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とにかくローテーションに入った野茂!

2005-03-30 21:02:50 | スポーツ
 現地時間29日、対フィリーズに登板し11安打うちホームラン3本、4失点と打ち込まれたので、一瞬開幕メジャーは無理かと思った。しかし、ピネラ監督の「野茂をローテーションに残す」というコメントで何とかメジャーで開幕を迎えることが出来る。

 野茂の経験を高く評価しての決断だったようで、野茂も自身のこれからの成績も非常に大事だけれど、若手投手に好影響を与える言動や態度がより重要になるだろう。この点はドジャースのコルボーン・ピッチング・コーチがほめていたし、ピネラ監督も高く評価をしたのだろう。

 3月17日現在のERAは、13.50であったが、30日現在では4.50に改善されている。対フィリーズで球速も90マイル(約145キロ)を表示して肩の状態も元に戻ったようだ。同列に論じられないが、ヤンキースのランディ・ジョンソンも最終登板で、10安打7失点だった。おそらくジョンソンも野茂も変化球はあまり投げていないのではないだろうか。いずれにしても今季初登板は、4月16日ボストン・フェンウエイ・パークでの対レッド・ソックスになる予定のようだ。

 松井秀喜やイチローも好調のようなので、特にイチローの打率四割が関心を集めていることもあって、例年以上に楽しみなシーズンになりそうだ。ただ、本番になると何が起こるかわからないといわれる。その突然の出来事もまた楽しい。来週から私の頭は大リーグで一杯になる。
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映画「21グラム」(03年)

2005-03-28 12:49:56 | 映画
 心臓提供者を待っている余命1ヶ月の数学教授ポール(ショーン・ペン)、多くの前科を持ち、首の刺青が原因でゴルフ場のキャディの仕事を失いながら、神を信じる二人の子持ちのジャック(ベニチオ・デル・トロ)。二人の娘と最愛の夫を持つ主婦のクリスティーナ(ナオミ・ワッツ)。

 悲劇は突然訪れる。ジャックの運転する車がクリスティーナの夫と二人の娘を奪い去る。クリスティーナの夫の心臓をもらったポールは、提供者を知りたい一心で私立探偵を雇い突き止める。3人が運命の糸にからめられて、それぞれの答えが得られる。
悲しみや失意の場で「それでも人生は続く」というセリフが三回ほど出てくる。自身に納得させる言葉なのだろう。

 私にとってナオミ・ワッツ、シャルロット・ゲンズデール、ベニチオ・デル・トロは初めて見る顔で、その中でもデル・トロは存在感を感じさせる。作品自体は、話が前後して分かりづらい点が多い。それでも、2003年アカデミー賞主演女優賞ナオミ・ワッツ、助演男優賞ベニチオ・デル・トロがノミネートされ、ヴェネチア国際映画祭では男優賞にショーン・ペンが受賞している。同様にLA批評家協会賞をナオミ・ワッツが受賞していて、英国アカデミー賞ほかにもノミネートされている。かなり評価は高いようで、玄人好みの作品といえなくもない。賞に絡んでいないが、助演のシャルロット・ゲンズデールやデル・トロの妻役のメリッサ・レオは、1980年代中ごろから映画やテレビに出ていて、堅実な演技で遜色がないように思う。特にシャルロット・ゲンズデールに好感も持つ。

 題名の21グラムは、ハチドリの体重でありチョコ・バー1個の重さで、人が死ぬと21グラムだけ体重が減るという。「21グラムの重さとは?」と問いかけて映画は終わる。死を意味しているとすれば、この21グラムは計り知れない重さということになる。
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お気に入りの表現(11)ウィリアム・G・タプリー「ケープ・コッドの男」から

2005-03-24 13:12:45 | お気に入りの表現
 弁護士ブレイディ・コインのシリーズ。たまに出る秘書のジュリーも個性的で可愛い。

 “彼女は10時10分過ぎに彼を通した。やっとブザーを鳴らして、ミスター・ホプキンズがお待ちです。もうお会いになれますかと聞いてからだ。「僕は暇だから、親指をくるくる回しているところだよ、ジュリー」と私は彼女にいった。「彼には、そんなプレーはしなくていいんだぜ。クライアントではないんだからね」
 「ミスター・ホプキンズには、時間は30分しかさけませんと念を押しておきます」彼女は部屋の向こうで彼女の言葉に耳を傾けているホスキンズに聞かせるため、こう言った。”
タプリーの比ゆやユーモアは大好きで、新刊を待っているがなかなか出ない。

 海外旅行で頻繁に遭遇するのが、チップを渡す場面だろう。私も経験があるが、札をそのまま手渡すのはあまりスマートといえないし、相手の態度からやはりさりげなさが必要と感じた。そこでこの本が回答を与えてくれる。“10ドル札を四つ折にして手渡した”とあって、おおっぴらにしないのがマナーのようである。ガイド・ブックにはチップに触れているが、どのように渡すかは書いていない。
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お気に入りの表現(10)キース・ピータースン「夏の稲妻」から

2005-03-22 12:48:03 | お気に入りの表現
 主人公は、ジョン・ウェルズという中年男の新聞記者、離婚経験あり、しかも娘の自殺という不運を背負う。何気ない文章の中に、人間としての愛が見え隠れするように思われる。

 “二人の救急隊員は死体袋を広げ終えていた。袋を頭の上まで引っ張り上げると、ファスナーを引き上げた。ケンドリックの顔はビニールの袋に隠れて見えなくなった。袋越しに彼の鼻と額の形が見て取れた。気がつくとあんなふうに袋に詰められてケンドリックはどうやって呼吸しているのだろうかと考えた”

 死んだ人間など呼吸するはずがないのに、そのように考えるのは、生きていたとき少しでも関わりがあって、お互い利害を分かち合った中であり、突然の死に哀しみ、人生経験を得た男の情を感じる。
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幾つになっても好みは変わらない

2005-03-20 14:04:15 | 雑記
 3月19日朝日新聞夕刊に「われ、いまだ演歌に転向せず」と題したロック中年のコラムを読んで、私も転向していないなと思う。この人の話では、昔よく「君も50過ぎれば演歌党になるさ」と言われたとおっしゃる。この方はもうとっくにその年を過ぎているが、いまだロック党という。70年代80年代への思い入れが強いのだそうだ。

 かくいう私もカラオケで歌わされる以外は、演歌には全く関心がない。私の好みに合わないだけの話で、戦後からずっとアメリカンポップスを始めジャズやカントリーを好んで聴いてきた。今後も変わらないだろう。

 歌唱力という点で言えば、演歌歌手のほうに軍配が上がる。NHKラジオがニュースの合間に流す曲を聞いていると、本当に歌唱力がない。高音がのびないし息が続かない。人間の声も楽器の一種と思っていて、聞き惚れるような歌いっぷりを期待するのは無理だろうか。
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陽気に誘われて湾岸サイクリング

2005-03-19 14:10:32 | スポーツ
 陽射しは背中に暑いくらい。千葉市稲毛区にある稲毛海浜公園の駐車場に車を置き、マウンテン・バイクで副都心幕張メッセを往復する。

 稲毛海岸に沿って造られた人工の海浜で、ヨットクラブ、ボード・セーリング、サイクリング、フィッシングが楽しめて、おまけにバーベキュー施設まである。トイレや休憩所は程よい間隔で置かれ、野性味には欠けるが家族連れや中高年にも親しまれているようだ。ウィーク・デイとあって人はまばら。遠くの棒のように見えるつりの人、ウォーキングの人、老人同士の散歩、若いジョッガー、サイクル・ウェアに身を固めたサイクリストと行きかう。おかしなもので、ママチャリでないと、同類意識をお互いに持つのか挨拶を交わす。不思議なものだ。

 ヨットハーバーを通っていると、赤い帆のヨットを目にする。とたんに「夕日に赤い帆」の曲を思い出す。ロマンティクな曲で、私のLPレコードにペリー・コモが歌うヴァージョンがある。懐かしい気分に浸る。と同時に、若いときにヨット操縦法を習っておけばよかったと手遅れを嘆く。娘は習ってくれるだろうか。多分習ってくれるだろう、大型クルーザー免許を持っているくらいだから。いや、ペーパー・ドライバーと同様、一度も自分で操縦したことがないというから習ってくれないだろう。と、とりとめのない空想を広げていた。

 幕張副都心は、日本を代表する企業がオフィスを構えていて、隣接するマンション群は人気、価格とも高い。それらの高層マンションの通りを走ると、コンクリートの無機質さが目立って、落ち着かない気分になる。ホテルもいくつかあり、アメリカの「コストコ」やフランスのスーパー・マーケット「カルフール」も出店している。カルフールは撤退するというニュースが最近流れた。1時間ほどの逍遥は、少しの疲れと汗が、新鮮な気分にさせてくれた。
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お気に入りの表現(9)ロバート・B・パーカー「暗夜を渉る」早川書房より

2005-03-17 13:02:49 | お気に入りの表現
 この本ほどアメリカ道路地図を必要とし、広大な砂漠の熱と匂いを感じさせる本も少ない。54頁にわたるロスアンジェルスからマサチューセッツまでのドライブの記述には、道路地図がないとどこに向かっているのか皆目分からない。

 また、アメリカ大陸の広大さを少しでも感じることが出来るのは、アリゾナのど真ん中で“ラジオのスイッチを入れてスキャン・ボタンを押した。デジタル・ダイヤルが音もなく点滅して、そこで停まるに足るだけの強い発信をしている局を探したが、なかった。自分が無人地帯にいるのを知る一つの方法だ”日本では、まず経験できないことだろう。
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春に出会った房総の勝浦

2005-03-15 13:04:53 | 見て歩き
 千葉県の鴨川から少し南下した和田町に、花嫁街道から烏場山(からすばやま297m)に登るコースがあって、低山歩きには最適の山なので、きのう出かける。

 朝、冷えたがいい天気に恵まれ、自宅を9時過ぎに出る。ところが、どこでどう間違えたのか、変だな?と思ったのが勝浦に入ってから。千葉市に住んでおおよそ30年近くにもなっているのにである。時間も正午前になっていた。もう山歩きの意欲は消え失せて、見晴らしのいい場所でお弁当にしようと、勝浦漁港の先に車を走らせる。勝浦は朝市で有名なところ。以前はちょくちょく来たものだ。

 漁港の先には灯台や官軍塚の園地があって整備されている。この官軍塚は、戊辰(ぼしん)の役の末期、熊本藩兵350名の遭難碑として供養されている。展望台やトイレもあり、太平洋がブルーに染まり、漁船が白い航跡を描いている。ピンクの花の彼岸桜、日本タンポポ、野草のオオイヌノフグリが咲き、ウグイスのまだ慣れない鳴き声も聞こえた。陽射しが暖かくここには春が確実に訪れていた。道を間違えたせいで出合ったうれしい時間を楽しく過ごす。
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ヴァージニア・ウルフ「燈台へ」

2005-03-13 13:36:26 | 読書
 キャッチフレーズによれば、「哲学教授夫妻とその子供たちが過ごす夏の休暇、燈台に行く話しが出るが結局行くことが出来ない。スコットランドの島を舞台に、別荘での一日を、それぞれの登場人物の意識を通して語られる内面のドラマ、ウルフの代表作であり、20世紀文学の傑作」とある。

 ウルフの作品を読むのはこれで二冊目になる。一冊目が「ダロウェイ夫人」で、映画「めぐり合う時間たち」を通じてウルフに、それこそめぐり合ったといえる。本を読み終わったとき、疲労に包まれた。やっと終わったというのが率直なところ。ウルフの文体はハッとするような言い回しがあるかと思えば、私の理解を超える表現で右往左往させられる。

 “黄色の眼を猫のように半びらきにして、日光浴をしているカーマイクル氏に何かご入用のものは?とたずねるために散歩を中断しなければならなかった。彼の猫の眼はそよぐ枝、流れる雲を映しながら、心中の思い、感情を毛ほどもあらわしはしなかった”

 “月の傍に眠る空の一廓、去りがたくさまよっていた雲がはれてあらわれた空の一廓のように、晴れ晴れとしていました”

 “その言葉はまるで泉の中に落ちてゆくように思え、その水は澄んでいるのだけれど、また無闇とねじれ、ゆがんでいた。言葉は降りてゆく間にも、ひどくゆがめられて、その子供の心という底に落ち着く時には、どんな模様をつくり出すか見当もつかなかった”

 “それでもし機会があれば、人々の首筋をとって、ようく見せてあげたいと思います。島中に全然病院がないなんて、ほんとに恥じですわ。ロンドンの家庭に配達されるミルクは、文字通り、ほこりで褐色になってますわ。法律で禁止すべきです”

 “風が吹いていた。それで、楡(にれ)の葉は時々ゆれて星をこすり、姿をあらわにさせた。星たちも楡の葉ずえの間にふるえ、光を投げ、葉末から流れ出ようとしているようであった”

 “春は来たが、まだ突き上げる葉一つない、全くむき出しのすがすがしさ、まるで処女のように、きびしいほどに純潔で、その清浄さの故に冷たくもある。その春は草原にくりひろげられ、驚いて眼を大きく見開き、用心深い姿勢であるが、みる人のなすこと考えることには全く無関心である”これらはほんの一部で、全編こんな感じで埋め尽くされている。

 気になる点が一つある。「ダロウェイ夫人」に中に、確か“一瞬が過ぎればもうそれは過去の時間”という記述やこの本でも晩餐が終わり、みんな部屋を出ていったあと、主人公が“最後の一瞥を肩越しに投げ。それがすでに過去になったことを知った”という記述である。
 
 人生は瞬間を生きその瞬間が時を刻み、過ぎ去ればすでに時は過去の陰に隠れている。まるで、歩む足元の背後が崩れるような恐怖と残る時間が絶望なのか諦めなのか判然としないまま、空ろな眼差しを虚空に投げかける様が見えるように思えてならない。1927年ウルフ45歳の作品で、1941年ウルフがうつ病で入水するが、その影響が早くも出ていたのだろうか。しかし、年を重ねた者から見れば軽重の差はあれ、誰しも抱く感情のように思われるが。私も旅の写真を見て、すでに過去の出来事になった事実が、なぜか寂しさが忍び寄ってくるのを感じる。
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お気に入りの表現(8)ロバート・B・パーカー「スター・ダスト」早川書房から

2005-03-12 13:29:41 | お気に入りの表現

 “私はチェロキーを四輪駆動にし、四輪駆動車に乗っている男しか味わえない尊大な気分で運転していた”

 チェロキーは、クライスラーのジープのこと。四輪駆動車にはフルタイムとパートタイムの2種類がある。フルタイムは常時四輪で駆動している。パートタイムは市街地などの走行は普通の車と同様二輪駆動で、雪やオフロードなどでは四輪駆動にするというもの。このチェロキーは、四輪駆動にしと言っているのでパートタイムである。

 私も10年以上四駆に乗っていた。買ってしばらくは尊大な気分でわざわざ林道に走りに行ったり、関東地方に滅多にない雪が降ったりとなればいそいそと車で乗り出したものだ。10年以上乗っていてトランスファー(四輪駆動にしたり解除したりする装置)を使う機会が数えるほどしかない。結局四駆の必要性はなく、今は2WD車に乗っている。四駆が必要とされるのは、寒冷地や砂漠、荒地の多い地形などになる。

 遊びで乗るのであれば、むしろ2WD車で雪道やオフロードを走破するのが、スリルと満足感が得られる。運転の腕が上がることも付録としてある。もっと若ければ、ボロ車を買って腹をこすろうがボディに傷がつこうがお構いなしに、人や車のこない林道を思いっきり走って、山の端から昇る朝日に、あるいわ沈む落日を熱いコーヒーとともに眺めるのは言い知れぬ喜びである。これこそ男にしか分からない気分だろう。そして尊大な気分も消え去っている。
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