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小説 囚われた男(19)

2006-12-23 12:59:41 | 小説

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 指令どおり東を処理したあとの呼び出しに応じて、何度か来た代々木公園の駐車場に、いつものようにいつもの場所でいつもの車のそばに千葉がたたずんでいた。
「新聞を見たか?」挨拶抜きでいきなり聞いてきた。
「いえ、見てません。確実に死んでますよ」
「うん、それは確かだ。捜査も難航しているようだ。遺留品も一切なかったそうだ。ただ、目撃証言が中年女性から出ている。感じのいい若い人とエレベーターで会ったという。
 東とは何の関係もない君だ。大丈夫、心配はいらない。ところで、次の指令だ。東の妻と子供がターゲットだ。彼らは知りすぎている。東が寝物語に細かく話していたらしい」生実は一瞬息が出来なかった。
「いつというのは君に任せる。ただし、急いで欲しい。それじゃ」千葉は走り去った。

 生実は悩んでいた。いままで女子供のターゲットはなかった。妻と子供の悲惨な事故を、いやでも思い出した。生実の殺し屋のクールな面が徐々に溶け始めていた。東の妻子を俺が殺さなくても、誰かがやるだろう。千葉の背後にあるものはいったい何なのか。巨大なとてつもない抗し得ない何かがある。その何かは謎だった。ひょっとするとチャーミングな美女が、謎を解く鍵なのかもしれない。

 生実は監視されているのを意識しながら、イタリア料理店『ジロー』で夕食を摂ることにした。自分の身の安全は、いまや選択の余地なく危機に直面していた。
 もはや殺し屋ではなかった。自分の命はともかく、東の妻子をどう助けるか? 東を殺しておきながら、矛盾した感情にも苦しめられる。
『ジロー』は相変わらず混んでいた。カウンター席に座る。料理は、暖かくても冷たくても美味しいスープ「ミネストローネ」、しっとりとしたパン生地の中に柔らかな豚肉を包みオーブンで焼いた「豚肉の包み焼き」、絶望のパスタと呼ばれ、具のない貧相なパスタであるが美味しい「アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ」とワインの白をボトルで注文する。
 今日は誰にも煩わされずに、一人でゆっくりと食事を楽しみたかった。料理が運ばれてきて、よく冷えたワインを一口含むと、酸味と果物の甘みが気持ちよく鼻腔と胃を刺激した。ふたたび思いにふける。
 どうしても、あの指令が重くのしかかってくる。ふっとこういう風に食事を楽しむのも最後になるかもしれないという考えがよぎった。

 食事が中ほどまで進んだとき、生実の横に気配を感じて振り向くと、あの美女がにこやかな笑顔で立っていた。ボーイッシュな髪型に薄くアイシャドウとこれも薄く口紅をひいている。もともとパッチリとした目許なのでより印象的だ。黒いコートが色白の顔を浮き立たせて、ふっくらとした唇がとてもセクシーに映る。
「食事は済んだ?」
「いえ、まだよ」
生実は、丁度空いた二人席に移れるようにウエイトレスに頼み、追加でパスタと白ワインも注文する。
 席に着き、コートを脱いだ美女は、グレイのハイネックセーターが体にぴったりと張り付き、胸の隆起はその下で雨宿りできるほど出っ張っていた。生実はじかに本物かどうか確かめたくなったが、意志の力で押さえ込んだ。
「いままで何度もお会いしていたのに、自己紹介してなかったわね。小暮さやです」
「私は生実清です。これで正式に名乗りあったわけだ。それじゃあ、まずお近づきに乾杯しょう」
店内は暖房で程よい温度に保たれ、冷えた白ワインが至福の時を告げてくれるようだ。
「美味しいわ」と半ば目を閉じながら小暮さやが呟く。
「話は変わるけど、今日千葉からどんな話があったの」と瞬く間に事務的な口調になった。
 生実は一瞬戸惑った。なぜ小暮さやがそんなことを聞くのか不思議だった。用心しなくてはいけない。その件は、極秘事項だからだ。ちょっと探りを入れる必要もあるかもしれない。
「小暮さん、内部事情はよく知っているでしょう? 秘密を漏らすわけにいかないよ。そんなことをしたら私が責められる。二度と口が利けなくなる」
口が利けなくなるは、周りに人がいる場合の婉曲表現で、死を意味している。
「ええ、よく分かっているわ。やり方によっては、私も同じことになるわ」
「一体どういう事なんだ?」
「うーん、ちょっとここではまずいと思うの。生実さんのご自宅はいかが?」
「いいよ。いいけど無茶じゃないかな。男の一人住まいだよ?」生実は心にもないことを口走っていた。小暮さやは平然として
「平気よ。生実さんを信用しているし、それに……」一瞬、間が空いた。
「それに、なんだい?」生実はせっかちに詰問調になった。
「そうね。生実さんの部屋に着いたらお話します」小暮さやは、いい? というように眉毛を上げておどけて見せた。
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