止めさせたのが怪我をした人ですからお見舞いにあがりたいと思っているんです」
「ええ、よく分かりますよ。じゃあ、こうしましょう。捜査が一段落すればすべてお話できるかもしれません。ここに私の所属と電話番号を書いておきますから、二・三日したら電話をください。よろしいですか?」
「ええ、結構です。お手数かけますがよろしくお願いいたします」

 それを眺めていた造物主つまり神は、あごに手をやって「うん、どうしたものかな! 二人ともパートナーのいる身だし、女が見舞いに行ったとたん二人は電気に討たれた様に離れられなくなるのは確かだ。神としても考えどころじゃのう」見えない神の手は、今日も忙しそうだ。
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ミニ恋愛小説「ラブレター」(6)

2014-06-15 14:23:32 | 小説

 一方、孝司のほうは英語の読み書きは問題なかったが、会話がちょっと不十分だった。会社の書類関係は日本でも英文だったからだ。
 ニューヨークに来て夜飲み会などではスラングの多いことに戸惑った。それも慣れの問題で2ヶ月も経つと何年もニューヨーク在住という顔つきになった。ブレッドとコックスという親しい友人もできた。週末にはパーティがありブレッドやコックスの女友達とも合流する。ブレッドはハーバードだしコックスはスタンフォードで二人とも遊びは非常に楽しい。歌もうまいし楽器も演奏する。ブレッドはピアノ。コックスはギターという具合。
 
 その点、孝司には何の特技もない。何とかついて行けるのはスタンダード・ポップスを10曲ほど歌えることだけだった。ところが彼らはアメリカン・ポップスを望まない。むしろ、日本の歌を歌えとせっつく。
「OK OK 分かった。二三日待ってくれ。楽譜をダウンロードするから」こうして毎週息抜きの楽しい時間を持つようになった。
 女友達の中に父親が投資会社の役員をしていてニューヨーク郊外のイーストハンプトンに豪壮な別荘を持っているジニーがいた。勿論、メイドも雇っている。映画では黒人のメイドが多いが、ここでは白人のメイドとのこと。
 
 夏のある日、いつもの遊び仲間を招待してくれた。孝司から見れば映画のセットのような豪壮な邸宅に気後れしてしまった。招待された友達も同じような感じに写った。やっぱり金持ちというのは、周囲になんとなく威厳を振りまくようなのだ。特にこういう豪壮な別荘を見れば。
       
 玄関を入るとまるで宮殿を思わせるたたずまい。広い階段がカーブを描いて二階へとつながる。ふかふかの絨毯が敷き詰められていた。天井からは無数に散らばる電球のシャンデリアがぶら下がっていた。ベッド・ルームが10部屋あるそうだ。
 女主人かと思わせるようなたたずまいの初老のメイドの案内で孝司の部屋が紹介された。「ディナーは午後6時からですよ。それまで3時間ほどありますから邸内や庭園を見て回るのもいいでしょう。キャサリンに案内させますよ。ああ、キャサリンは私の娘です。ご遠慮なさらないで……」と丁重な態度で言った。
「分かりました。お願いします。ところであなたは……」
「ケイトと呼んで……」
「分かりました。私は孝司です。コウジと呼んでください。ケイト」
 
 部屋は20畳ほどで真ん中にダブルベッド、壁際に32インチのテレビ、年代ものの整理ダンスが置かれいた。唐突にさゆりを思い出した。ここでさゆりと一緒だったらという思いだった。
 孝司はさゆりが結婚したことを知っていた。ニューヨーク転勤が決まりマンションを引き払った後、連絡先を実家にしていて母からさゆりの手紙が転送されてきたというわけだった。
 
 ドアにノックの音がした。ドアを開けると、目も覚めるようなブルーの瞳が真っ先に飛び込んできた。
「ハイ、コウジ? 日本人のコウジ?」そのブルーの瞳の持ち主が言った。
「イエス、イエスだけど火星人に見えた? それとも怪獣?」コウジはやり返した。
「オー、ノーノーノー! 私の日本人のイメージと違ったから。私はキャサリンよ。皆さんを庭園に案内するわ。玄関のテラスで待ってて! じゃあ」彼女は別の部屋へ足早に向かった。その後姿を眺めながら<今はあんなにすらりとしているが、歳をとると洋梨型の体型になるんだろうか。しかし、母親のケイトは痩せ型だからどうなるんだろう>余計な推測をしながら階段を下りた。
 
テラスに出るとジニーが座っていた。
「ハイ、ジニー! 君も案内してくれるの?」
「ううん、私はついていくだけよ」
「じゃあ、行こうか」と言ってジニーに手を差し伸べた。その手をとってジニーは立ち上がった。スニーカーのジニーの身長と孝司の身長がほぼ同じだった。目の前にジニーの顔があった。茶色の瞳が孝司を見返していた。瞳の奥のある種の情念を見て孝司は立ちすくんでいた。正直はっとして周囲が見えなくなった。玄関ドアが開けられたのも気がつかなかった。出てきたキャサリンも二人の雰囲気に気を取られ無言で立っていた。
 その空気を引き裂いたのは陽気なブレッドだった。「なんだよう。お二人さん意味ありげだよなあ。恋の語らいはあとにしてくれ!」と言って笑った。
 結局ジニーとの距離は縮まらないし、キャサリンの積極的なアプローチもあって、孝司は二人のアメリカ女性との間でどっちつかずの態度に追いやられていた。二年前とまったく違う運命の転変を思いながら、ニューヨークのアパートのキッチンでバーボンを片手に、日本語の訳名「星屑」の方が好きなフランク・シナトラが歌う「スターダスト」に聴き入っていた。窓はどっぷりと暮れて黒いガラスのようだった。
    了
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ミニ恋愛小説「ラブレター」(5)

2014-06-15 14:22:34 | 小説

 ワインは2本目が飲み干されようとしていた。孝司が唐突に「トイレに行ってくる」といって立ち上がった。さゆりは不機嫌な顔で頷いた。今は怒りで気持ちが高ぶっていたが、どこかすっきりとした気もする。一年前の決着が付いたような感覚だ。お互い言いたいことを言って発散させたせいかもしれない。
 トイレから出てきた孝司がいきなり「さゆり、セックスしよう。服を脱いで!」と言いながら自ら脱ぎ始めた。さゆりは無視を決め込んだ。リビングから現れた孝司は、素っ裸で臨戦態勢も整っていた。それを見たさゆりは、声をあげて笑った。
 
 初夏の明るい日差しがカーテンの隙間から長く延びてベッドを横切っていた。太陽が動いていって、ちょうどさゆりの目の位置にさしかかった。さゆりの左手が太陽の光をさえぎるように目を覆った。    
 さゆりの目がゆっくりと開けられた。そして時計に移った。時刻は午前8時だった。さゆりは素っ裸のまま立ち上がりカーテンを勢いよく引き開けた。外は眩しいくらいの陽光に包まれていた。
「おはよう」と孝司が声をかけてきた。孝司も目を覚ましたらしい。二人は並んでベッドに横たわっていた。
 昨夜の孝司の献身的な奉仕にさゆりは我を忘れた。無言のままの時間が過ぎていった。二人の頭に浮かんだのは、「殺さなくてよかった」だった。
 しばらくして、孝司がさゆりに重なった。ゆっくりとした動きの合間に言ったのは「さゆり、別の病院で診てもらったら? 一箇所で済ますのはどうかと思うよ。特にこの卵巣ガンの場合はね」
 さゆりにしてみれば、上り詰める途中に言わなくてもと苛立たしい。とは言ってもこの孝司、一年前とは見違えるほどの成長振りだった。かつては自分勝手でさゆりのことなどあまり配慮しない素振だった。今はあくまでもさゆり本位にこの行為を楽しんでいる風に見える。愛しい孝司とさゆりは思った。こんな二人だから早々に結婚と思うだろうが、運命は意地悪だ。
 
 風邪などのときに行く近所の内科医の紹介で受診した病院の診断は、ガンの兆候一切なしだった。それで丸の内のライヴ・レストラン「コットン・クラブ」で祝杯を挙げた。その一週間後、孝司はニューヨーク転勤の辞令を受け取った。国内ならまだしも、海外となるとそう頻繁に逢瀬を楽しむことは出来ない。徐々に疎遠になっていくのは致し方ない。
 
 さゆりは一度は死の覚悟を決めたせいか、仏像が身近に感じられるようになった。東京のお寺、関東近辺のお寺を気が向くまま訪れた。静かな雰囲気の中で仏像と対座していると心が落ち着くのを覚えた。関西へも足繁く通うようになった。
 京都の観光寺院でもないが歴史のあるお寺でベンチに腰掛けて何時間も座っていた。若いお坊さんが時折通り過ぎるが見向きもしないで、ただ仏像に抱かれるような安らぎの中にいた。
「かれこれ3時間になりますなあ。そこへお座りになってから……」声をたどって見上げると、鼻筋の通った若いお坊さんがにこやかな笑顔で立っていた。これが縁でさゆりはこのお坊さんの妻になった。
 妻になる前にさゆりは過去を洗いざらい告げた。勿論、孝司と無理心中を画策したことも。お坊さんは「すべては仏様のご意志どす。こうしてここにお参りにお越しになったのもご意志どす。何も悩むことはおへん」
 さゆりは本当かな? と思ったがすべてを告白して気持ちが軽くなったのも事実で悩みが消えた気がした。あれから二年が経過した今、可愛い女の子に恵まれ幸せだった。
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ミニ恋愛小説「ラブレター」(4)

2014-06-15 14:21:24 | 小説

 孝司は恥も外聞もなく大声で泣いた。そんな孝司をさゆりは立ち上がってテーブルを回り込んできて肩を抱いた。抱かれた孝司は、さゆりの暖かい体温を感じた。この暖かさがやがてこの世から一切が無となると思うと駄々っ子のように肩を震わせた。
 子供をあやすように背中をさすりながら腰を落として、さゆりは孝司の顔を上向かせた。その唇にさゆりは口づけをした。いきなり生暖かい舌に唇を塞がれ、衝動的に孝司の舌もさゆりの舌を追った。しかし、続かなかった。以前なら激しく燃え上がったが、今日のショックには耐えられず急速に虚しさの中で喘ぐしかなかった。
「ごめん、さゆり。あまりにもショックだったよ」
「うん、分かってる。私も医師から言われて一週間ほど何も食べられなかったわ。最近になってようやく食べ物が喉を通るようになった」
 孝司の右手がさゆりの頬に優しく触れ、さゆりの目を見つめた。キラキラと光る目は恐れてはいないようだが、悲しみが浮かんでいた。孝司の視界が浮かんだ涙でぼやけた。目をつむると涙が頬を濡らした。それを見たさゆりは、いたたまれなくなった。
 
 何人かの男がさゆりを通り過ぎて行ったが、心に残るのはこの孝司だけだった。自分の命が消えようとしているとき、共に旅立ってくれるのは孝司しかいない。
 孝司に打ち明け納得の上、共に天国に旅立つのが一番いいのは分かっている。しかし、一年前のむごい仕打ちを考えると確実性は低い。むしろ楽しい雰囲気、セックスでもいいがその中でワインに混ぜた青酸カリによって安らかに昇天できるのではないか。 とさゆりは考えている。
 それが孝司は心からさゆりを思って泣いている。これは計算外だった。さゆりの心は揺れた。
「孝司さん、ワイン飲もうよ。病気の話は一時棚上げよ」
 立っているさゆりを泣き腫らした目で見上げた孝司は「ああ、そうだね。雰囲気を壊してごめん。じゃあ、乾杯しよう」と言った。
 赤ワインのボトル1本が二人の胃に消えた。この頃になるといつもの饒舌が戻ってきた。
「さゆり、体重減ったの?」と孝司。
「ううん、それが減らないの。というより変わらないわ」
「そう、一週間も食べていないしその後も一杯食べていないのにねえ。不思議だね。さゆりは、何も食べなくても一ヶ月ぐらい大丈夫かもね」
「それはどうだか。でも、今日は美味しいわ。孝司さんが来てくれたから」
「そうか。でも、あの手紙には驚いたよ。あんな別れ方をしたからね。どういう風の吹き回し?」
「ちょっと待って! もうワインないわよ。白ならあるけど。飲む?」
「なんでもいいよ。飲み明かそう!」
 そう人生最後の……さゆりの頭の中で浮かんだ言葉を飲み込んだ。「うん、そうね」冷蔵庫からシャブリを取り出した。
           
 栓を抜いてテーブルに置きながら「あの手紙はね。やっぱり孝司さんが私の一番好きな人だと気づいたからよ。バカな私よ」
「じゃあ、一年前は一番好きじゃなかったんだ」ワインの酔いは言葉を選ばなくなってきた。
「好きだんったんでしょうけど、気がついていなかったのかもね」
「そうか。それで男を引っ張り込んだんだ。あれは裏切り行為だったよ」
「裏切り? それを言うんだったら孝司さんも裏切っていたわよ」
「俺が? そんなことしてないよ」
「うそ! わたし見たんだもの。銀座で女性と手をつないで歩いているのを」
「それはいつのこと?」
「喧嘩別れしたときの10日ほど前だったかな」
「ふーん、実際にあったとして、それを知っていて俺をあの日呼んだんだ。さゆりのあてつけの場面を見せるために。そうだろ? あまりにもタイミングがよすぎたよ。今分かった。さゆりは意地悪だ」
「そういう言い方しないで! こじつけよ。たまたまなったことよ」
「見せられた俺の気持ち分かるかい? この一年間というもの一度も忘れることがなかった」
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ミニ恋愛小説「ラブレター」(3)

2014-06-15 14:20:14 | 小説

 もとの引き出しに戻して、ニュース番組にチャンネルを合わせた。ニュースは踏切事故や火災で人が死んだとか高齢者を狙った詐欺が横行しているとか、あまり明るい話題はなかった。孝司は、今からさゆりを殺そうとしている自分に動揺しているのか落ち着かない気分でいた。
 
 キッチンからさゆりの声がした。「孝司さん、こちらにいらっしゃいな」マンションにしてはやや広いキッチンでテーブルに椅子が四脚向かい合っていた。いわゆるクローズド・キッチンでさゆりのこだわりのキッチンだ。オープン・キッチンは、料理の匂いがリビングまで流れるのが嫌なのがその理由だった。たしかに、鯵やさんまの焼く匂いがリビングに充満するのは雰囲気をぶち壊してしまう。
 テーブルには孝司が持参したワインにクリスタルのワイン・グラスが添えられ、鶏肉のトマトソース煮とガーリック・トーストがそれぞれ白磁の皿に盛られていた。おまけにダウン・ライトの光源を落としてあって、柑橘系の香りのするキャンドルが2個テーブルでゆらめいていた。そのゆらめきの中にさゆりが微笑んでいた。
     

 孝司は一瞬めまいに襲われた気分になった。あの怒りはどこへ行ったのだろう。今はさゆりを思いっきり抱きしめて<一緒に死んでもいいくらい愛しているよ>と言いたいと思った。
怪訝な表情のさゆりが言った。
「孝司さん、どうかしたの?」
「えっ? いやちょっとめまいがしたんだ」
「めまいなの? 大丈夫?」
「うん、大丈夫。立ちくらみだから」
「そう、じゃあ私着替えてくる。すぐよ」
 
 孝司はリビングのソファにもたれかかり、いつもさゆりが読んでいる本や雑誌を置くラックに目をやった。そこには恋愛小説やファッションの雑誌は見当たらず、「よい病院選び」とか「先端医療について」、「ガンは怖くない」とか病気に関する本が並んでいた。孝司は、ご両親か兄妹かあるいは親戚の誰かに起こったことのせいなのかもと思った。
 本の横にCDケースが立てかけてあった。取り上げてみると「ロマンティック・ピアノ集」で知らない人が演奏していた。
「孝司さん、そのCDをかけてくださらない?」振り向くとワインカラーのワンピースをすっきりと着こなし、首から下がる金色のネックレスが眩しく光った。シャワーの後なのか色白のさゆりはことのほか色香が漂っていた。
 
 孝司は即断した。<さゆりを殺すのはやめよう。その後のことは成り行きに任せよう>CDからは夜にふさわしい「スターダスト」が流麗なピアノに乗って流れてきた。一年前の二人に戻ったようだった。話題は必要なかった。もう殺す必要のないさゆりの顔を眺め口元の笑みに笑みで応えるだけでいい。赤ワインは程よい酔いをもたらし少々の饒舌も運んできた。

「ところで、さゆり。本棚の中に病気についての本が多いね。どなたかが悪いの?」さゆりの表情がサッと翳った。目はワイングラスに注がれている。
 孝司はさゆりの変化についていけず「悪いこと言ったのかなあ」
「ううん、はっきり言うと私、末期がんなの」
「えっ、あの……、それ……、ああ、困った」孝司に動揺が走った。
 二人の間に沈黙がしばらく続いた。ようやく孝司の左手がさゆりの右手を握り締めた。孝司の手はぶるぶると震えていた。涙がとめどなく流れワイングラスにポトポトと落ちた。
「孝司さん、私はもう覚悟しているわ。30にもならないで死ぬなんて……考えるほど怒りが募るけど、これが運命なのね。私にはどうすることも出来ない。苦しいのは死ぬまでで、そのあとは平穏がくるわ」
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ミニ恋愛小説「ラブレター」(2)

2014-06-15 14:19:01 | 小説

 思い出すあの屈辱を癒すことが出来なかった。殺してやりたいと常に思い続けていた。ふと、この手紙に応じればそのチャンスかもしれないと思った。<うん、それがいい。青酸カリがいいかな。それをどうする? そうだなあ。あいつがいい。坂本明だ。確かどこかの製造会社に勤めているはずだ。坂本には恩を売ってある。もし、断るのなら奥さんにお前の過去を告げ口すると脅せばいい。青酸カリ0,5グラムもあれば十分だろう。それに決めた>シャワーの熱い湯が間断なく流れ続けた。
      
 ちょっとキザかも知れないが外国映画の真似をして、バラの花束といつもは飲まない値段の高いワインを持って約束したに日に江島さゆりのマンションを訪ねた。濃紺のスーツに白いワイシャツ、それに深く翳っているような赤地に黄色のペーズリー模様の入ったネクタイを締めていた。

 ブザーを押すとどこにでもあるようなピンポーンという音が遠くで鳴った。孝司が聞き耳を立てていると廊下を歩くスリッパの音が近づいてきた。「どなた?」とさゆり。「垣本だよ」孝司は他人行儀に言った。チェーンの外れる音がしてドアが開いた。
 立っているさゆりに目がくらくらとした。<畜生、こんなに色っぽいのか。しかも胸の谷間を見せつけやがって……>孝司は内心毒づいた。 が、表情はいつものように静かで穏やかだった。
「久しぶりだね。元気そうじゃない?」
「ええ、なんとかね。さあ、入って!」
 部屋は黄昏時の影に包まれて暗かったが、相変わらず掃除は行き届いていてキレイに片付いていた。リビングのソファが代わったぐらいで、あとは孝司が過ごした頃と変わりなかった。ふと情熱のすべてをさゆりに捧げた頃が甦った。彼女の唇や肌触りが生々しく迫ってくる。
「孝司さん、コーヒー淹れたわよ」キッチンからさゆりの声がした。さゆりの淹れるコーヒーは絶品だった。なんでもテレビからの受け売りと言っているが、上等のコーヒー豆を挽いて90度の温度で淹れるという。<ああ、なんでさゆりは意地悪なんだ。こんなに苦しめるなんて……>と小さなカップのコーヒーの味から失われた恋の思い出が辛い。しかも、決心した殺意も揺らぎ始めた。
「孝司さん。お元気そうね」唐突にさゆりが言った。一瞬戸惑ったが「ああ、風邪一つ引かないよ。馬鹿だから」と孝司。
「相変わらず皮肉屋ね。孝司さんは」
「そうかなあ。さゆりも元気そうだね」
「うん、なんとかね。孝司さん、恋人できたの?」
「いや、いないよ。さゆりに振られてから、恋とは縁遠くなったよ」
「ごめんなさい。そういうつもりじゃなかった」と言ったさゆりの表情に影が差した。孝司はこれ以上突っ込みたくなかったから肯いただけだった。窓の外はどっぷりと夕暮れに染まり、キッチンのダウンライトの明るさが増した。
 さゆりがにっこりと笑って「戴いたワインに合う料理を用意したわ。準備するからテレビでも観ていて……」と言った。
 
 テレビの前に座った孝司は普段観ないのに何を観るのか見当もつかない。テレビ・ボードの引き出しを開けて映画のDVDを探した。何枚かのDVDの中に見覚えのある一枚を見つけた。それは紛れもない孝司とさゆりの濡れ場を撮ったDVDだった。熱烈な二人のピークを示すものだった。横浜のホテルでの一夜だった。DVDのラベルにプリントした無難な写真からは想像もできない代物で、他人の目にさらすのをためらわれる。手にとったがここで観る気になれなかった。
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ミニ恋愛小説「ラブレター」(1)

2014-06-15 14:16:43 | 小説

 会社から帰宅した孝司はマンションの郵便受けを覗き込んだ。新聞と封筒があった。3階の自室のキッチンでその封筒を手に取った。散りゆく桜の花びらがピンクで彩られた封筒だった。いまどき珍しいダイレクト・メールだと思った。表書きにはキレイな草書体で住所と垣本孝司様とあて先も間違っていない。裏面はきっちりと封がしてあって差出人の記入はない。
     
 封筒からはほのかな香水の香りが漂ってきた。「あっ」と思った。マリリン・モンローが寝る時につけていると言ったシャネルの5番だった。
           
 それを真似たのが1年前に喧嘩別れをした江島さゆりだった。さゆりがこんなキレイな字をかくのかと思う反面、開封する前から心の中は動揺と怒りに包まれた。

 さゆりはあまりにも魅力的な女だったから、怒りは倍増する。しかもその時の罵倒は、忘れようとしても忘れられるものではない。悔し涙とやけ酒の日々が、また思い出されてきた。
 孝司は「ちぇッ」と汚いものでも捨てるように罵った。このまま封筒をゴミ箱に放り込んでしまいたい。しかし、情けないことに料理用ハサミを取り出して封を切っていた。シャネルの5番が鼻を突いた。
 彼女との陶酔の時間が甦ってくる。ベッドでは悪の妖精だった。欲望は限度がなかった。それでも実に楽しく美しく我を忘れさせてくれた。
 彼女にも欠点があって、自己中心的で感情の起伏が激しく浮気性だった。孝司は蜘蛛の巣に絡まった虫のようなものになっていた。

 「愛しい孝司様 その後お元気ですか? さゆりは案じております。孝司様との濃密な時間を共有したことが、今更ながら貴重なものに思えてお便りを致しました。ご迷惑をお許しください。
 それで一生に一度のお願いがございます。私の最後のお願いになると思いますが、ぜひ私宅へお運びくださいませ。私の過去の失礼をお詫び申し上げたいことと、今更ながら私の人生で孝司様の存在がこれほど大きいとは思いも致しませんでした。思い出すたびに心が乱れ息苦しくなります。今一度お会いしたく存じます。お越しの節には楽しい会話が出来るものと楽しみにしております。お待ちしております。かしこ あなたのさゆりより」

 <なんだいぬけぬけと、あなたのさゆり? 今更と思うがなあ>読み終わって孝司は頭の中で毒づいた。<でも、最後のお願いとあるなあ。何故だろう>頭の中は疑問に包まれた。その疑問を抱えたままシャワーを浴びた。熱いシャワーがさっぱりとしたいい気分にさせてくれなかった。ほとばしるシャワーが一年前のさゆりの部屋へと誘った。
 
 さゆりが買った2LDKのマンションの部屋の鍵を開けた。孝司にもスペア・キーをくれていた。室内は静かだった。うがいをして手を洗ってリビングに行った。リビングの隣の部屋から苦しそうな声が聞こえた。さゆりが熱でも出しているのかもしれないと思い、ドアを一気に押し開けた。そこに見たものは、さゆりにのしかかっている男の姿だった。
 「オイ、なにやってんだ!」叫びながら男を突き飛ばした。男の狼狽振りは笑いたくなるものだが、孝司の怒りはさゆりに向かった。思いっきり横っ面を引っ叩いた。男はワイシャツとズボンを穿いて靴下も履かずに上着と靴を持って逃げ出していった。孝司は怒りで言葉も出ない。

 「叩くこともないでしょ。私はあなたの奥さんじゃないのよ。分かってる?」追い討ちをかけるように「まるで覗き魔ね。そんなにしたいのなら、順番を待ちなさいよ。色キチガイ! とっとと帰って! 顔も見たくないわ」
孝司の手はぶるぶると震えていた。これ以上ここのいると確実に絞め殺してしまう。それがさゆりとの別れだった。
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2000字の恋愛小説「一緒に死んで、 お願い!」

2014-04-01 16:49:57 | 小説

 インクジェット・プリンターは各課にあるが、レーザー・プリンターは総務課にあって課長の許可がないと使えない。理由は簡単。インクジェットよりレーザーのほうがかなり経費がかかるからだ。

 その窓口に当たるのが、ちょっとキュートな女の子で名前を楓順子(かえで じゅんこ)と言った。まだ二十歳の順子は、溢れる若さに加え会社支給のスーツの制服の胸の出っ張りが極端に大きくそれを見るたびにめまいを覚えるくらい息苦しい。

 それでも営業本部の国光敬二にとって、一番行きたい場所が総務課なのだ。吉田総務課長は、極端に節約癖があってレーザー・プリンターを出来るだけ使わせないように使用許可申請書にいちゃもんをつける。

 総務課長のくせを熟知している順子に相談すればすべて問題なく許可される。去年の12月中旬、申請書とともに板チョコ5枚の入った袋を手渡した。ちらりと目を留めた順子は、上目遣いに敬二を眺め可愛い口元から白い歯を見せてウィンクを送ってきた。

 そして言ったのは、「パーティ券を買って欲しいんだけど……」
「パーティ券?」と敬二。
「ええ、私の女友達が商社に勤めているのね。クリスマス・イヴに社員労働組合のパーティがあるの。そのパーティ券よ」
「なるほど、いくらなの?」
「一枚、1万円よ。飲み放題食べ放題でね」
「社外の人も参加するんだね。どうして?」
「何というのかなあ。同じ会社だと話題も内向きだしね。別の業種の人と話すことで視野も広がる利点があるといってるけど」
 敬二にとってそんなことはどうでもよかった。パーティ券購入も頼まれてほいほいと受けるのも何か軽い感じがしたまでだ。

 ところがそのパーティに参加して思わぬ収穫があった。つまり楓順子の女友達、川喜多留美を紹介されたことだった。幸運はついてまわった。その川喜多留美とその日のうちにホテルで一夜を共に過ごした。

 国光には妻と子供が1人いて翌日、帰宅したときの弁解に苦労した。電話1本していなのが負い目になった。国光はずるいところがあって、日ごろからちょくちょく無断で外泊することもあった。その時は飲みすぎて電話に気が回らなかったと弁解した。それは意識的な行動で妻に慣れてもらうのが目的だった。今回も営業本部の飲み会で泊まったと言った。国光の妻は、またかという顔で「そう」と言っただけだった。

 あれから2ヶ月が経過しようとしていた。今日は7度目のデートで映画を観てシティ・ホテル内のイタリアンの店で白ワインの入ったグラスをもてあそんでいた。川喜多留美の表情が冴えない。今日はくちかずが少ない。いつもは明るい表情でよく笑って楽天的で可愛い留美はどこにもなかった。
「留美、どうかしたの? いつもと違うよ」国光が言った。
「うん? ええ、まあ。昨日考えていたの。敬二さん私のことをどう思っているのかしら? と」

「決まってるじゃないか、好きだということを」
「そうなの? だって今まで一言も好きとか愛しているとか言ってくれなかったじゃない? 本当はどうなのかって」
「言葉にしなかったのは悪かったよ、留美。愛しているよ。心から」
「本当? だったら結婚して」
「うッ、そうしたいのはやまやまだけど、留美も知っての通り妻と離婚しなきゃならないよね」「勿論、離婚して!」国光の顔が心もち青ざめたように見えた。それを見た留美は「ここのホテルの部屋?」国光はホテルのディユースを予約していた。

 東京駅を含めた丸の内界隈は、ここ数年で観光地化した。洒落たレストランやカフェが増えOLやサラリーマン、それに観光客で賑わいを見せている。

 楓順子と川喜多留美は、スペイン料理の店で祝杯を挙げていた。
「で、結果はどうだったの?」順子が留美に聞いた。
「手切金500万円だった。ああ、そうそう順子の口座に送金しておいたわよ」
「ありがとう」留美が受け取った金額の10%が順子の取り分と決められていた。
「それから、決め手のセリフはなんだったのかなあ?」と順子。
「離婚できなかったら、一緒に死んで! 死なないなら奥様に私が話すわよ」
「うわー、怖い!」「国光さんもよくお金を出したわよね」
「そう、もともと男は臆病なのよ。世間体を気にする人種だしね。それに今回は奥様の実家がお金があるみたいで、そこから出たらしいわ」
「国光さんももう浮気が出来ないよね」
「いや、ほとぼりが冷めると、浮気の虫がうごめくんじゃない。男って懲りないのよ。全く」
「でも、その懲りない男がいるからからこそ、私たちの仕事が成り立つんじゃない?」
「そう、言えてる。じゃあ、その男たちに乾杯!」
 二人は大笑いをした。その声は周囲の人の目を引いた。留美は、グラスを揚げて眺めている人に挨拶をした。了
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2000字の恋愛小説「心残りの恋」

2014-02-27 17:46:38 | 小説

 病院のベッドから見えるのは、青い夏空に浮かぶ白い雲だけだった。それを見ていると、浅見けいとどこかの海辺で眺めてみたいと考えたのを思い出した。しかし、それを諦めたことで、10年前の恋人霧子と再会することになろうとは思ってもみなかった。

 一ヶ月前の木戸正道は、腕に点滴のチューブが刺さり、放射線治療の外照射の影響で喉がひりひりしていて食事に苦労する状態だった。朝起きるとうんざりとした気分になり自力で起き上がれないほど衰えを感じる。

 それも入院の前には、ジョギングを短い距離ながら楽しんでいたのがこのざまだ。70歳を過ぎた木戸には人並みに病魔が襲ってきていた。医師や看護師は、気持ちを楽にしてガンを克服するという気力で頑張りましょう。 と言うが自分ではそんな気分になれない。自分の死期が近づいているのを、はっきりと自覚しているからだ。朝食も口に不味く半分も残すことが多い。それでも空腹感がない。

 元気な頃は、食べ物も脂っこいものが好きだったし、ウォーキングやジョギングも雨や雪の日以外は欠かさず行っていた。今はその一切が面倒でどうでもいい気がしていた。新聞すら読まない。

 入院の翌日、今井という女性看護師が車椅子を押して放射線治療室に連れて行ってくれた。1~2分の照射の間、じっと動かないでいることぐらいが気を引き締める瞬間と言えば言えるかもしれない。それを除けば、一日がなんとなく過ぎて行く。看護師が病室に戻してくれた。

 「また、あとできます」と言ってナースステーションへ戻った。その後姿が、見事なスタイルでくびれたウェスト、丸く素敵な曲線のお尻が印象に残った。妻を亡くして15年だが、目を外したとたんに忘れ去った。

 次の日は、沢谷という女性看護師だった。彼女も今井看護師同様スタイルのいい女性だった。三日目は木暮という女性看護師。この人も美形だ。病院の看護師は、毎日勤務形態が変わるようでせいぜい二日も同じ人が続けば珍しいことと思える。いずれまた今井という看護師が担当する日が来ることになるが。

 「木戸さん、おはようございます。治療室へ行きましょうか?」四日目に現れた女性看護師が言った。顔を見た瞬間、彼女から目を離すことが出来なかった。瞬き一つできない。見られている彼女も不思議そうな表情で笑みが消えていた。
「どうかしましたか?」
「いえ、なんでもないよ。他人の空似というのかな。昔の知り合いの人とそっくりに思ったもので、ちょっとびっくりしたよ」と木戸は慌てて言い訳のように呟いた。

 照射を終えて病室で体を休めている時、さっきの彼女の名札を見るのを忘れているのに気がついた。彼女も美人だった。そこでふと毎日美人の看護師がやってくるのが不思議に思い始めた。さらに次の日もきのうの看護師だった。名札を見ると「浅見けい」とあった。

 「木戸さん、ベッドでいつも過ごすのは良くないですよ。少し歩きませんか? 廊下ですけど」廊下に出ると彼女は当然のように木戸の左腕に手を添えた。おぼつかない足取りで、4階の廊下を一周して談話室に腰を下ろした。
「疲れましたか?」と彼女。そのふくよかな頬と唇。ふと10年前の霧子を思い出した。もう一度逢いたいと心から思った。

 浅見看護師とは、院内散歩が当然のように毎日行われた。一週間が過ぎる頃には、木戸も自力で普段通りの歩行ができるようになった。時折、談話室で自動販売機のコーヒーを飲みながら浅見けいを眺めていると霧子と重なり飛び掛って抱きしめたくなる。ある時、「一緒に旅行に行きたい」と浅見けいに言った。すると浅見けいは、左手を上げて開き薬指のリングを見せた。そこにはプラチナの結婚指輪が輝いていた。けいを諦めた正道は放射線治療の効果もあって、再び生きる意欲を取り戻してきたようだった。

 浅見けいは、パソコンで日誌の仕上げをしていた。今日一日の患者とのやり取りをこと細かく記録して置く決まりになっている。Aさんがどうも精神的に不安定。Bさんはこのごろ快調の様子など。

「木戸さんは、今日退院したんだね」
突然、頭の上から声がした。振り向くと頭頚部外科耳鼻咽喉科の香取先生が立っていた。
「ええ、晴れやかな笑顔でお帰りになりました」
「それはよかった。昔の恋人にも会えるのかな?」
「そうですねえ。メールをしたところ彼女がこちらに来るそうです。木戸さんも見違えるように元気になられました。先生が希望をお与えになりましたから」
「うん、ある意味であの指輪が功を奏したとも言えるね」
「本当にそうですね。ああ、この指輪をお返ししなくちゃ。先生もかなり策士ですね」
「うんまあね。思想家のヴォルテールの言葉があるよ。“神は現世におけるいろいろな心配事の償いとして、われわれに希望と睡眠を与えた”とね」

<なるほど、素敵ね。恋心は何物にも勝る良薬というわけね>魅力的な浅見けいには恋人がいない。少し寂しい気持ちになった。                       了
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読書「仮釈放」吉村昭

2011-11-08 12:54:58 | 小説

              
 高校教諭の菊谷史郎という潔癖で虫も殺せない男の二つの殺人が描かれる。その殺人に共通するのは、殺意と計画性がないことだ。共通点は、被害者が妻であることだ。

 第一の殺人も第二の殺人も犯人は逆上もしていなかったし、とっさに殺意が生まれることもなかった。ただ、目の前が朱に染まり手が勝手に包丁を握り妻の浮気相手の男に切りつけ、さらに妻を滅多突きにした。逃げ帰った男の家に灯油を撒いて火を放った。その火事で男の母が死んだ。これが第一の殺人。

 第二の殺人も目の前が朱に染まり、手が勝手に妻の肩を強く押したためにアパートの階段を転げ落ちて打ち所が悪くて死んだ。この精神世界に戸惑った。一つ言えるのは、信頼していたものに予期しない裏切りや、ずけずけと土足で踏み込まれるものには絶対的な拒否反応を見せるということだ。

 この小説には、いろいろな見方があるだろう。法律は、殺人と言う行為に罰を与えるが、人の心にまでは及ばない。この男は、改悛の情を持っていない。第一の殺人は、当然の帰結と思っている。
 この第二の殺人では、激しい憤りの感情が渦巻いていたのが第一との違いだ。彼は「自分が身をひそめる世界は、第三者が理解できぬ特殊な空間で、妻豊子と共に暮らすのは初めから無理であったのだ。豊子が去るか、それとも自分が出て行くか、いずれにしても一人だけの生活に戻らねばならない」と考えている。社会生活不適応者の安息の地は、刑務所だった。余人には計り知れないほど大きな空洞が、彼にはあるのかもしれない。
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