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旅「11日間のスリランカNo 8」

2012-09-29 14:46:52 | 旅行

 ここダンブッラのホテルは、自然と共生をうたい文句にしている(Mrスランガの説明)ヘリタンス・カンダラマ・ホテルだった。街から上がる道路は未舗装で狭い道だった。アスファルトにしないのが自然保護なのだろか。山の上にホテルを建てるというのも自然破壊じゃないのだろうか。どうも論理の矛盾を感じながら車に揺られていた。ツアー会社は、私たちのためにスィートを選んでいた。最後の二泊を快適に! という配慮だろう。
            
 観光最後の一日は、妻と息子が行って私はホテルで休養することになった。観光は、岩山に傑作を残した狂気の王カーシャパ伝説のあるシーギリア・ロックへ登るには、2時間以上かかるとあってそれを断念。その岩山を見渡せるところへ案内してもらい少しは満足したかもしれない。
 ゴールデン・テンプルや博物館にも足を運んだという。すべての観光日程を終えた。必ずしも予定の場所へ行っていないが、ツアーの後半になると疲れも出て精力的に動けなくなる。車での移動に時間がかかることも原因となっている。
 8月28日(火)は、いよいよ娘のいる店に行く日になった。ケゴールのその店に着いたのは、お昼前になった。昼食として大きなコッペバンのクラブ・サンドイッチを出してくれた。久しぶりに美味しいと感じる食べ物だった。
            
            
            

 息子は旅の間、MrスランガやMrランガとしょちゅう冗談を言って楽しそうだった。長い時間、家に引きこもっていたのが嘘のようだった。ホテルのチップの支払いとか、ホテルで両替するのも息子が積極的に行った。
 いろんな人とも片言ながら話している姿も見せた。これが社会復帰のきっかけになってくれればと願っている。

 三人は意気投合しているように見えた。Mrランガに至っては、自身ホームページを開いて旅行社を立ち上げようとしていた。彼の友人のイギリス人が製作したという。アドレスは
">http://www.sunislandtravels.com/で息子に日本語版を手助けしてくれという。さあ、どうだろう。もう少し様子を見る必要があるかもしれない。この日、28日はMrチャンナが手配してくれたのは「INTERNATIONAL HOUSE SANASA CAMPUS」といって研修施設のようなところだった。

 ホテルではないからアメニティ・グッズは何もない。バスタオルが一枚だけだった。エアコンはあったがテレビはない。しかも街からかなり登る丘の上にある。気軽に街歩きは出来ない。車が必要だが、私にはない。Mrチャンナに送り迎えを頼むのも店のこともあって無理だろう。現に夕食のためには、スリーウィラーという三輪のタクシーが迎えに来た。
            
              
            
            

 夕食は、娘の手作りのパスタやエビ料理で食欲が出て満足感に満たされた。やっぱり私の舌は、日本の味に慣らされてしまっているのかスリランカの味には馴染めそうもない。仕方がないか。
 宿舎に帰って妻と息子と三人で相談したのが、チャンナの店が忙しそうだしこの宿舎で過ごすのも暇をもてあますということで、明日から別のホテルに移動するというものだった。幸いきのうプリペイドの携帯電話を手に入れてあったから、再度Mrランガの世話になることにした。(つづく)
            
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旅「11日間のスリランカNo 7」

2012-09-27 15:51:42 | 旅行

 ウィルパットゥ国立公園のサファリ・ツアーの日。実はここでのスケジュール変更で夜11時前のホテル到着となってしまった。
 前夜の夕食時にMrスランガから私の体調を案じて早朝出発を正午ぐらいの出発を提案してきた。連日の車での移動で疲れていたのと体調がやや不良ということもあってその案を呑んだ。
 私の体調不良というのは、お腹がなんとなく重い感じがあって食欲もあまりない。あの下痢症状を引きずっているようだった。かと言ってトイレに駆け込むこともない。正露丸効果なのかもしれない。

 サファリ・パーク入り口の食堂で昼食を摂った。注文してから1時間以上待たされた。日本なら客は逃げてしまうだろう。料理を運んできた人は、無言でテーブルに置くだけ。これがスリランカ流。
 何もスリランカ流が悪いと言っているのではない。日本のように客を必要以上に持ち上げるような態度もいいのかどうか疑問だ。食べる人と作る人という関係だけがあって上下の差は無いはず。スリランカ流と日本流の中間あたりが中庸に思える。

 さて、腹具合を心配しながらジープの荷台によじ登った。午後3時を過ぎていた。ゲートに入る手前に大きな建物があってそこでMrスランガが話し込んでいるのが見える。
 やがて一人の男と一緒にジープに乗った。その男はガイドということらしい。後で聞くと、英語を理解しない人たちだからガイドをしても意味がないと言っても、暇だから行くと言ったらしい。
 要するにチップ目当ては明らかだ。その男は、孔雀や鷲を見つけて指を指すだけだった。それだけならMrスランガやMrランガでも出来るようだった。
 ゲートをくぐりジャングルの奥深くに分け入った。対向する帰りのジープには、スリランカ人かインド人かあるいはアラブ人か、私にはみんな一緒に見える人々を満載した車から情報を取りながら進む。象を見たという話もあった。

 私たちは、孔雀や鷲や猿、鹿、池の近くにいる鳥たちを見て、ゲートから2時間経過してることあって引き返すことにした。途中、ある観測点に立ち寄ると数台のジープが停まっていて豹がいるという。
 なるほど、逆光に手をかざしてみれば豹が寝そべって素知らぬ顔をしていた。ワイルドな原野で猛獣を見るのも悪くはないかもしれないが、あんな遠くの猛獣じゃあ迫力不足は否めない。
 動物園で十分だと思われてきた。サファリというネーミングで客寄せしているように感じたのは私一人だろうか。帰路に遠くでワニが大口を開けてあくびをしているのが見えた。年中心地よい気温ではあくびも出るわな。そう言っているみたいだった。
            
            
            
            

 サファリを終えてホテルに向かったのは、午後7時になっていた。Mrスランガは、2時間ぐらいでダンブッラのホテルに着くといっていたが、なんのなんのその倍かかって午後11時前になった。
 私は途中で腹が立ってきた。午後9時ごろになってようやく到着予定時間が大幅に遅れることを私たちに話した。そんな時間に着いても食事にありつけないのは確かだ。ルームサービスを頼むとも言わないから、こちらから指示する始末。
 わたしのMrスランガに対する信頼は崩れ落ちた。ただ、遅れたお陰だったのかルームサービスのサンドイッチは美味しかった。しかも、サービス料なしの交渉をMrスランガがしていたのも罪滅ぼしの気持ちがあったのかもしれない。それでも信頼回復には至らない。(つづく)
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旅「11日間のスリランカNo 6」

2012-09-25 11:15:43 | 旅行

 キャンディの街は、物売りや物乞いがうるさく、またダンスはライト・ハウス・ホテルのショーと変わらなかったという。私は休養してよかった。
 スリランカの古都といわれるキャンディには、仏陀の歯を安置する仏歯寺がある。一日3回プージャ(仏への礼拝)のときだけ仏歯の部屋が開扉される。信心深い人たちは、それに合わせて参拝する。
           
           
 Mrスランガは、私たちをそういう時間帯に案内した。表門から入るには長い列に並ばなければならない。一時、Mrスランガの姿が消えた。戻ってきたときには、一人の男を連れてきた。
 Mrスランガは裏口があるという。男についていくと裏口というのは、出口のことだった。警察官がいて、男がなにやら言ったけど警官は首を振っている。しばらくすると、男がそ知らぬ顔で入っていった。私たちもそれにならった。警官は何も言わない。おかしな国だ。
 入り口、いや出口かな。靴を脱いで土間に足を踏み入れる。ものすごい人の波。強引に階段を昇る。蒸し暑さと人いきれでめまいがする。まさかスリランカに来てラッシュ・アワーの体験をするとは思わなかった。祭壇の前まで行ったが、堪らず脱出する。外で1時間ほど待った頃、妻や息子が戻ってきた。妻は平然とした顔だった。案内した男は、千ルピーのチップをせしめた。

 仏歯寺のあとは、ブッタラマの先に突き出ている半島にあるカルピティヤのアランクーダ・リゾート・バー・リーフ・ヴィラへ向かった。そこが8月25日(土)の宿泊地である。キャンディからはかなりの距離がある。
           
 夕方薄暗いなか赤土の見える未舗装の道を風力発電の風車の横をのろのろと進み、椰子の木に囲まれた広場に出た。そこがこのヴィラの駐車場だった。一台の車も見当たらない。
 どこからともなく男が現れて案内してくれた。そこは椰子の葉で葺いた大きな建物の中に二部屋がありポーチにはだだっ広いベンチがあった。エアコンがなく部屋は開放的でベッドには白い蚊帳が吊ってある。トイレに扉がない。シャワーは庭の真ん中に石を積んだところだった。囲いもない。したがって、ドア・キーもない。雰囲気は原始の世界だろうか。
 シャワーを浴びた。無数に開いた穴から優しく流れるホテルのシャワーとは段違いだった。太い水道ホースから飛び出す水の奔流といったところ。肩に当てると丁度いい按摩になった。ワイルドなシャワーだ。
           
           
           
           
              
           
           
           
           
 夕食にロブスターを注文した。ロブスターは、ここにはなく町に買いに行くという。そういうことで、6,000ルピーを前払いした。塩茹でにしてもらったが、味のほうは期待したほどでもなかった。大味といったところか。久しぶりにエビやピザも食べた。
           
 二部屋を妻と私が別々に使い、ベンチにはクッションが載せてあるので息子とMrスランガ、Mrランガが寝た。私は天井の扇風機を回して寝たが蒸し暑くてたびたび目が覚めた。息子に聞くと夜は寒いくらいだったらしい。
           
 翌朝、プール・サイドのダイニングで食事しているとイギリス人女性二人が入ってきた。Mrスランガが聞くと、この女性たちは4日間滞在しているらしい。それにはびっくりした。私は一日で十分だと思っていたから。

 ここで日本人に対する信頼度が高いことが分かった。Mrスランガがフロントに最終チェックを頼みに行ったときのことだ。やってきた人は、「日本人だから大丈夫だ。チェックしない」という。どこの国の人間なら備品のチェックをするのだろうか。中国人? 韓国人? アラブ人? ドイツ人? イギリス人? そこが聞きたいところだが……。
 MrスランガとMrランガと同宿したのはここだけだった。そんなことで、Mrスランガは後味の悪さを避けるために備品のチェックを申し込んだのだろう。あとで、何かがなくなっていると聞きたくないのは誰しものことだから。(つづく)
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旅「11日間のスリランカNo 5」

2012-09-23 13:00:02 | 旅行


 ゴールへの道すがら「カンドーリ」という食堂で昼食を摂った。日本人が珍しいのかジロジロ見られた。この食堂は、アルコールを出さない。またしても私の口に合わない料理で閉口した。
             
                 
             
                 
           
           
           
                       
ゴールのホテルは、海浜に建っていてなかなかいいホテルだった。ライト・ハウス・ホテルという。

           
 ただ、食事はどこもビュッフェ・スタイルで並んでいる料理も代わり映えしない。旅の間ずーとこんな形が続いた。卵も美味しくない。黄身があるのかないのかオムレツとして出て来るのは真っ白なオムレツ。夕食時には、ひたすら地元ビール「ライオン」を飲むしかなかった。宿泊客は、多様な国籍で欧米人も多い。
 この時期、アラブが正月でそちらの人も多かった。女性は、黒い服に目だけ出しているお馴染みの服装だが、実物を見るのは初めてだった。パッチリとしたキレイな目をしているから魅力的ではある。でも、無愛想だった。当然口元も覆われているから、飲んだり食べたりするときはその布を片手で持ち上げていた。なんだか不便な気がした。

 通路で見かけたのが、「Traditional Sri Lankan Cultural Show Tonight at the Verandah」。それでベランダで待った。9時ごろから民族舞踊が始まった。細長い太鼓の素朴なリズムにきらびやかな衣装の踊り手が舞う。火を使う踊りは男の役割。ショーは佳境に入り髭面の仮面をつけた踊り手が客席を巡る。約1時間でショーは終わった。

           
           
           
           

 ヌワラエリヤで紅茶工場と付属のショップで試飲と買い物。工場は最新設備からは程遠い気がした。手作業の多い過程に見えた。私は紅茶よりコーヒーのほうが好きだからあまり関心がない。
           
           

ホテルには夕方暗くなってから着いた。ザ・グランド・ホテルといって植民地時代の雰囲気を残し、創業が1891年というから100年以上の歴史を誇る。
           
          
 ただ、部屋がよくないのと私の体調が一気に悪化した忘れられないホテルともなった。部屋の窓から眺める景色は、大きなパラボラ・アンテナだけだし、アメニティ・グッズもバスローブやスリッパもない。勿論、ミニ・バーもない。このミニ・バーは、簡単に言えば冷蔵庫のこと。私にとっての悪夢は、夕食に食べたものすごく辛い食べ物のせいで胃が痛くなり、夜中に5回の下痢に悩まされた。これからどうなるのだろうと心配が先にたつ。朝になって下痢が収まったようだった。正露丸を持っていったのが正解だった。朝食は水だけだった。
 Mrランガに言わせると、良くある症状とのこと。この悪い部屋のことを考えてみると、ツアー会社のやりくりの一環ではないか。どこかで利益を確保する必要がある。最初はいいホテルに泊めて、どこかで手を抜くしかないのかもしれない。ツアー会社に任せると、今回のように車での移動に時間がかかりすぎるきらいがある。しかも、道路事情は劣悪で疲労も重なる。キャンディのマハウェリ・リーチ・ホテルには午後2時ごろ着いた。途中で昼食を摂ったが私はあまり食べなかった。私はホテルに残り、妻や息子はキャンディの街の見物とキャンディアン・ダンスを見に出かけた。私は夕食にもビールは飲まなかった。(つづく)



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旅「11日間のスリランカNo 4」

2012-09-21 14:19:11 | 旅行

 二日目の8月22日(水)の朝起きてみると私の体調が悪い。頭がボーとして浮遊感に包まれていた。こういう症状はたびたび経験していたが、旅先のしかも海外では心配が先に立つ。今年の2月MRI検査の結果問題なしと言われていて、ぶっ倒れることもないと分かっていても不安なものだ。

 朝食のためにレストランへ降りていった。窓が開いていて開放的な雰囲気のダイニングは、ビュフェ・スタイルの朝食となっていた。フランス・パンとバター、白いスープ、ローストビーフのようなものを食べたが、パン以外は不味くて口に合わなかった。
 お断りしておくがこれは私だけの問題で、妻や息子は何の抵抗もなく食欲は旺盛だった。その後、ゴールに向かうわけだがその前にコロンボの見どころを案内してくれた。
 途中でスコールと渋滞にはまりようやく着いた先はインド洋に面したゴール・フェイス・グリーンだ。ここは浜辺の散歩道といったところで、午後からは人出で賑わうという。海に面してコンクリートの遊歩道が延びているが、みやげ物や食べ物を売る小さな店が行儀よく並んでいる。
            
            
            

 雨上がりの空気は、靄と共にべたついてくる。こういう蒸し暑いのはどうも気分が落ち着かない。そういう時、どういうわけかトイレに行きたくなった。見渡す限りトイレらしきものはない。
 Mrスランガに聞いてみた。彼は、「OK、キレイなトイレに行きましょう」と請合ってくれた。彼によるとスリランカのトイレは、決してキレイとはいえない。観光客には出来るだけキレイなトイレを紹介しているという。つまりトイレで何かに感染する可能性もあるということらしい。どこでもすべて日本で言う洋式トイレだが、向かって左手に小さなシャワーのようなものが付いている。それを右手でとって事後処理用の水が出る仕組みになっている。
              
 使ってみて改めて日本のシャワートイレの素晴らしさを感じた。日本も古い和式トイレから脱却しているのに、どうして一流ホテルともあろうものが、相変わらずの旧式のトイレで満足しているのか理解に苦しむ。その意識を変えないとスリランカは、いつまでも低レベルのままだろう。

 さて、キレイなトイレに着いた。タージ・サムドラ・ホテルのトイレだった。堂々と入って堂々とでてきて、ベイラ湖の近くにあるガンガラーマ寺院とシーマ・マラカヤ寺院へ行った。
 ガンガラーマ寺院は、コロンボの中心にある寺院の中でも最も大きなものの一つといわれている。ここに入るのにはお金がいるし、靴を脱がなくてはならない。中はいろいろあるが金ぴかの仏像や極彩色の配色で目がちかちかする。私の体調のこともあるが、日本のお寺が懐かしくなってくる。鬱蒼とした樹木に覆われ古びた仏像が鎮座する本堂の佇まい。それとは正反対のスリランカの寺院。少し疲れを覚えた。事前の勉強不足も興趣を削いでいるのかも知れない。(つづく)
             
             
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旅「11日間のスリランカNo 3」

2012-09-19 13:16:36 | 旅行

 飛行機に乗るときも、降りるときもシンハラ語のアーユボーワン(こんにちは、さようなら、おはよう、こんばんは)で済む。そのアーユボーワンに送られて多種多様の国籍を持つ人たちに交じって入国審査に向かう。
           
 どこの国でも同じように、公務員は無愛想が通り相場なのだろう。考えてみればクリエーティブな側面がないだけに、ただ流れるだけの毎日なのだろう。無愛想な男にサンキューと言って荷物を取りに行く。このぐるぐると回る回転コンベアーに人だかりが見え荷物の出が遅い。まさにスリランカ・タイムだ。
 私たちの荷物は比較的早く出てきた。円からルピーに両替の間、息子はツアー・ドライバーを探しに行った。30,000円から48,000ルピーに両替された。確か換算率が1,66だった記憶がある。日本国内では円高円安が株価にも影響するが、海外旅行では円安の恩恵を体感した。
 両替の内訳は、殆どが1,000ルピーだが少し100ルピーも混ぜてある。こちらから内訳を言ったわけでもないが、スリランカもチップの国だから小銭を混ぜてあるのだろう。
 息子がドライバーを伴って現れた。そのMrスランガは歓迎の花束とレイをかけてくれた。空港でよく見かける人待ちのプラカードに「nurai」とあるのを見て,、息子は「n」は「m」が正しいと言ってMrスランガを笑わせていた。自己紹介のあと空港ビルから出るとむっとする空気に包まれた。蒸し暑い。「車を持ってくるからここで待ってて!」とMrスランガ。出迎えの車でごった返していた。私の体調は、まずまず順調というか体調のことに気が回らなかった。トヨタの大型バンがMrスランガの車。エアコンで車内は快適だった。
            
 最初の宿泊地ネゴンボのジェット・ウィング・ビーチ・ホテルへ向かう。コロンボからネゴンボへの幹線道路に右折する交差点に信号がない。これが最初の驚きだった。日本で住宅地の中まで信号機が設置されているのとを比べると驚くしかない。以後、ツアー中、信号のある交差点は片手で数えられるくらいの少なさだった。それでも大きな事故を見たことがない。
 コロンボ市内でも数箇所しかないから「へえー、ここを通るの?」と考えられないような交通事情だったが、スリランカ人は当たり前のように意味のないクラクションを鳴らしながら通り抜ける。スリランカは、図々しい根性が必要らしい。
 そして交通事情にも驚いたが、もう一つ驚きが待っていた。宿泊のホテルでの夕食のプランが含まれていないことから、Mrスランガに外で一緒に食事をしようと9時半にフロントで待ち合わせることにした。その時間に降りていくとMrスランガが来ていて「車で行こう」という。 ホテルの近所にレストランはないのだろうか。そんな気持ちから、ちょっと怪訝な気分になった。
 車で連れて行かれたのは、食堂というようなところだった。そこでもう一人のスリランカ人が現れた。この男はよく喋るし日本語はMrスランガよりも遥かに流暢だ。ビールを飲みながらエビ料理や魚料理をつまみながら事情を聞いていると、実はMrスランガはこの男で、空港に迎えに来たのがMrランガだということが判明した。「サプライズを演出したんだ」とMrスランガは言うがツアープランにはドライバー1人しか書いていない。ここで文句を言ってもよかったのかもしれない。しかし、雰囲気は陽気で屈託のないよく喋る男のペースになり自動的に二人の男が同行することになった。一人分追加の料金請求があれば拒否すればいいだけのこと。ただし、チップは二人分の出費と相成る。
 この二人になった理由をMrスランガは、観光地の駐車事情を説明する。客を降ろして車を移動させなければならない。その時、物売りや物乞いに囲まれては困るから誰かスリランカ人がいるほうがいいという。二人ならそれができるというわけ。で、最終的には二人分の請求はなかった。多分、Mrスランガが自腹を切ったのかもしれない。Mrスランガは、このツアー会社に11年間勤めているとも言っていた。結局夕食は12時近くに終わった。(つづく)
             
             

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旅「11日間のスリランカNo 2」

2012-09-17 10:56:16 | 旅行

 旅行プランは、Mrチャンナがよく使う旅行会社に依頼したものだ。日本語ドライバーつきのプランだった。息子の態度の変化は、この旅のプランが決まってから顕著になった。スリランカ航空のホームページでE-Ticket(イー・チケット)を使って座席の予約をしたり、スリランカの情報をネットで収集したりとかなり意欲的な面を見せていた。こちらは大いに助かったのは言うまでもない。

 チェックインのあと出発ロビーの大きな窓からは、到着便への細々とした作業が見える。JALが定位置に駐機した。まるで草原の鹿がライオンに襲われて食われ、その食べ残しに群がるカラスのようにジェット燃料補給のトラック、荷物の取出しや積み込みのトラック、機内食のケータリング会社のトラック、トイレに溜まったものの処理の太いホースのセット、そのほか主な部分の点検をする人たちに囲まれた。それらをなんとなく眺めながら時間が過ぎていった。
            
 体調不安を抱えながら、ようやくエアバスA343に乗り込んだ。この頃になって何とか体調が戻ったようだった。A343は、約30分遅れで成田国際空港を離陸した。
 家族三人だから右側の二列席では隣が他人になる。私の隣には茨城に住むというスリランカ人の男だった。日本語は流暢でよく喋る。
 途中で息子と席を交代したが、後で聞くとスリランカ人の男はやくざも知っているしスリランカで女を紹介するとも言ったらしい。息子はその男を無視して寝たふりを続けた。

 エコノミーに乗る外国人には注意が必要かもしれない。帰国便には外国人の姿はなかった。外国人はビジネスクラスを選択しているようだった。エコノミーの狭い座席を敬遠しているのかもしれない。

 空の旅というと楽しみは機内食になるだろう。朝7時半頃の朝食だったので午後の2時を過ぎると空腹に襲われる。機内食が配られてきた。東京→コロンボの一食目のメニューには、オードブル(マリネシーフードとマッシュルームと人参のサラダ、サンフラワー・ヌードル)、メインディッシュ(牛肉の諸味ソース、ミックス野菜ソテーときしめん)(オリエンタル風・チキンカレー、お豆のトマトのカレーとご飯)、デザート(マンゴーケーキのイチゴソース添え)。
            
 お腹も空いていたのか美味しかった。あとは本を読んだり、うとうとしながら夕食となる。前の座席の背面についているモニターの表示があと二時間を指した頃、夕食が配られる。二食目のメニューは、サラダ(新鮮な野菜サラダ、柚子ドレッシング)メインディッシュ(ホット・セイボリー、スパイシービーフの串焼き、チーズとインディアンサルサのアラビア・パン、アーモンド海老団子)(グリル・チキン和風ソース、ミックス野菜のソテーとバターヌードル)(ほうれん草とチーズトリッテリーニ、トマトのクリームソース、椎茸のソテー)デザート(どら焼き)という献立だった。
           
エアバスA343は、定刻19時10分にコロンボのバンダラナイク国際空港に着陸した。(つづく)
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旅「11日間のスリランカNo 1」

2012-09-15 10:08:06 | 旅行

          
 世界地図を広げてみると、インドの下に涙のような島が見える。それがインド洋に浮かぶ北海道の約80%程度の広さの国土を持つ スリランカである。
 2009年5月に「タミル・イーラム解放の虎LTTE」との民族紛争が終結、今やヨーロッパや日本からの観光客の増加が著しい。が、だから「行こう!」と言うわけでもない。

 もともと海外旅行のツアーなんてあちこち引き回されて疲れるだけだと敬遠している。それと飛行機が怖いこともある。あの離陸から水平飛行への時間が異常に長い気がする。高度一万メートルの巡航に入ると、少しがたがた揺れてもそれほど怖くはない。着陸は鳥の滑空に似て、むしろ安心感に包まれる。滑走路に着地するガタンという車輪の音にほっとするのは私だけだろうか? 極端に低い事故率も誰かがめぐり合うことになる。私の妻はどういうわけか全然平気で楽しいという。そういう私も何とか片道8時間の飛行に耐えてスリランカ旅行を完結した。
             
 もともとこの旅の発端は、私の娘が数年前からスリランカと関係を深めていてMrチャンナを手伝って、コロンボから国道A1号線で約2時間のところにあるKegalle(ケゴール)に日本食も提供するレストランを始めることになり、工事を進めていてようやく8月21日に仮オープンということになった。
 このオープンに合わせということばかりでもなく、別の事情もあった。私には娘のほかに息子が一人いる。この息子がうつ病で外との係わりが長く無かった。インターネットが唯一の外部との接触機会だった。
 娘は以前から兄の状態に気を病んでいて、店のオープンがいい機会だから日本食部門を手伝って欲しいと言って来た。娘は兄が飲食店のチェーン展開する会社で店長の仕事をこなしていたことも知っていて、この誘いをかけた。
 妹の申し出でに息子はどんな反応を示すか心配したが「行ってもいいよ」の返事で旅が実現した。

 店の工事は、今年の1月頃から始めて8月に仮オープンになったがスリランカ・タイムのスローぶりを現している。このスロー振りをたびたび眼にすることになるし、息子の積極的な態度の豹変も驚きに変わっていった。

 さて、唯一気になるのが私自身のこと。糖尿病の持病に加え治まっていためまいの症状が一週間前に再発した。その名は、「良性発作性頭位めまい症」という。サッカーなでしこの沢選手もなった病気。
 薬を服用したが一向に良くならないまま出国日の8月21日(火)がやってきた。スリランカへの直行便があるスリランカ航空のチェック・イン・カウンターに並んでいるときにかなり気分が悪くなってきた。冷や汗も出るしめまいもする。
 ふらふらしながら出発ロビーの椅子から行き来するジェット機を眺めていた。時間が経つにしたがって徐々に症状が治まってきた。だからといって不安が解消するはずもなかった。(つづく)
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映画「約束の葡萄畑 The Vintner's luck ’09」劇場公開2010年10月

2012-09-14 09:27:36 | 映画

                 
 1808年、フランス、ブルゴーニュ地方で小作人の息子として働くソブラン(ジェレミー・レニエ)は、いつの日か自分の手でヴィンテージ・ワインを作る夢を見ていた。そこへ現れたのが堕天使のザス(ギャスパー・ウリエル)だった。

 “堕天使(だてんし)とは、主なる神の被造物でありながら、高慢や嫉妬がために神に反逆し、罰せられて天界を追放された天使、自由意志をもって堕落し、神から離反した天使である”とウィキペディアにある。

 ということは最も人間くさく愛や憎しみを熟知し共感できる天使ということになる。まさにザスはソブランに愛を感じた。そして、苗木を与えた。ついでに心構えも。
 「大事なのは土壌だ。土を味わうことから始める。ブドウにいい土壌は必要ない。やせた土地は鉱物や石が多くミネラル分がある。苗木は必要な養分を必死に吸収する。苗木と造り手の努力がワインの味を決める。それにいいワインは一生かかる」ザスは一束の苗木を置いて天空へ舞い上がった。

 その苗木から世間が注目するワインが誕生した。この地方のシャトーの主は、ソブランを高く評価していて娘オーロラ(ヴェラ・ファーミガ)に「彼を管理責任者に雇え、ただし愛はダメだぞ!」と言い残してこの世を去った。

 二人は共同でワイン造りを続けた。作柄の不順が続いた。映画の結末の見当がつくにしても、この堕天使の意味に戸惑う。なにも天使から苗木を貰わなくてもいいだろうし、天使に恋愛感情を持つ必要もない。男の天使だからなお複雑だ。
 しかも、羽を切り取って人間になりワイン造りを手伝うに至っては私の思考は大渋滞に陥った。

 どうしてかというと、天使のときは、ソブランの内なる葛藤を具象化したものと受け止めていたからだ。ともあれ、かなり地味な映画ではある。
              
              
              
              

監督ニキ・カーロ1966年9月ニュージランド、ウェリントン生まれの女性監督。

キャスト
ジェレミー・レニエ1981年1月ベルギー、ブリュッセル生まれ。
ギャスパー・ウリエル1984年11月フランス、グローニュー=ビランクール生まれ。
ヴェラ・ファーミガ1973年8月ニュージャージ州バサイク郡生まれ。
ケイシャ・キャッスル1990年3月ニュージランド生まれ。
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映画「人生はビギナーズBeginners’10」劇場公開2012年2月

2012-09-11 11:01:41 | 映画

                
 父親から突然「俺はゲイなんだ」と言われたらどのように対処するだろうか。大喜びすることは絶対にありえない。複雑な心境に落ち込むことは確かだろう。
 一般に同性愛者といわれる人たちの「どうして同性がいいのか?」という疑問に明確な答えは今のところなさそうだ。ただ、「異常」「倒錯」「精神疾患」とはみなされず治療の対象にはなっていない。私にはどうしても生理的に受け入れるのは難しい。

 オリヴァー(ユアン・マクレガー)の両親は1955年に結婚した。オリヴァーから見る家庭の空気はどことなくよそよそしくて父の顔が見えない。美術館長の父が出勤するとき妻におざなりな頬へのキスが思い出される。

 母は風変わりだった。オリヴァーのいる部屋に入って来て左手を魔法の杖のように振り上げて真っ直ぐに降ろす。オリヴァーは、銃で撃たれたように倒れたりする。また、展覧会で踊りだしたり、見知らぬ人の肩に顔を載せたりする。家に帰ると母は自室に籠もってしまう。オリバーは取り残される。

 そういう育て方で大人になったオリヴァーは内向的で人とのコミュニケーションが苦手。その母が亡くなると父ハル(クリストファー・プラマー)はゲイを宣言する。ゲイのクラブに入って人生を謳歌し始めると同時にガンも宣告される。
 アートディレクターの仕事の傍ら父の看病もこなすオリヴァー。ある日、女優だというアナ(メラニー・ロラン)とめぐり合う。38歳のオリヴァーにとって思ってもみない出会いだった。

 父の顔も見えるようになったし、父も新しいゲイ人生を楽しんでいるみたいだったが、今は写真立ての中で微笑んでいる。ぎこちなさと不器用が重なって一度はアナを失うが、オリヴァーの自宅で再会したとき父ハルのゲイ友達募集の原稿が二人の人生を変えようとしていた。

 ”セックスの相手を求む。出来ればその後、恋人か友人に、1対1でなくても。当方78歳の老人、まだ魅力も精力もある。引退した美術史家。美術、インテリア、ガーデニングが趣味。パーティや犬との散歩も。身長180センチ、体重72,5キロ、髪はグレー、目はブルー、むら毛(胸毛)あり。お互いに愛撫し合い、優しく愛し合うのが好み”

読み終わったアナ「愛に貪欲だったのね」見つめ合う二人に何かが起こった。
オリヴァー「僕たちどうなる?」
アナ「分からない」
オリヴァー「試してみよう」
なお、本作でクリストファー・プラマーは、2011年アカデミー助演男優賞を受賞している。
            
            
            
            
            
            
監督
マイク・ミルズ1966年カリフォルニア州バークレイ生まれ。

キャスト
ユアン・マクレガー1971年3月イギリス、スコットランド生まれ。
クリストファー・プラマー1929年12月カナダ、オンタリオ州トロント生まれ。
メラニー・ロラン1983年2月フランス、パリ生まれ。
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