まさにジョーカーを演じるホアキン・フェニックスの独壇場と言える。コメディアン、マレー・フランクリンを演じる名優ロバート・デ・ニーロでさえ霞んでしまう。
映画は観る人の主観によって解釈が幾様にもなる。ウィキペディアによるこの映画についての記述で「本作の主人公であるジョーカーは、DCコミックスのアメリカンコミック「バットマン」に登場するスーパーヴィランで、主人公のバットマン(ブルース・ウェイン)の対極に位置づけられる最悪の悪役として、ビル・フィンガー、ボブ・ケイン、ジェリー・ロビンソンによって創造された」とあるが、私にとってはどうでもいいこと。
映像に集中できるかできないか。平たく言えば眠くなるかならないかが評価の基準なのだ。この映画は全くのところ冴えわたっていた。あとで調べてみると、作品はアカデミー賞監督賞と脚本賞にノミネートされ、ホアキン・フェニックスにはアカデミー賞主演男優賞受賞とある。私の評価基準は間違っていなかった。
時は1981年、テレビのニュースは、財政難のゴッサムシティ(架空の町)でストライキによるごみ収集がなく、巷に黒いゴミ袋が散乱し、ひどい匂いと疫病が怖くて外にも出られないという住民の声が流れる。そんな状況の中、後にジョーカーと言われるアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、ピエロの格好をして店の看板を掲げて客寄せをする仕事で、認知症の母ペニー・フレック(フランセス・コンロイ)と細々と暮らしている。
築50年以上、ドアのペンキも剥げエレベーターは異音を発し恐ろしい気分になる。テレビで「マレー・フランクリン・ショウ」が始まる。目を皿のようにして口元に笑みを浮かべて観るアーサー。アーサーは、コメディアンになることが夢なのだ。
ところが近所の黒人の悪ガキどもに看板をひったくられ、取り返すために追った挙句黒いゴミ袋が散乱する路地で蹴られ殴られとボコボコにされる。
翌朝、大道芸人の所属する事務所のロッカーで、大男のピエロから紙袋を渡される。中には装填済みの拳銃が入っていた。「身を守るためだ」と大男。しかし、この拳銃は人間の心に微妙な変化をもたらす。身を守るためという名分が暴走することだ。
その時が早くもやってきた。アーサーは、ピエロの衣装のまま落書きで汚れたニューヨークの地下鉄の車内に座っていた。乗客が少なくガランとした車内には、サラリーマンの三人の男がいる。どうやら酒を飲んでの帰路のようで、一人の男が前に座る女性にちょっかいを出し始めた。
すると突然アーサーが笑い声をあげた。アーサーには何の理由もなく笑うという病気を持っているのだ。男たちが近づいてきてののしり始めた。男の一人は、ミュージカルの曲「Send in a clowns(邦題:悲しみのクラウン)」を歌い始めた。アーサーが、道化師ピエロの扮装だからだ。女性はその隙に別の車両へ移動した。
ののしっても笑い続けるアーサーに男たちは殴り掛かった。揉み合っているとき、一発の銃声。一人の男が倒れる。別の男に狙いを定める。バン!倒れる。三人目のスーツ姿の男は、足に銃弾を受ける。電車は駅に停まった。スーツの男がよろよろと出てきて階段に向かう。アーサーは追う。後ろから一発、まだ死なない。階段の昇り口で息の根を止める一発。全ての死を確かめた後、狂気の階段を上る男アーサー。
ウィキペディアによると、この映画を監督したトッド・フリップスの「本作がアメリカの社会格差を風刺する作品として話題を集めたのを認めつつ、映画の超目標はあくまでもアーサー・フレックという個人がいかにしてジョーカーという悪役へ変遷するかを描く人物研究めいた作品であるとコメントしている」とある。
とは言っても多くの人は、社会格差を風刺する作品と思うだろう。私もそう思った。おりしも人種差別で沸くアメリカの暴動と重なって見える。それは今観るからで、この映画の撮影開始が2018年9月なので暴動を意識したとは思えない。
しかし、黒人が警察に殺されると、必ず起きるのがデモ。そして中に紛れ込むコミュニスト。そして必ず起きるのが、商店の略奪や暴徒の群れ。それを映画に取り入れているのを見ると、日常茶飯事のデモの暴徒化を意識したのは確かだ。
狂気に走るのは精神を病んでいるからだ。アーサーも地下鉄での殺人も「 Send in a clowns」を歌う男が音痴だからという。現実社会でも常人には理解できない動機を殺人者を述べる。この映画は、ホアキン・フェニックスの狂人ぶりを堪能すればいい。
それでは、エンドロールに流れるフランク・シナトラの「Send in a clowns」を聴きましょう。