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大リーグ ヤンキース、AL東部地区優勝!

2009-09-28 21:34:05 | スポーツ

        
        Party timeのタシェアラ、ジーターたち
 ヤンキースにとって2006年以来3年ぶりとなる地区優勝は、松井秀喜のタイムリー・ヒットで逆転し、追加点を加えて4-2でレッド・ソックスを降して手にした。
 MLB.COMでは、Party time : Yanks Kings of AL East Pettitte’s solid start, Clutch hit by Matsui secure title.(ヤンキース、アメリカンリーグ・東地区のキング、ペティットが手堅く投げ、松井はタイトルを勝ち取るヒットを放った)と言う活字が躍った。
 一方、今シーズンで契約が切れる松井には、残留の可能性も示唆している。しかし、シーズン途中から地元メディアでは、いかなる貢献であっても契約延長はないだろうという観測が強い。果たしてシーズン・オフには、どんな結果になるのだろうか。
 地元ヤンキース・ファンの中には松井がはなれた場合、球団収入にかなりの影響があるのではないかという。ヤンキー・スタジアムの企業広告は、トヨタ、キャノン、小松、カシオなど日本を代表する企業が並んでいる。それに日本のファンが離れることにもなる。つまりヤンキー・スタジアムは、ニューヨークの観光資源の一つと言うわけ。
 企業広告という点では、例えばタンパ・ベイ・レイズのトロピカーナ・フィールドには、日本人も知らない企業を目にする。そんなわけで、ヤンキー・スタジアムの広告料は、桁違いに高いのだろうと想像する。
 松井も、リップ・サービスかもしれないが「ヤンキースもニューヨークも好きだ」と言う。いずれにしてもプレイ・オフも、精一杯がんばるしかない。結果さえ残しておけば、他球団に移るにしても高く売れるのだから。
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デジカメ持って小旅行「千葉県鋸山(のこぎりやま)日本寺(にほんじ)」

2009-09-26 12:55:29 | 旅行

 井沢元彦著「古寺歩きのツボ」にもリスト・アップされ、古い歴史を持つが、現在は石仏の寺として有名。高さ31メートルの大石仏がある。眺望絶佳と紹介されている。
 千葉県金谷と神奈川県久里浜を結ぶ東京湾フェリーの金谷と保田との中間に位置する鋸山は、有料ドライブウェイとロープウェイが山頂まで通じている。私たちは、無料の自動車道で中ほどにある無料駐車場まで上った。ここへ行くには、国道127号線とJR内房線が平行に走る元名海岸付近で、内房線の下をくぐり抜けていくことになる。少し分かりづらい場所だ。事前にインターネットで日本寺のホームページから案内図をダウンロードしておいたほうがよさそうだ。
 元名付近で正午が過ぎていたので、いつものコンビ二の弁当でなく食堂に入った。お昼時なのにお客は一人もいない。アジのフライ定食を注文した。海を見るには絶好の位置にあって、太平洋が果てしなく広がり、かすんだ曇り空が海の色を灰色に染めていた。私たちの食事が終わった頃、サラリーマン風の営業マンと思しき二人の男が入ってきた。つづいて三十代の女性二人も入ってきた。歩いてすぐのところに元名海水浴場があって、夏季はこの食堂も賑わうことだろう。
 日本寺の駐車場には、十数台が見えた。拝観料一人600円を払い、おじさんの初めてですか? の問いから、効率的な拝観順路を教えてもらった。
          
          順路の階段
 標高300メートルの境内は、階段が縦横に走り、かなりの運動を強いられる。このお寺へは、ウォーキング・シューズか、ジョギング・シューズのような歩きやすい靴が必携だ。私はジョギング・シューズに履き替えたので何の問題もなかった。大石仏、千五百羅漢、百尺漢音などを巡って1時間半の所要だった。
 さて、このお寺の由来は、約1300年前、聖武天皇の勅詔(ちょくしょう)と、光明皇后のおことばをうけて、神亀2年(725年)高僧行基菩薩によって開かれた勅願所で、乾坤山(けんこんざん)日本寺という。聖武天皇からは、国号の「日本寺」の勅額、宸翰(しんかん)並びに黄金5千貫を、光明皇后からは手ずからの刺繍になる三十三観音の軸物および御戸帳料綾錦十匹を賜る。
 ちなみに御戸帳というのは、本尊の前に垂らす幕のこと。また、綾錦は、美くしい絹織物のことを指し、多彩な着物、紅葉の鮮やかさを形容する言葉。さらに十匹の匹は、布地二反を単位として数える言葉で、一反は、長さ10メートル、幅約34センチで、成人一人の和服が作れる。ということは、かなり豪華な幕を賜ったことになる。
 はじめは法相宗に属し、次いで天台、真言宗を経て徳川三代将軍家光のとき、曹洞宗になって今日に至る。
         
         大 仏
 お寺の売り物の一つ大仏がある。江戸時代末期から昭和41年まで風化に任されていたが、昭和44年(1969年)に復元された。原型は天明3年(1783年)大野甚五郎英令が、門弟27名とともに3年を費やして完成させたものという。
         
         百尺観音
         
        百尺観音から仰ぎ見る崖の先端(展望台になっている)
 次いで百尺観音。これは現代の人間が作ったもので、昭和41年(1966年)完成というから古いものではない。発願の目的は、先の大戦の戦死病没殉難者供養。東京湾周辺の航海、航空、陸上の交通犠牲者供養として造営された。
     
     首なし石仏がずらりと並ぶ
 私が最も印象に残ったのが、千五百羅漢の中に石仏の首がないのを多く見たことだ。風化して自然になくなったのかと思っていたが、案内図でコースを教えてくれたおじさんに尋ねると「あれは廃仏毀釈のせいですよ」と言う。
 明治の初期までは、土着の信仰と仏教信仰を折衷して、一つの信仰体系としていた。今でも寺院と神社が同じ敷地に並存しているのを多く見かけるが、それがその名残だろう。ところが明治新政府が、神仏習合の廃止、神体に仏像の使用禁止、神社からの仏教的要素の払拭などを含む神仏分離令を発令した。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の取り壊し、仏事の禁止、民間への神道強制などを急激に実施したため大混乱となった。仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまった。千葉県の鋸山には五百羅漢があるが、すべての仏像が破壊された。現在は修復されている。とウィキペディアにある。
          
          灰色にかすむ金谷港
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デジカメ持って小旅行「千葉県君津市鹿野山(かのうざん)神野寺(じんやじ)」

2009-09-21 10:39:32 | 旅行

 台風の接近もあって空は曇っていた。先週なかばも同じように台風がやってきた。いずれも日本列島を横目で見ながら、関東沖を遠ざかっていった。
 そんなわけで、すっきりとした秋晴れに恵まれない金曜日のドライブとなった。最近は、土・日になると東京湾アクアラインがETC搭載車800円の影響で、千葉方面への下りが渋滞している。ということは、千葉方面に来る車が多いということになる。
 私のような時間に余裕のある年代は、毎日忙しくしている人たちの邪魔をしないのも肝心なことと思う。そこでウィークデイのドライブとなった。館山自動車道を1時間も走れば着く場所ではあるが、あえていつものように県道や地方道を走る。            
          
 走る道によっては、対向車も時折見かけるという、眠気を催すほどのんびりとしたものだった。道路脇のピンクと白のコスモスや赤い彼岸花を眺めながらのドライブとなった。
         
          尾根を走る県道163号線は、対向車が少ない
 鹿野山付近の県道163号線は、低い尾根を縫うように走る。地方道93号線に飛びだしてすぐのところに神野寺がある。
         
         
 むき出しの板に書かれたお寺の由来は、真言宗智山派鹿野山神野寺といい、推古天皇6年(598年)に聖徳太子の開山、天安元年(857年)には、慈覚大師円仁が再興した。平安時代から鎌倉時代にかけては、天台宗の霊場として栄えた。
 永正年間(1504年~1521年)には、紀州高野山から弘範上人(こうはんしょうにん)が來山、真言密教の法燈を立て、荒廃していた寺を復興した。天正19年(1591年)に徳川家康は寺領ならびに格式十万石の大名格を寄進している。また、この年に伽藍や僧坊を造営している。
 元和7年(1621年)12月、坊中から出火して堂宇を焼失した。その後、住職たちによって再建して行ったが、大正6年(1917年)9月の台風によって仁王門その他の建造物が倒壊した。その後も住職などの努力で復興して現在に至る。
 本尊は、薬師如来と軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)で、秘仏となっている。ちなみに、軍茶利明王は、軍茶利夜叉明王とも言われ一面八臂の姿で、手は2本の腕で三鈷印を結び、他の腕には武器や斧を持ち、顔は三ッ目でとぐろを巻く蛇を身にまとった姿で密教においての宝生如来の教輪転身とされ、さまざまな障碍を除くといわれる五大明王の一尊。
 その五大明王というのは、不動明王、降三世明王(ごうざんせみょうおう)、軍茶利明王、大威徳明王(だいいとくみょうおう)そして金剛夜叉明王という。このあと鋸山の日本寺に向かった。
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大リーグ ダイスケ3ヶ月振りでフェンウェイのマウンドへ

2009-09-16 13:54:58 | スポーツ

          
 MLB.COMのレッド・ソックス・サイトでは、Matsuzaka brilliant in return(松坂見事に復帰)、Matsuzaka returns in big way(松坂ローテーションに戻る)Dice-k’s scoreless start(ダイスケ無失点でスタート)などの活字が躍っていた。
 エンジェルスとの試合で、6回93球、被安打3、奪三振5、与四球3、無失点の好投を見せ勝ち投手になった。防御率は、7,02とまったく冴えないが。
 故障者リストに名前を連ねているときは、ボストンのファンの厳しい声も多かったようだ。WBCでは活躍したが、肝心のわがボストンではまったくの体たらくに憤慨していたのだろう。ファンばかりでなく首脳陣にも憤懣があったはずだ。
 メディアによっては、昨年の18勝も打線の援護によるものと決め付ける向きもある。そういう雑音を跳ね返すためにも、今年は防御率を2点台にしておきたかったはず。しかし、不運に見舞われてしまった。
 原因にWBCにあるとは、決して言わないだろうが、わたしは明らかにWBCにあると思っている。どこから報酬を得ているかを考えれば、WBCは手抜きでもいい。日の丸やサムライなんて言わないでくれと言いたくなる。高校野球じゃないんだから。 さて、ボストンはワイルド・カードでポスト・シーズンス進出は確実だろうから、ダイスケは登板すれば全勝を果たして欲しい。せめてものチームへの迷惑料になるだろう。
 今シーズンMLBで投げた日本人投手は、すべてチームに迷惑をかけている。ここで今一度、先駆者の野茂投手の「先発投手は、いかにローテーションを守るか、これが一番大事なことだ」と言っている。日本人投手は、肝に銘じるべきだろう。
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大リーグ イチローの偉業

2009-09-15 12:58:57 | スポーツ

       
 すでに報道されているように、イチローはウィリー・キーラー(1894年~1901年)の8年連続200安打を破り、9年連続200安打のMLB記録を樹立した。
 MLBのホームページ、シアトル・マリナーズのサイトには、200安打おめでとうのロゴが踊っていた。イチロー得意の内野安打で……というキャプションもついていた。
 しかし、イチローの記録が偉業といわれるゆえんは、歴代のヒット・リーダーと比べても抜きんでた記録であることが分かる。ピート・ローズ、24年間で200安打は10シーズンうち連続200安打は3シーズン。タイ・カッブ、24年間で200安打は9シーズンうち連続200安打3シーズンという具合だ。
 日本の新聞やインターネットの記事も絶賛調一色だ。ところが、マリナーズの同僚の言葉やワカマツ監督のコメントがない。もっと言えば、テキサス・レンジャーズの好敵手マイケル・ヤングのコメントやイチローがマリナーズに入ったときのピネラ監督やブーン、オルルッド、キャメロン、マルチネス、ギーエンなどのコメントが取れていれば記事に深みが出ただろうに。おっと、忘れるところだったあの守護神佐々木もいる。
 今日(9月15日)の読売の朝刊には、MLB.COMからの引用でアストロズのテハダ「9年連続は途方もない」。レンジャーズのヤングは、「イチローの忍耐力には匹敵できない」といったコメントを載せている。こんなのは手抜きで褒められたことではない。
 先のピネラ監督ほかの人々にインタビューをしようとすれば、事前のコンタクトが必要だろう。そういった細かいことはしないのかもしれないし、いまどきのスポーツ記者は目先だけを追いかけているのかもすれない。
 個人的には、イチローは好きな選手ではない。特にあの物言いが肌に合わない。今回のコメントも書き言葉で表現していて硬い感じがする。イチロー・ファンには、小学生も大勢いるだろう。もっと分かりやすい言葉を選ぶほうがいいと思う。とはいっても、変人イチローは、聞く耳を持たず妥協もしないかもしれないが。
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デジカメ持って小旅行「新上総国三十三箇所霊場第4番札所「三途台長福寿寺」

2009-09-10 11:46:15 | 旅行

         
 「三途河頭極楽東門蓮華台上阿弥陀坊太平埜山本実成院長福寿寺」これがこのお寺の勅号で、日本一長いと言う。関東の学問所として房総内外の寺院子弟の教育に当たり、中世においては、西に比叡山、東に三途台(当時は東叡山と称した)ありと言われ、関東天台の要をなし房総三国での大本山として、末寺308ヶ寺を有した古刹という。
 梨本(京都・大原三千院)、毘沙門堂(びしゃもんどう)(京都)両門主もこのお寺の住職となった縁でこの勅号を賜ったとか。延暦17年(798年)桓武天皇の勅願により伝教大師最澄によって創建され、文和年中(1353年)比叡山恵光坊義喧僧正によって再営された。
 田んぼの真ん中に位置していて、本堂周辺は樹木も少なく、本堂前は砂地で訪れた日は真夏の太陽に燻(いぶ)されるような暑さのせいかいらいらした気分になった。ここは多角経営を目指しているのか、テニスコート、ログハウス、露天風呂まであった。仏像教室に精進料理と多彩な面を見せる。これも布教の一環らしい。本尊は、阿弥陀如来。
            
            本堂の隙間から撮ったのでハッキリしない
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デジカメ持って小旅行「新上総国三十三箇所霊場第6番札所「玉泉寺」

2009-09-05 11:30:32 | 旅行

         
 永平寺(福井県)、総持寺(神奈川県)を二大本山とする禅宗の一派の曹洞宗(そうとうしゆう)東渓山玉泉寺は、千葉県長生郡長南町地方道27号線沿いの農道の奥にあった。山門があってすぐ本堂という小さなお寺だった。駐車場は、芝生が敷き詰められたかなりの広さがあった。
         
 お寺の由来は、天正18年‘1590年)長南武田氏落城のとき、山内にあった玉泉寺も焼失、地頭(じとう=貴族・社寺が私有した土地・荘園(しょうえん)を管理し、租税を徴収した職名)・神尾若狭守の寄進を受け、木更津真如寺十一世・超室大越大和尚の開山による。との説明がある。
 本尊は、千手観世音菩薩。不思議なことに、浄財を受けるお賽銭箱が、どこにもなかった。
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