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デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場2番札所岩殿寺(がんでんじ)」

2009-06-29 13:10:01 | 旅行

           
            山 門
 安養院から岩殿寺までは距離にして約2.7km、所要時間約7分というが、やはり迷ってしまった。県道205号からの入口が分かりにくい。ようやくのことで住宅街に進入すると、これがまた対向車とのすれ違いに苦労するほど狭い道だった。
 引越しなんかは大変だろうなあと思うが、戦前なのか戦後なのか住宅地の開発の貧弱さにはあきれる。とにかく狭い道を対向車に遭遇もせず、お寺の狭い駐車場にたどり着いた。
 ここ岩殿寺は、養老5年(721年)大和長谷寺の開基徳道上人が創建し、行基が十一面観音像を造立して安置したという。鎌倉時代には、源頼朝によって寺領が寄進されたという。その後衰退するが、天正19年(1591年)徳川家康によって再興されたが、明治時代の廃仏毀釈のよって再び衰退した。
 そして泉鏡花が逗子に滞在していたときしばしば訪れたといわれている。山門でここも安養院と同じく、一人100円の志を求められる。山門を入ると百段あまりの石段が上に伸びていた。石段を登るのに疲れたが、周囲は新緑の木々に包まれていてほっとする空間だった。
           
            本 殿
           
            振り向けば住宅がぎっしり
 本殿前から十人くらいの巡礼者の読経が聞こえてきた。本殿で振り返ると住宅がぎゅうぎゅう詰めにされているように見えた。午後四時に帰路についたが、一般道の渋滞を思うと「一般道愛好者」の看板を下ろして、一気に高速道路を走ることにした。
           
           
 横浜ベイブリッジや鶴見つばさ橋付近は、走行車線を走る車が多いが羽田空港トンネルあたりからは、追い越し車線も詰まってきた。事故渋滞もなく一時間半後には、住まいの近くの蘇我インターを降りていた。
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デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場3番札所安養院(あんよういん)」

2009-06-24 16:32:46 | 旅行

           
 鎌倉市大町にある安養院へは、一般道を走るしかない。地方道62号線を小田原厚木道路方面へ戻り、国道1号線を経由して国道134号線を鎌倉に向かった。ウィークデイということもあって、道路は順調に走れた。
           
 朝からのガスのせいか、海はすっきりと見えない。鎌倉駅に行く道は渋滞していた。県道311号線にはいると、町並みの中の狭い道路でうっかりすると駐車場を見落とすところだった。車がやっと3台ほど停められる駐車場が入口の横にあった。
 このお寺は、ツツジが有名らしく入口から境内に密集して植えられていた。わたしたちが訪れたときは、すでに咲き終わっていた。
           
 山門には、入場志納とありお一人100円ご喜捨下さいと書かれてあった。わたしたちは、200円賽銭箱に入れた。キーボードでしのう(志納)と打ったところ、「死のう」とでてきたのには、いささか暗示的で笑ってしまった。
 寺暦は、長楽寺・善導寺・田代寺が統合されてできた浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来で千手観音を安置してある。ちなみに坂東三十三箇所霊場のうち、浄土宗はこの寺のみである。長楽寺は、嘉禄元年(1225年)北条政子が夫である源頼朝の菩提を弔うため長谷笹目ヶ谷に願行を開山として創建した寺と伝えられる。山号を祇園山と号し、律宗(りっしゅう)の寺院であった。元弘元年(1333年)兵火により焼失し、善導寺に統合され安養院長楽寺と号した。なお、安養院は政子の法号から取られたものである。
 一方田代寺は建久3年(1192年)田代信綱が尊乗を開山として比企ヶ谷に建立したのに始まりと伝えられ、江戸時代になって安養院に統合された。千手観音は田代寺にあったもので、田代観音とも称されている。以上はウィキペディアから引用した。
 国指定の重要文化財として、石造宝篋印塔(せきぞうほうきょういんとう:宝篋印陀羅尼の経文を納めた塔)があり、
           
 境内には鎌倉市指定天然記念物、樹齢約700年の槙(まき)の木がある。
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デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場7番札所光明寺(こうみょうじ)」

2009-06-19 13:05:04 | 旅行

          
 光明寺は、平塚市にあるので再び小田原厚木道路を引き返すことになった。整然と走る車が多く、やたら追い越し車線をぶっ飛んでいく車は少なかった。平塚ICを降りて地方道62号線をはしると南金目の街中にお寺がある。せいぜい4台、乗用車が停められる駐車場があった。
 光明寺の前を金目川(かなめがわ)が流れていて、土手の桜の木が緑の葉を伸ばしていた。この金目川は、丹沢蓑毛(たんざわみのげ)峡谷の川に水無川が注ぎ秦野市内を横切り平塚市の西部を河口まで流れている。
          
          
 本尊の聖観世音菩薩は、大宝2年(702年)潮汲みの海女が海中から得たものという。その後、道儀上人が一宇(いちう:一軒の家という意味)を建立、30年後の天平年間(729年~749年)に僧行基が1.7㍍の観音像を彫り、その「胎内」に海女が得た像を納めた。これが安産守護の本尊となった。
 この故事により「お腹ごもりの観音」として喧伝され、源頼朝の夫人、政子も実朝出産の折祈願をこめた。明応年間(11492年~1501年)の建立で、平塚最古の建造物、間口七間(12.73㍍)、奥行八間(14.55㍍)の観音堂。
 また、本尊が納められている室町時代末期の様式である「一間厨子」とその屋根や欄間の見事な造形は創建当初の姿を残しており、秀作との評価が高く、前立(まえだち)の本尊も明応年間の作という。
 また、「かなひの観音」の俗称もあって、海女が得た本尊をしばらく家で祀っていたことからとか、所願みな叶うということからくるのか、由来は興味深いものがある。と住職は言う。この厨子は、国の重要文化財として指定されている、
           
           仁王門の横に大きなわらじがぶら下がっていた。
           奉納物か? 仁王が履いたのか?
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デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場5番札所勝福寺(しょうふくじ)」

2009-06-15 09:37:10 | 旅行

           
 小田原市飯泉(いいずみ)にある勝福寺へも少し迷って着いた。厚木市の長谷寺からは、有料の小田原厚木道路を走った。この道路、なんと制限速度が70キロではないか。一般国道でも60キロのところが多いというのに、料金を取ってたった10キロ増しとはあきれて物も言えない。最近のニュースで、国道の制限速度を80キロにするとかしないとかという記事を読んだ。この70キロは、まったく浮世離れした制限速度だ。一般国道でも制限速度の60キロで走っている車はほとんどないと言っていい。
 小田原厚木道路に乗り入れた車は、きれいに並んでせいぜい80キロから90キロのスピードで走行車線を整然と走っていた。途中目にした覆面パトカーに捕まっている車を見かけて、みんな自重しているのだろうと勝手に思うことにした。
 まあ、それでも信号のない道路ということで、瞬く間に小田原東インターを降りた。そして勝福寺への道のりは、迷ったせいもあって長かった。しかも寺の門前まで狭い家並みを潜り抜けるように走ることになった。
 何でこんなに狭いのか。何もこの小田原だけではない。首都東京でも都庁の近辺の住宅街でも、車一台がやっとという道が一杯ある。近代都市東京とは到底思えない状況だ。ましてや地方のここ小田原は、致し方ないのかもしれない。
 江戸時代に車を押し込んだ日本の道路事情は、なんとも情けない気がしないでもない。そんな愚痴っぽいことも、勝福寺の駐車場に乗り入れたときはもう忘れていた。
 説明板や小田原市のホームページ、ウィキペディアの記事から寺暦を抜粋してアレンジすると、飯泉山勝福寺(通称飯泉観音)は、十一面観音を本尊とする真言宗東寺派のお寺である。創建は奈良時代といわれ、弓削道鏡(ゆげのどうきょう:奈良時代の法相宗の僧)が流されて下野に赴くとき、女帝の孝謙天皇より贈られた唐国伝来の観音像を安置したと伝えられる北千代田台(小田原)に建立した千葉山弓削寺の東院堂ともいわれている。
 この道鏡は有名人で、道鏡が孝謙天皇の寵愛を受けたことから、平安時代以降の学者によって、天皇と姦通していたとかそれに加え巨根の持ち主などの噂があるようで、日光の金精峠に建つ金精神社はそれを代表するものらしい。しかし、具体的資料が乏しく真偽のほどは不明のようだ。
 という余談はさて置き、のちに千葉山弓削寺が焼失し、現在地に移されて現在の名称になり、小田原城の鬼門鎮守の道場としてあがめられた。神奈川県指定文化財の本堂は、棟札(むなふだ:棟上げの際、施主、施工者、年月日、工事の由緒などを記して棟木に打ちつける札。棟木に直接書いたものもある)によれば、宝永3年(1708年)に再建されたもので、江戸初期頃の古式をとどめた地方色豊かな建物である。また、お寺にまつわる伝承として、曽我兄弟が仇討ち祈願のために日参し、五郎が百人力、十郎が十人力を受け富士の裾野で仇討ちに成功したことや講談で有名な雷電為右衛門が田舎相撲の大岩大五郎を倒したこと。また、二宮尊徳が少年時代、旅僧から観音経を聞き一念発起した地であるといわれている。
         
         
          吽形仁王像
         
          阿形仁王像
 小田原市が指定した文化財の一つに仁王門がある。したがって説明版も建ててあって、わたしのように仁王像に興味のある向きにはありがたかった。文化財としての指定そのものが少ないせいか、どこのお寺も仁王門や仁王像についての説明が殆んどない。その説明板によると、宝暦8年(1758年)に造営されたもので、全体に木割が太く、二重虹梁蟇股式(にじゅうこうりょうかえるまたしき)の妻架構が堂々とした外観を構成しています。また、八脚門としては県下でも最大級で格調の高い門です。と言われても建築用語を理解していないと、すんなりと頭に入らない。
 それに仁王像については何の言及もない。というのも、地元の人の作品で詳細不明といったところだろう。二重虹梁蟇股式というのは、虹梁と蟇股を用いた構架式の一つ。虹梁と大虹梁を重ねその間に蟇股を用いたもの。引き続いて、虹梁とは、社寺建築における梁(はり)の一種で、虹のようにやや弓なりに曲がっているもの。蟇股というのは、社寺建築で梁や桁の上に置かれる、輪郭が山形(かえるが股を広げたような形)をした部材。大虹梁(だいこうりょう)は、二重虹梁の場合に、下方の大きいほうをさして言う語。ついでに、八脚門とは、門の形式の一つ。一重の門で本柱四本の前後にそれぞれ控え柱が合わせて八本あるものをいう。大寺院や宮城の門に用いられる。これでハイ分かりましたとは言えない。どうやら現場で解説が要るようだ。
          
          青銅水鉢
 他に小田原市指定文化財として、青銅水鉢がある。この水蜂は、青銅製で竜頭船の形をしている。船尾に十一面観世音菩薩の坐像が一躯あり、水鉢の全体に多数の銘文が刻まれている。
 銘文によれば、作者は江戸神田の鋳物師小沼播磨守藤原正永とあり、江戸時代の宝永元年(1704年)七月と記してある。この水鉢は、水鉢として形などが珍しく、その造りも優れている。全長274㌢、幅45㌢、高さ37㌢である。という説明板がある。形などが珍しくとあるが、わたしも幾つかのお寺で見たが、十一面観世音菩薩の坐像があるのはここが初めてだ。
         
            
            烏枢沙摩明王
 それに、このお寺には初めて見るものがあった。俗な言葉で言えばトイレの仏様にお目見えしたということだ。普通のトイレの建物に「烏枢沙摩閣(うすさまかく」の看板がかかってあり、内部にお手洗いの仏様「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう」の姿を彫ったものが掲示してあった。
 烏枢沙摩明王は、不浄潔、除穢(じょえ)、火頭(かとう)などと訳す。汚れを清浄に変える徳のある明王。
         
 男女の入口には、「東司(とうす)」と表示してある。東司は、禅寺で厠(かわや)の別名。本来は東序(雑事や庶務を処理する僧)が用いる便所。わたしたちは、うやうやしく使わせていただいた。
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デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場6番札所長谷寺(はせでら)」

2009-06-11 11:27:59 | 旅行

            
            
            吽形仁王像
            
            阿形仁王像
 星谷寺から厚木市飯山にある長谷寺には迷うこともなく行き着けた。県道60号線、飯山観音入口の信号から朱塗りの橋を渡ってまぶしいほどの新緑の中の坂を上っていくと、仁王門の前の駐車場に着く。ある人がおびただしい車の行列を、湧き出てきたゴキブリに喩えていたのを思い出すほどの車の群れから、この緑に満ちた場所に来るとホッとする。
 寺の由来の説明板が見当たらない。ウィキペディアによると、神亀2年(725年)行基が開創したとも、弘仁年間(810年~824年)に空海が開創したとも伝えられる。とあった。ということは紛れもなく真言宗で、古義真言宗系高野山真言宗派の寺院である。そして本尊は、十一面観世音菩薩を祀っている。
            
            
            本 堂
 階段をゆっくり登っていくと本堂が現れる。両側に林立する石灯籠は、まるで閲兵の兵隊のようだ。
            
            イヌマキの古木
 このお寺には、厚木市指定の天然記念物としてイヌマキの古木がある。こちらには説明がなされていた。それによると「室町時代末期、多くの巡礼者の無事や参拝者の長寿を祈願して植樹されたと伝えられる。樹高17㍍、胸高周囲2.8㍍、樹齢約400年(伝承)ちなみに胸高は、建築用語で“きょうこう”と読み、立木の直径を測定する場合の基準となる高さをいう。日本では1.2㍍立木の山側に立って測る。そしてイヌマキについては、関東南部から沖縄の照葉樹林帯に分布する常緑高木で、沿岸地域では庭木として植えることが多い。樹高20㍍、胸高周囲7㍍、樹齢約600年に達するものもあるといわれている」
 参拝を終えたのは正午に近い時間だったので、コンビニで買ったサンドイッチが昼食になり、そそくさとつぎのお寺に向かった。一日六寺を巡るのは、何かと気のせくことではある。
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デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場8番札所星谷寺(しょうこくじ)」

2009-06-07 07:05:41 | 旅行

           
 座間市・星谷寺から逗子市・岩殿寺(がんでんじ)まで合計六寺を巡る計画で、自宅を午前五時に出発した。今日の空模様は、快晴とはいえない。濃霧注意報が出ているので、なんとなくかすんで見える空だった。
           
            早朝の首都高は順調
 早朝とはいえ東京都内の一般道は時間がかかる。いっきに川崎あたりまで行っておきたいので、わたしの趣旨に反するが、首都高区間を利用することにした。
           
            ガラ空きの川崎線
 千鳥町から川崎浮島JCTまでの計画が、川崎浮島JCTでどこをどう間違えたのか、川崎線に乗り入れていた。
 5キロにも満たない短い距離なのに600円の料金。地元の人は利用しないのか、ガラ空きの道路を終点で国道409号線に降りて、国道15号から16号、467号線へと走るが、丁度通勤時間帯ということもあって、どこも車で溢れていた。
 年齢のせいかあるいは早朝で少し冷えるためか、小用を催して467号線でファミリー・レストランかコンビニを探したが意外にこれらが無い。この467号もトラックの数が多く渋滞気味だった。一般道愛好者ではあるが、いささかうんざりとしてきた。
 ところで小用のほうであるが、適当に左折すると公園があった。そこのトイレに行くと、なんとシャッターが下りていて9時にならないと使用できない仕組みになっていた。いやあ、本当に参ったね。仕方がないから、男の特権を行使して、公園の茂みで立ちションと相成った。
 渋滞とトイレ探しや道に迷うという散々な行程を経てようやく午前10時半に星谷寺に着いた。本尊が聖観音のこのお寺は、もとは寺の北東にある山頂(現在の座間谷戸山公園・伝説の丘)にあった観音堂の別当寺として建立されたもので、観音堂とともに行基によって創建されたと伝えられる。観音堂は鎌倉時代に焼失し、現在地に移されたといわれ、江戸時代には幕府から朱印状も与えられていた。(寺伝はウィキペディアより引用)
           
 国の重要文化財として指定されているのが、梵鐘(ぼんしょう)である。掲示板によると「喜禄三年(1227年)銘の本鐘は、全国現存の梵鐘の中で五十番目、関東以北では茨城県土浦市の等覚寺の建永年間(1206年~1207年)についで二番目に古く、鐘を撞く際の撞座(どうざ:辞書にはないが、一般には使われている)が一ヶ所のみであることから、江戸時代より“奇鐘”として有名でした。優雅な平安時代の面影を残すとともに、鎌倉時代の特徴も備え金工史上重要なものです」とある。
                
                阿形仁王像
                
                吽形仁王像
 このお寺には仁王門がない。その代わりといっていいのだろうか、入ってすぐのところに阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の一対が露天で睨みを利かせていた。わたしたち以外にも参拝者の姿が見えた。ちなみにこのお寺は、空海が開祖した真言宗の古義真言宗系大覚寺派の寺院である。
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T・ジェファーソン・パーカー「嵐を走る者」

2009-06-03 11:32:35 | 読書

           
 人の成長ほど予測のつかないものはない。十代の頃は、内気でおずおずと人との会話もままならない少年が、なんとギャングの親玉になり重罪犯の刑務所の住人になるとは。カリフォルニア州の保安官補であったマット・ストロームソーの幼馴染マイク・タバレスは、その見本のような男だった。
 高校時代、ストロームソーとタバレスは、マーチングバンドで仲良く過ごした友人だった。メキシコ系の貧しい家庭出身のタバレスには、明晰な頭脳に恵まれていた。そのタバレスは、ハーヴァード大に進学した。ハーヴァード大に進学すれば最高経営責任者か弁護士あるいは検事から判事へというあたりを目指すが、タバレスの選択は違っていた。
 誤解から起きた愛人の死が、ストロームソーのせいだと決めつけたタバレスは、爆発物でストロームソー殺害を企てたが、彼の妻と息子が身代わりとなった。これが契機となって二人の友情は冷め憎しみが取って代わった。
 物語のエンディングは、脱獄したタバレスとストロームソーの対決になり、ストロームソーの放ったショットガンの銃弾にタバレスは斃れる。この辺は、エンディングを急いだようで、緊迫感やかつて友人だった二人の男の決闘にしてはロマンが足りない気がする。
 むしろサイド・ストーリーの、フランキーとストロームソーのラヴ・ストーリーが内省的な静謐さをたたえていて印象的だった。
           
 そのフランキーが住んでいるフォールブルックは、T・ジェファーソン・パーカーの住処のようだ。地図では何の変哲もない記号にすぎない地名だが、ガイドブックを見るのもいいが作家自ら案内してくれる。
 少し引用してみよう。“フォールブルックはサンディエゴ市から50マイル北の小さな町で、海とはペンドルトン基地をはさんで12マイル離れている。ストロームソーがその町へ行くのは初めてだった。オーシャンサイドからの道は曲がりくねり、行き交う車は少なかった。
 道の両側にはアボカドやオレンジの果樹園、色とりどりの花が波のようにうねりながら続く花畑が広がっていた。棚囲いの中で馬が草をはみ、家々は丘の上にあるか、うっそうと茂る緑樹に埋もれていた。
 アンティークショップ、飼料と馬具の小売店、カプチーノのドライブスルーの前を通り過ぎた。林の向こうにテニスコートが見え、赤いタイル屋根の家が建つ斜面には、明らかに手づくりとわかるゴルフのミニコースが設けられていた。
 オークの木立の薄暗いトンネルを通り抜けると、何千羽ものオレンジ色の蝶が青い空を埋め尽くすように飛んでいた。エメラルド色の放牧地を通りかかるとラマの群れがいっせいに非難がましい目を向け、最近買った中古トラックの窓を開けると車内に花の香りが漂った”
 観光ガイドブックからは決して読み取れない部分が、ミステリー本から得られるのはうれしい限りだ。いつ行くかわからない旅行計画だとしても。
           
            T・ジェファーソン・パーカーのホームページから
            パーカー一家の写真をコピー
            左から父親のロバート、パーカー本人、息子のトミー、
            妻のリタ、継母のクローディア

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