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映画 「シャッター・アイランド Shutter Island ‘09」劇場公開2010年4月

2010-09-30 13:49:51 | 映画

             
 この映画のことはあまり詳しく書かないほうがいいだろう。興味をそぐことになるから。なにせ、孤島にある重罪の精神病院のお話。謎が謎を呼びスリルとサスペンスには事欠かない。

 それにしても観ていて思ったのが、熟練の優秀な精神科医にかかれば、正常な精神の持ち主でも病人にするにはたやすいのではないか。と思ったことだった。そちらの方が恐くなってしまった。しかし、楽しみながら観るには格好の映画だろう。

 ラストでディカプリオが言う。「モンスターで生きるか、善人で死ぬかのどちらかだ」私が思うに、これはマーティン・スコセッシのメッセージに思える。観客の皆さん、どちらかを選んでください!俳優の円熟期は、三十代の中ごろだろう。ディカプリオを見ていてその感を強くした。
             

監督
マーティン・スコセッシ1942年11月ニューヨーク、クイーンズ、フラッシング生まれ。‘06「ディパーテッド」で6度目の監督賞ノミネートで受賞した。
             
キャスト 
レオナルド・ディカプリオ1974年11月父がイタリア人、母がドイツ人の間に生まれる。
             
マーク・ラファロ1967年11月ウィスコンシン州ケノーシャ生まれ。
ベン・キングズレー1943年12月イギリス、ヨークシャー州スナイトン生まれ。‘82「ガンジー」でアカデミー主演男優賞受賞の実力派俳優。
             
ミッシエル・ウィリアムズ1980年9月モンタナ州生まれ。
             
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読書 「花芯」瀬戸内寂聴

2010-09-27 09:35:45 | 読書
 
                
 瀬戸内寂聴が30代の晴美時代に書いた作品。この本には「花芯」を初め全部で5作品が収められている。とくに「花芯」は女性が性愛を描いたとして、当時「子宮作家」というレッテルを貼られたといわれる。それは作品の中に、子宮という言葉が頻繁に現われるからだ。

 一読して断言できるのは、絶対男性作家には書けない部分があるということだ。それは女性のオーガズムだ。例えば「上り詰めた」とか「失神のめまいに襲われた」「殺して欲しいくらいの官能に溺れた」という通俗的な表現で誤魔化すしかない男性作家と比べ、瀬戸内寂聴は「出産のあと、私はセックスの快感がどういうものか識った。それは粘膜の感応などの生ぬるいものでなく、子宮という内臓を震わせ、子宮そのものが押さえきれないうめき声をもらす劇甚な感覚であった」

 女性ならこの感覚は、納得されると思う。私もつい最近ある女性からこれに似た話を聞いたので納得できた。この作品は、精神と肉体が対立しながら流れていくという、ちょっと難しいテーマが描かれていて一読では理解不足に陥る。

 主人公の園子が夫を愛せない。この感情に理由がいるのだろうか。また、園子夫婦の引越しの時、訪れてきた越智という男との出会い。「ゆっくり首をまわした私の目いっぱいに、越智の顔が映ってきた。肉の薄い精悍な顔の中から、まなじりの上った越智に目が、私の焦点のゆるんだいつもの煙ったまなざしをがっちり捕らえて、動かなくなった。
 レンズのしぼりをしぼられるように、私の目がひきしまり、瞳がきらきらと輝きをました。私のからだの奥のどこかで、何かがかすかな音をたててくずれるのを聞いた。あ、 と声にならぬ声を私がたて、越智がどこかを針で刺されたような表情をした。私は越智が私を感じてくれたことをさとった。不思議な震えが、私の内部のもう一つのいのちに伝わっていった」この感情に理由がいるのだろうか。
 また、越智は下宿の未亡人の家主と深い関係にあった。この初老の女性の越智に対する官能的な執念も。理由がいるのだろうか。
 そして、園子は完璧な娼婦へと流れていく。「死というものを、私は、セックスの極におとずれる、あの精神の断絶の実感でしか想像することができないのだ。私が死んで焼かれたあと、白いかぼそい骨のかげに、私の子宮だけが、ぶすぶすと悪臭を放ち、焼けのこることを一番恐れている」読んで損はないし、一時的にも思索にさ迷うのも悪くない。
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読書 阿刀田高「エロスは古文によく似合う」

2010-09-24 10:54:56 | 読書

                
 エロスという文字が私を誘った。それに最近読んだ田中貴子「セクシィ古文!」も一役買っているかもしれない。「セクシィ古文!」から「源氏物語」それにこの本といった具合に、読書の連鎖は面白い。この本は、「古今物語集」の原話をもとにエロスを描いてある。

 阿刀田高の誘いの言葉は、『具体的な愛(エロス)の話。つまり、その……ポーノグラフィー。男性は言うに及ばず、女性も、「嫌ねえ」といいながらも、ちょっと覗いてみたくなる世界です。「今昔物語」はこうした艶っぽい話の宝庫です。このおもしろさ、知っていて損はないと思いますが……』

 エロティックな話をここでごちゃごちゃ書くのもいただけない。一つだけ面白い話。これは今昔物語の原話ではない。
 少し引用してみよう「どんな女が好きか」この厳粛なテーマについて、編集者のKさんは「おれ、断然、毛が濃いのが好きだなあ。モジャモジャしているくらい。手が薄いと欲望も起きない。毛が一番」
と言う。

 知人は、「女の人の毛は薄い方がいいねえ。髪の毛はあんまり薄くちゃ困るけど、体毛の濃いのは嫌だね。ロシアの女性なんか、一見ものすごい美人でも、鼻ひげなんか薄っすら生えているじゃない。興醒めだよ。百年の恋もいっぺんに醒めてしまう」

 これは人それぞれという結論になるだろう。こんな段落があって、和服の時洋服の時の女性の髪型から顔の話になって匂いでようやく今昔物語に到達する。一転して作家は、作品の第一行に苦労する。第一行目の言葉を求めてさ迷う。と言う段落に入る。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
「木曽路はすべて山の中である」
「王龍の妻を迎える日であった」

 それぞれ工夫してあるが、今昔物語は、「今は昔」で始まるから楽なものである。ご苦労の末の言葉なのだろう。確かにそういう人は多い。と言うことで作家論も少し挟んである。作品の未熟さについて述べてある。

 「未熟である理由は、三つに分けられるだろう。ディテール(細かい部分)が描かれていない。かすかに辻褄のあわないところがある。そして、結論となるものがない」小説とはディテールを書くことだ。と言う極端な言葉があるくらい小説には細かい描写が必要なものだ。辻褄が合わないというのは言葉通り。結論というのは、モチーフのことで、なにが言いたいのか? 作者の新しい視点がどこにあるのか。読者に、なるほどと思わせる必要がある。エロスに誘われて、お堅い作家論に到達してしまった。エロスからお堅い話へ、また、お堅い話からエロスへ飛ぶのも悪くない。
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読書 瀬戸内寂聴「源氏物語 巻一」

2010-09-19 16:09:05 | 読書
               

 正直言って稀代のプレイボーイ光源氏に没入できなかった。この巻一には、17歳から18歳の恋の遍歴が収められている。一言で言えば、光源氏が文武両道といいながら、絶えずめそめそしていつも悩んでいて部屋にこもったりする。

 夕顔という女と淋しげな邸で夜を過ごしている時、『とろとろとお眠りになられたそのお枕上に、ぞっとするほど美しい女が坐っていて、「わたしが心からほんとうにすばらしいお方と、夢中でお慕いしていますのに、捨てておかれて、こんな平凡なつまらない女をおつれ歩きになって御寵愛なさるとは、あんまりです。心外で口惜しく悲しゅうございます」と言いながら、源氏の君の傍らに寝ている女に手をかけ、引き起こそうとするのを、夢にご覧になります』これがもとで夕顔が死んでしまう。
 不思議なのが、夢を見たのが源氏なのに、なぜ夕顔が死ぬのか。何かの祟りか? 不可解!いずれにても沈み込む源氏。

 この夕顔という女は、源氏好みの女だった。控えめで言いなりになる女。ところが夕顔はいたずらっぽく抵抗するそぶりも見せる。それは歌の返歌でであった。こまやかな愛の一夜とはげしい愛の疲れを経ていても、源氏は覆面をしている。お忍びのお通いということもあるのだろう。これほど深い仲なのにいつまでも覆面というのも詮無いこととも思ったのか、源氏は覆面をとり払った。そして源氏は歌を夕顔に贈る。

夕露にひもとく花は玉鉾(たまぼこ)の  たよりに見えし縁(え)にこそあれ

「夕べの露に花が開くように 私が今覆面を外し 顔をお見せするのも あの通りすがりの道で 姿を見られた縁からだ」

「どうですか、白露の光と言ったわたしの顔は」とおっしゃいますと、女は流し目にちらりと見て

光ありと見し夕顔の上露は  たそがれどきのそら目ないけり

「露に濡れ光るように 輝いて見えたお顔は 今近くで見ると それほどでもないあれは たそがれ時の見まちがい」

とかすかな声で言う夕顔に源氏もにやりとする。

源氏物語の白眉は、この歌にあるのは確かだ。これがないと単なるいちゃいちゃした恋物語でしかない。

 すべての女が源氏の姿に惚れ惚れと見入るか、遠目に見てため息をつく。美しい光源氏といわれても、具体的にどのように美しいのかサッパリ分からない。もっとも、読者に好みの美貌をイメージさせる効果はある。作者の紫式部はそのように考えたのかも知れない。ちょっといい女を見つければ、すぐ手を出したがる好色な男の話を、これでもこれでもかと書かれると疲れてくる。

 あまり風呂に入らないので体臭を香でごまかし、食べるものもお粥となれば夜の営みが魅惑的なものとも思われない。瀬戸内寂聴に、「日本が世界に誇る文化遺産として、筆頭に挙げてもいい傑作長編の大恋愛小説である」と言わしめている。どう思うかは読み手次第で、わたしはこの巻一で充分だ。

 原作者の紫式部は、不美人で結婚も遅く自分の父ほどの年齢の藤原宣孝(のぶたか)と結婚、一人の女の子を産む。宣孝は子供を授けて病死する。結婚生活は、わずか三年余り。その後、男との浮いた噂はなかったらしい。その空虚を埋めるために、この源氏物語を書いたのかもしれない。と瀬戸内寂聴は書いている。

 あるいは、とわたしは思う。紫式部が理想とする男を夢に描いていて、夫の死後その空虚感を補うために、それを物語にしたのではないだろうか。この世に存在しないような美しい男に抱かれる妄想が、この作品を生んだと言ってもまんざら間違いでもないかもしれない。
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読書  厨房の裏側「キッチン・コンフィデンシャル」から No9「ブラッスリー・レアール」東京店

2010-09-15 13:39:22 | 読書
               

 戦場のようなキッチンで汗を流し火傷を負い指や手におびただしい切り傷をつけながら、仲間のコックやウェイターの指揮をとって、一晩で膨大な料理を作る総料理長。それも温かい料理、冷たい料理、焼いたもの、揚げたもの、煮たものを同時に何人前かを出さなくてはならない。

 私たちがレストランへ行って何気なく注文する一皿に、いろんなドラマが潜んでいるとは思いもしなかった。人生の喜びや哀しみに震えながら、今日も一皿を盛り付ける。そこにはその人の思いがこもっているのだろうか。

 こよなく料理を愛し食べることにも貪欲なアンソニーシェフは、人気レストラン「ブラッスリー・レアール」に勤めていた。ある日オーナーから、東京店をニューヨークと同じようにしたいという要請を受けて地球の反対側に行くことになる。

 14時間しかも煙草の吸えない14時間は、恐怖の時間だったが、何とか成田についた。そして六本木にある東京店へ。一週間の滞在中オーナーの一人フィリップが案内したすし店での刺身などの賞味に大感激したり、一人でそば店に入って食べた日本食にも舌鼓をうつ。それに、築地市場の素晴らしさに触れている。「東京の魚市場である築地に比べたら、ニューヨークのフルトン・マーケットなど足元にも及ばない。築地市場は規模もずっと大きく、品物も充実していて、ただ見物するだけでも一度は訪れてみる価値がある」

 私にとってこの築地という地名は、自分の家から出て角を曲がるように慣れ親しんだところであり、懐かしさがこみ上げてくる。浄土宗別院の築地本願寺の境内を通り抜けたり、東側の道路を歩いて勤め先のあるビルに通ったりしたものだ。
 この築地について人類学と日本研究のハーバード大学教授テオドル・ベスター著「築地」にも世界の中心とまで言い切る市場だ。
 素晴らしい日本の一週間を過ごしたアンソニー・ボーデインは、現在ブラッスリー・レナール、ニューヨーク店の総料理長をしている。それから、六本木の東京店は現在は無いようだ。
         
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映画 「17歳の肖像 An Education ‘09」劇場公開2010年4月

2010-09-12 12:50:04 | 映画

          
 この作品は、‘09アカデミー賞作品賞にノミネートされ、主演のキャリー・マリガンも主演女優賞にノミネートされている。

 オクスフォードを目指す成績優秀なジェニー(キャリー・マリガン)も一皮向けばフランスに憧れる普通の少女。その彼女の前に倍ほど年齢の違うハンサムなデイヴィッド(ピーター・サースガード)が現われ、音楽会や絵画のオークション、ジャズ、美味しい食べ物に誘われる。退屈な受験勉強に意義を見出せなかったジェニーは、それらに没入していく。
 しかもデイヴィッドの仕事は何なのか? 金回りはよさそうだがハッキリしない。両親もデイヴィッドを気に入っている。そうこうするうちに、結婚を申し込まれて応諾するジェニー、しかも学校を退学する。
 車のダッシュボードから見つけた手紙の宛先。デイヴィッド夫妻とあった。裏切られたジェニーであるが、スタップス先生(オリヴィア・ウィリアムズ)の助けで、オクスフォードに合格する。思春期の心の動きを巧みに描出してあるが、結末は平凡。

 それに辻褄が合わないところや、理解に苦しむところもある。車のダッシュボードにバレてはいけない手紙なんか入れて置くだろうか。もっと不可解なのは、17歳の誕生日まで処女は捨てないと言っていたジェニーのその誕生日に、ベッドでデイヴィッドがバナナを取り出して、これで予行演習云々には恐れ入った。
 デイヴィッドの品性下劣を表現しているのか。あるいは、それに続くジェニーのセリフにつながるのか。ジェニーは言う「私を大人として扱って欲しい」 現代の女子高校生、どこの国でもあまり変わらないんだなあ。 というのが感想だった。
 それにスタップス先生役のオリヴィア・ウィリアムズ。ジェニーに教師という職業を悪罵されていたにも拘らず、ジェニーに助けを求められて「その言葉を待ってたわ」と言う。広いロフトで40代の独身女性の雰囲気を漂わせていたのが印象的だった。

監督ロネ・シェルフィグ1959年5月デンマーク コペンハーゲン生まれ。

キャリー・マリガン1985年5月イギリス生まれ。
ピーター・サースガード1971年3月イリノイ州生まれ。
オリヴィア・ウィリアムズ1968年7月ロンドン生まれ。
エマ・トンプソン1959年4月生まれ。ベテラン女優。
           
           

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読書 「わが性と生」瀬戸内寂聴

2010-09-08 06:43:07 | 読書
                 
 晴美と寂聴の往復書簡のかたちで性と生を語ってあるが、むしろ性のほうに重点が置かれているようだ。
 「花芯」で子宮作家と揶揄されたらしいが、本来作家になろうという男や女が、性体験が乏しくて何が書けるというのか。小説には男と女が出てくるのは必定だし、出てくれば恋に発展するのは大体の筋書きだし、恋愛の成れの果てがセックスに行き着くのは当たり前のこと。
 それが、童貞や処女が書いてどうする。全然面白くもないし、人間の喜びや哀しみを語れるはずがない。

 「花芯」の書かれた古臭い時代に大胆に描写した晴美という女も、80歳を越えた寂聴尼として女盛りを40代だと至言しているのも過去の性愛体験からのものだ。私は、尼僧は独身でないといけないと思い込んでいた。夫があってもいい、それにセックスを断つ必要もないらしい。
 
 寂聴は、51歳で出家して以来、交合はないという。しかし、過去の経験からの考察もある。ある女友達が言った。「男に言い寄られて断るのもしんどいものよ。相手を傷つけないよう断ろうと努力するのも神経使うし、精力が入るじゃない。
 だからつい、させてあげた方が楽だと思ってしまうのよ。あたしに拒絶本能が欠如してるなんて怒る男がいたけど、間違ってるわよね」
 この女性は、人妻でありながら、絶えず恋をしたり、需(もと)めに応じてさせてあげたりしていたのは、結婚して三年目のある日、突然、相思相愛の夫君から、「君はセックスの要求が強烈すぎてついていけない」といわれて、性抜きの夫婦になったからだという。これには意見が多々あるだろうが、そんな夫婦もあり、そんな女もあるということでいいだろう。

 それから寂聴はこうも言っている。「セックスをすると自分が限りなく優しくなれるし、そういう自分が好きなので、私はその場に望めば一心不乱に励んだのですが、どうやら、相手のためというよりも自分のためだったのかもわかりません。それもまた女の性のノーマルなタイプではないかと思います。男は女を歓ばせることで快楽を覚え、女は男に歓ばされることが快楽につながるのでしょう」

 また、「私は巨根というものに全く魅力を感じません。口いっぱいに物をほおばりすぎると味わうことも無理なように、巨(おお)きすぎるものは嵩張るだけで味気ないだろうなと想像します。女の快感は伸縮自在な自身締め付け運動を味わうことによって生じるのですから、それが不可能な口いっぱい状態から快感の生まれようはずもなかろうと想像します。女の機能が優秀ならば、対象に添うため収縮運動はおのずから活発になるのではないかと、これも想像します。なぜなら私は巨大にも矮小にも幸か不幸かゆき当たったことがないからです。あくまで乏しい想像力による判断とお聞きのがし願います」巨根礼賛でないのがいいところだ。いずれにしても性愛賛美ともいえる数々の言葉が楽しい。

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映画 「ハート・ロッカー=THE HURT LOCKER(‘08)」本邦劇郷公開2010年3月

2010-09-03 17:20:34 | 映画(DVD)

            
 この映画が2009年度アカデミー賞の作品賞、監督賞、脚本賞、音響賞、編集賞などを受賞しているのが不思議な気がしてならない。観終わって感動の涙が流れることもないし、へえ、ヤツはバカみたいに、家庭を捨てて戦場に戻るんだ! というのが一言で言う感想だった。

 映画のタイトルにかぶさって、「戦争は麻薬だ」と誰かが言うのが聞こえる。そうか、一度やったらやめられないっていうのか。戦争は何度も繰り返す。そういえば、アメリカは、ベトナム戦争以来旧来型の戦争は経験していないなあ。ベトコン相手にジャングルで苦しみ、イラクでは自爆テロの脅威にさらされて来た。

 この映画は、爆弾処理班の三人の兵士を描く。実直なJ・T・サンボーン軍曹(アンソニー・マッキー)それにまだ戦場経験の少ないオーウェン・エルドリッジ技術兵、新しく加わった爆弾処理800個以上のウィリアム・ジェームズ二等軍曹(ジェレミー・レナー)たちの行動を淡々と追っている。

 治安の悪いイラクの街中、いつテロに襲われるは分からない恐怖。自爆テロなんて始末に終えない。小さな戦闘や、車に仕掛けられた爆弾処理。テロリストに時限爆弾をくくりつけられた男の救出失敗など緊張感のある場面展開だが、私にはなぜか感情移入できないというか、画面にぴりぴりとした緊張感が見えない。ほとんど昼間のことで、画面が白っぽくて陰影に乏しいせいかもしれない。男っぽい演出のキャスリン・ビグローだがいま一つ冴えない。作品賞、監督賞ほかの受賞は、初のオスカー受賞女性監督という話題と戦意高揚のご褒美と見るのは皮肉すぎるだろうか。
             
             
             
監督キャスリン・ビグロー1951年11月カリフォルニア州サンカルロス生まれ。‘90「ブルースチィール」では、ジェイミー・リー・カーティスの持ち味を引き出したように女性らしかぬ骨太の演出を見せる。ご本人もグラマーで美人だ。


キャスト 
ジェレミー・レナー(ウィリアム・ジェームズ二等軍曹) 1971年1月カリフォルニア州モデスト生まれ。どこかで見たなあと思っていたが、「ジェシー・ジェームズの暗殺」に出ていた。本作で、全米批評家協会賞主演男優賞受賞。アカデミー賞主演男優賞にノミネートされる。
アンソニー・マッキー(j・T・サンボーン軍曹)1979年9月ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれ。
ブライアン・ジェラティ(オーウェン・エルドリッジ技術兵)1974年5月ニュージャージー生まれ。
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