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デジカメ持って小旅行「新上総国三十三箇所霊場第5番札所「歓喜寺」

2009-08-29 11:55:33 | 旅行

 今年は冷夏で、関東地方は35度の猛暑日がなかった。お盆を過ぎた千葉県一宮の海岸も海水浴客はまばらでサーファーの姿が目につく、そんな風景を見ながら、いつものように車の中でサンドイッチの昼食を摂る。
         
 歓喜寺は、ここ一宮の睦沢町にある。ここも小さな台地にあって睦沢町のやすらぎの森が隣接している。仁王門の前には、「天台宗東光山歓喜寺」と朱書した看板が立っていた。仁王像は平凡だった。
         
          本 殿
 このお寺の由来は、嘉祥2年(850年)延暦寺の慈覚大師円仁が東国巡錫(じゅんしゃく=高僧が各地を回って仏法を説くこと)の折、仏堂を創立。本尊阿弥陀如来と執至菩薩(せいしぼさつ=阿弥陀仏の右方にあって知恵を表すほとけ)を安置。享保7年(1724年)焼失したが、その後再興された。
         
         
          木の根で作った龍
         
          こちらは、獅子か?
 このお寺には珍しいものが多い。説明がないのでよく分からないが、本堂に登る階段の両側には、十二支の動物が並んでいたり、木の根を彫刻して龍や何か分からない動物などがおいてあったり、樹齢200年の木の根を加工して休憩所のテーブルにしてあったりと多彩。
             
             どうしても女性に見える立像
 そして、仏像に性別はないといわれるが、誰かが奉納したのだろう、まったく女性に見える立像があった。
         
         房総の田園地帯、稲が色づいていた

          
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デジブック 『観音教寺』

2009-08-28 13:53:40 | 旅行
デジブック 『観音教寺』
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デジカメ持って小旅行 新上総国三十三箇所霊場第33番札所「観音教寺」1

2009-08-27 18:32:22 | 旅行

         
 この道の奥にお寺がある 千葉県北東部の山武郡芝山町にあるこの観音教寺は、俗称「仁王尊」のお寺。このお寺に入る交差点名も「仁王尊」となっていた。ひなびた里山の風景の中の小さな台地にある。 
 ホームページに由来が書き込まれていて、それによると、当山の創建は奈良時代末期天応元年(781年) 光仁天皇の勅命により征東大使・藤原継縄公が、守り本尊である十一面観世音大菩薩を安置した事に始まります。中世には、千葉氏の祈願所として繁栄し、近隣に八十余宇の子院を置く大寺となります。 
 江戸時代になりますと徳川幕府の庇護のもと、十万石の格式を持つ伴頭拝領寺院として管内十州(関八州に出羽・陸奥を加える)の天台寺院を統括しました。また、庶民の間では火事・泥棒除けの「お仁王様」の通称で親しまれ、火消し衆や商家の篤い信仰を得て「江戸の商家で火事泥棒除けのお仁王様のお札を祀らないお店(たな)はない」とまでいわれました。
                                
           本 堂                                  
                    
             三 重 塔 
 今日でも、一万坪に及ぶ境内に県文化財の三重塔など七堂伽藍が甍(いらか)を競い、ご利益を求める多くの参詣者で賑わっています。とある。           
            
           仁 王 門  
                                           
              吽形(うんぎょう)仁王像                         
                                  
              阿形(あぎょう)仁王像 
 確かに、仁王門は、今まで見た寺院にない堂々たる建築で一見の価値は十分にある。仁王像は見られなかったので、このお寺の発行する「におうそん通信」という冊子から取り込んだ画像で間に合わせた。 この仁王像も傷みが激しく、平成19年春から平成20年暮れにかけて修理が行われた。その時に像内銘記が発見された。それによると、嘉慶2年(1388年)に造立され、現在までおよそ600年以上の年月にわたり幾度もの修復を経てきた仁王像であることが判明した。
          
                                  
          轟音の発生源 
 本堂に参拝していると、頭上を通過するジェット機の轟音に驚かされたが、このお寺は成田空港からの離陸空路になっているようだ。はにわ博物館も併設してあって見どこの多いお寺で、雰囲気も期待に応えてくれた。

                           
 この鐘は自由に撞くことができる。撞いてみると余韻が、一分以上続いて、鐘もぶるぶると震えていた。

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デジカメ持って小旅行「新上総国三十三観音霊場第32札所不動院(ふどういん)」

2009-08-19 12:45:21 | 旅行

 久しぶりの晴天になった。例年なら梅雨明け十日(とおか)といって、太平洋高気圧が張り出し海や山に繰り出す絶好の天候が続くが、今年は男の腐ったようなぐずぐずとしていた。
 この新上総国三十三ヶ所は、千葉県の南部市原市、木更津市、君津市、富津市などが主な分布地域となっている。さて、期待にこたえてくれるか。何分千葉県は、農業と漁業のイメージが強く、お寺に関しては、京都や奈良のような派手さが無いが、坂東三十三箇所めぐりでいくつか訪れてみて、地味ながらそれなりの魅力を湛えていると思う。
          
          仁 王 門
 お寺には五・六台なら置ける駐車場がある。成東山不動院長勝寺は、千葉県山武市成東2551にある。国道126号線からJR総武本線「成東」駅方向の近くにある。 天平3年(731年)行基が東国巡錫(じゅんしゃく=高僧が各地を回って仏法を説くこと)の折、不動明王の尊像を刻み海難除けを祈願し開基したとされ、その後平安時代の初め弘法大師が関東教化の折り、現在地に移して建立。民衆救護のため大護摩を催し民福増進の秘法を行ったとされる。
              
               朱塗りの本堂
 本堂の創建年代は不詳で、改修に当たって発見された棟札によると、元和4年(1618年)と記されてあったと伝えられており、現在の本堂の建立時期は、少なくとも江戸時代初期にまでさかのぼると考えられる。その後、何度か改修が行われ、明治以降も明治45年(1913年)、昭和30年(1955年)に改修が行われている。昭和49年(1974年)には基礎石積工事が完成し、懸崖造りの維持保存がされている。
 朱塗りの本堂は、標高30メートルの石塚の森の中腹の岩石上にあり、入母屋造瓦葺き、間口三間(約5.4メートル)、奥行四間(約7.3メートル)、欄干・回廊をめぐらしてあり、基礎から内陣まで貫通している通し柱2本と含め26本の柱によって支えられている。
              
               阿形(あぎょう)仁王像
              
               吽形(うんぎょう)仁王像
 仁王像は漫画チックでちゃちな感じがする。
           
            観 音 堂
           
            観 音 様
 観音堂から中の観音様を写したが、こちらは金箔に覆われて輝いていた。(金箔だと思う)
 文化財関係は、県指定の天然記念物「石塚の森」と市指定文化財「本堂」がある。不動院からの帰途、白里海水浴場に立ち寄ったが、オフシーズンには無い「海の家」が並んでいた。海水浴客も来ていて賑わっていた。
           
           
 それにしてもかつての、よしずばりの建物からチョットましな板に変わった海の家は、相変わらず雰囲気の無い安っぽいもので、もう少しリゾートの洒落た雰囲気が欲しい。雰囲気は私の子供の頃、60年も前と変わらない。これでは千葉は、いつまでもダサいと言われ続けるだろう。
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飯泉太子宗(いいずみ としたか)著「壊れても仏像」

2009-08-14 06:45:29 | 読書

          
 副題が「文化財修復のはなし」とあって、著者は仏像の修理に長年携わってきて、そこから見えるものを軽妙な語り口で綴ってあり一読しておくとお寺めぐりも一層楽しくなりそうだ。
 この世に存在するものは、必ず消滅する運命にある。ましてや木造の仏像をはじめ諸建築物は、管理が悪ければぼろぼろと崩れて土に返る。1300年前のままある訳が無い。お堂や仏像を何とかいい状態で維持しようとする気持ちが連綿と続くことが大事という。今あるお堂や仏像は必ず補修されている。それは認めなくてはならない。
 お寺に行くと「国宝」をはじめ「国指定重要文化財」とか「県指定重要文化財」、「市指定」や「町指定」などもあって、しずれも大書した標識が立ててある。多分に客寄せの意味もあるのだろうが、これが修理などの時には県なり市や町が負担しなくてはならない。予算の少ないところでは、指定が少ないという結果になっているかもしれない。
 そこで気づいたのは、境内にトイレがあるか、ないか。あるとすればキレイか。このトイレの状態で、そのお寺の懐具合が推察できようと言うもの。裕福な自治体やお寺は、広いスペースに水洗でバリアフリーというトイレになっている。そうそう見かけないが、あることはある。この不況下、真っ先に予算を削られる文化財関係。せめてお参りのときには、浄財を奮発しようと思う。
 いろいろと興味深い話があるが、茨城県石岡市菖蒲沢の集落での修理の話は、地元住民の熱意が伝わってくる。今は薬師如来が安置された薬師堂のみであるが、無住の寺というのも幸いしたのか、新聞の記事になり寄付金も集まったらしい。(在住の寺なら新聞記事にならない。特定の団体や個人の利益になる記事は書けないらしい)
 なにせ、山道を十五分も歩かなければ、薬師堂にたどり着けない。村人の人海戦術で仏像を担ぎ下ろし担ぎ上げたという。この薬師堂にも行ってみたいと思う。
 著者は、1974年生まれ。東北芸術工科大学、芸術学部(文化財保存)卒業。1997年~2003年(財)美術院国宝修理所に勤務。国宝、重要文化財の仏像の修復に携わる。2003年~2004年吉備文化財修復所に勤務。
 退職後、夫婦で世界一周の旅へ。およそ一年半の間、世界中の文化遺産を見て歩く。2006年帰国。2007年特定非営利活動法人「古仏修復工房」を設立。関東を中心にNPO活動による仏像・文化財修復を行っている。
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デジカメ持って小旅行「千葉県市原市 上総国分寺(かずさこくぶんじ)」

2009-08-09 13:14:31 | 旅行

          
 坂東三十三箇所霊場めぐりをしていて、なにやら不遇をかこつようにみえる仁王像が気がかりになった。不遇をかこつと思ったのは、本尊や本堂、鐘楼、観音堂に三重塔など、国宝や国指定の重要文化財などには、大きな説明板が用意してある。 しかし、風雨にさらされ埃(ほこり)まみれの仁王像ついての説明はあまりない。ところがこの仁王像、なかなか面構えが男らしくて精悍な体つきは、プロレスラーか映画のランボーを連想させて頼もしい。
 本尊を守るボディガード、頼れる守護神でありながら、それについての書籍が少ない。そんな中、一坂太郎著「仁王」を読むと全国の仁王像の紹介のなかに、この市原市の国分寺があった。早速訪ねることにした。
 その前に「国分寺」で検索してみると、ウィキペディアでは、国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)は、天平13年(741年)聖武天皇が国情不安を鎮撫するため各国に建立を命じた寺院とあった。
 「仁王」の記述では、「上総国分寺(かずさこくぶんじ)は奈良時代、聖武(しょうむ)天皇の発願により、各国府の近くに設けられた国分寺の一つだ。寺域は13・9万平方メートルを誇り、かつては南大門・中門・金堂、そして七重塔までがそびえる官立の大寺だった。国分寺は時代とともに衰退したものが多いが、上総国分寺の場合は鎌倉時代前期の記録でも『国分水田ハ四、五十丁候』とあるから、国衙(こくが)(律令制下諸国に置かれ、中央から派遣された地方官が執務する役所)の保護下、有力寺院としての地位を保ち続けていたことがうかがえる」
 その国分寺へ行く日は、涼しいが薄日が差すと蒸し暑いという天候だった。車のエアコンを入れるかどうかは微妙で。窓を開けたりエアコンを入れたりを繰り返した。そして着いたとところは、市原市役所、市原市民会館の裏手にあたる場所にあった。かつての伽藍のたたずまいは無く、仁王門と本堂、将門搭(宝篋印塔(ほうきょういんとう))、鐘楼、薬師堂それに住職の住宅というものだった。
          
 さて、わたしのお目当ては仁王像であるが、ほとんどのお寺では、金網で覆われているのが多い。このお寺も例外ではなかった。これがなんとも癪で、デジカメで撮ると金網にピントが合ってしまい(当たり前か)役に立ちそうも無い。文句を言っても仕方が無いが、有名人なら住職が金網をはずしてくれるのだろう。「仁王」の中の写真は、金網越しではない。
              
               阿形像 水晶の玉眼
              
               吽形像 ガラスの玉眼
               どちらも変わりないように見えるが?   
 そして仁王像の説明は、現在の仁王門は江戸時代の建築。向かって右の阿形像は、鎌倉時代の写実と房総の地に根付く平安時代後期の伝統を通わせた。十三世紀末ころから十四世紀前半にかかる作と見られる。左にある吽形像は、阿形像よりも大分新しい作だ。この二体とも玉眼であるが、阿形の方は水晶製で、吽形はガラス製。吽形像は技法的に阿形像よりも落ちるという。と言われても埃をかぶった仁王像は、同じように見える。わたしのような素人は、形の面白さを楽しめばいいのかもしれない。
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デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場9番札所慈光寺(じこうじ)」

2009-08-01 13:41:30 | 旅行

 長谷寺からのルートを計画したとき、秩父の三十四箇所霊場めぐりもこれからのプランに立てていたので二・三箇所寄ってもいいかと軽い気持ちだった。主に地方道を走るルートになった。
 高崎の国道17号から地方道13号に入り、ひたすら走って地方道44号から国道299号線で秩父市を通過。ここで時刻は、正午をとっくに過ぎていた。さて、ここからが山越えのルートになる。地図表示の赤色の国道や黄色の県道、緑の地方道を走れば、かなりの大回りになる。
 国道299号線の道の駅「果樹公園あしがくぼ」の前から舗装された林道に入る。事前に県民の森を目指して行けばいいと分かっていたが、県民の森の駐車場や大野峠、白石峠などのポイントでは、付近の地図案内板で確かめながら、ようやくお目当ての県道172号線にたどり着いた。ここからは迷うことはない。
 ちなみに、大野峠に上りついて右に向かえば、奥武蔵グリーンラインのドライブが楽しめる。対向車四台ほどとヒルクライムのサイクリスト数人を見かけた程度で、滋光寺には午後1時半ごろ着いた。ここで遅い昼食の弁当を開いたとたん、箸を入れ忘れたことに気がついた。一瞬自分の不覚に腹が立ったが、なに箸なんて作ればいい。キャンプや山登りそれにドライブにも持ち歩いている小形のスイス・アーミーナイフが役に立つ。木の小枝を切って樹皮を削り取れば箸が出来上がる。
 急な階段を鉄の手すりにつかまりながら登っていると、今年の3月初めの手すりは凍りつくような冷たさだったのを思い出した。あの時は暗くなった階段を登っていったが、今は緑につつまれた中を、汗を流しチョット苦しくなったりしているが、季節の移ろいが肌で感じる気がする。不思議なもので家にいても季節は確実に移っているのに、自然の中ではそれが特別のことのように思えてならない。
 ある葬儀のとき、僧侶が言った。「朝起きること、これが当たり前だと思わない日が必ず来る。目が覚めて“ああ、今日も生きていたのか”と思うときが」
 今季節の移ろいを感じているが、来年も同じように感じられるかとなると不確実と言わざるを得ない。加齢は実に残酷で、人を不安にさせる。だからといってお寺を巡っているわけでもない。ただ、お寺に行くと苛立つことは決してないし、むしろ不思議な落ち着きを感じる。
             
              参道入口
 いよいよ最後になったこのお寺は、天武天皇2年(673年)興福寺の僧滋訓が千手観音を安置し、その後宝亀元年(770年)道忠が開山となって創建されたという。平安時代の貞観年間(859年~877年)には勅願所となり、天台宗の別院となりその中心的な寺院となった。
 その後、源頼朝を始め徳川将軍家などの帰依を得た。また、観音堂に安置されている千手観音像は、平成6年(1994年)に観音堂の修復工事に際して解体修理が行われ、内部から天文18年(1549年)に大仏師法眼長慶により造立されたことを示す墨書銘が発見された。
         
          観 音 堂
         
 参拝を済ませた時刻は、午後2時ごろだった。秩父三十四箇所霊場参拝は、またの機会に一路帰宅を急いだ。何しろ午前2時半に起きて午前5時から車の中で過ごしているわけで、目がしょぼついて事故を起こさないかと気にかけながらの運転だった。いつものように一般道や首都高を乗りついて、午後6時半ごろ無事に帰宅した。
「早かったわね。ご無事で……。それにしても長時間の運転、今日は運がよかったと思いなさいよ。もう、若くもないんだから、ムリは禁物よ」という妻のありがたいお言葉。
 実は、視力に問題があるようだ。というのも、朝首都高の標識を見誤ったのが原因で、常磐道に紛れ込んでしまった。朝日の光線が眩しかったのが、その原因とは言うもののしっかりとルートを把握しなくてはという反省はしている。
 とにかく馴れない道を走る場合は、光線の安定した時間帯午前9時ごろから午後4時ごろまでにするのがいいかもしれない。残念ながらそういうこと。
 そして今、佼成出版社刊「図説 日本仏教の歴史」や井沢元彦著「古寺歩きのツボ」それに一坂太郎著「仁王」などの本を読み始めた。坂東三十三箇所霊場めぐりをしなければ、決して手に取らなかったことは確かだ。しばらくお寺めぐりから離れられない気がする。
          
          駐車場から見る、なだらかな山の稜線。名前は知らない
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