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デジカメ持って小旅行「薬王寺(やくおうじ」

2009-10-28 13:08:09 | 旅行

          
 朝夕は肌寒さ感じるが、日中はともすると半袖でも快適な日もある。初秋は衣類の選択に余計な気を使うことになる。今日はまさに秋という、どこまでも青い空が広がっていて、フリースのジャケットと薄いウィンド・ブレーカーを用意して出かけた。
          
           
 東金市上布田301にある法華系単立の不老山薬王寺は、気分がホッとするようないわゆる田園風景の中の地方道117号線沿いの集落の中にあった。集落は、時折117号線を走る車の音がするぐらいで、大げさに言えば自分の呼吸する音が聞こえるほど、しんと静まり返っていた。
 山門を入ってすぐに本堂がある小さなお寺である。掃除は行き届いていて落ち着いた雰囲気だった。境内のどこにもお寺の由来を書いたものがない。そこでインターネットのウィキペディアに頼ることになる。
          
 それによると、江戸時代延享年間(1744年~1748年)に古記録が焼失され詳細は不明と言う。言い伝えとして、鎌倉時代の日蓮宗の僧日常、本名富木常念(とつき つねのぶ//じょうねん)=鎌倉時代の下総国の豪族、日蓮の有力壇越。建長5年(1253年)頃、日蓮の法華宗義に帰依)により創建されたという。寛永年間(1624年~1644年)薬師如来が安置され、「布田の目薬」と呼ばれる眼薬が有名だったという。
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ピーター・ブース・ワイリー「黒船が見た幕末日本」

2009-10-23 14:08:18 | 読書

          
 1945年(昭和20年)9月2日曇り空で涼しい日、横浜沖で日本が無条件降伏の文書に調印する日だった。旗艦ミズーリ号船上には、連合軍最高司令官マッカーサー元帥を始め、連合国軍の代表が揃っていた。ミズーリ号の停泊位置は、ペリーの黒船の停泊位置であり回転砲台の上には、ぼろぼろのアメリカ国旗が飾られていた。
 それはペリーが旗艦に掲げていた31の星を散りばめた国旗を、わざわざ持ってきたものだった。そしてご丁寧なことに、マッカーサーのアメリカ向けのラジオ演説にも「我々は、92年前のわが同胞ペリー提督を思い出しながら、東京に立っている。……」とペリーを引用している。つまり日本人を軍国主義の檻から、ペリーの意図した友好と自由への扉が開かれたと言うわけだった。
 この本を読み終わった丁度このとき、アメリカのゲーツ国防長官が来日していて、オバマ大統領訪日までに普天間問題の結論を出せと迫っていた。まるで1853年7月8日の黒船来襲とそっくりな展開になってきた。そして日本の対応も全くそっくりだ。1853年当時には、引き伸ばし作戦を画策したが、ペリーの武力行使を示唆する脅しに、ずるずると譲歩を余儀なくされた。今回も引き伸ばしを頭に置いているのは明白だ。だからこそ国防長官の厳しい表情での来日となった。
 引き伸ばした結果どうなるのだろうか。オバマ大統領来日中止と言う事態があるのか。もしそうなると外交上の信用失墜は計り知れないし基地問題の解決はかなり遠のいてしまう。この辺が外交未経験の政党の怖いところだろう。そのあいだに米中の接近がより密になり、日本の国際的孤立が促進される。いずれにしても日米双方とも約150年前と変わらないやり取りといえる。いつもアメリカの強い態度、日本の先延ばし戦術。
 余談はこの辺に置いといて、一体ペリーは何故日本に開港を迫ったのか。それなりの事情があったようだ。簡単に言えば、当時のアメリカは、捕鯨が盛んで太平洋で鯨を追っていた。捕鯨の用途は、油は明り用、骨は女性のペチコートの芯に使っていたという。黒潮に乗って日本近海までやってくるので、捕鯨船も水や食料などの補給、蒸気船のための石炭も必要とされた。
 それに国際競争の激化。当時はイギリスが世界を支配していたと言っていい。アメリカも中国租界に飽き足らず、日本に触手を伸ばしたと言うところだ。ありがた迷惑なのは日本だが、それも時の流れと言うべきか。
             
             ペリー提督
 いずれにしても、強硬に開港を迫ったマシュー・カルブレイス・ペリー海軍士官は、どんな男だったのか。引用すると「遠征隊員にとってペリーは気難しい存在だった。彼は自分の行為が歴史的重要性を持つものだと思っていたし、持病の関節炎のせいで、怒りっぽい性格になっていた。1820年代に地中海に出かけ、イズミルの岸でずぶぬれになって消火活動をしたのがたたって、それ以来長年、関節の痛みに悩まされていたのである。
 このとき五十八歳で、体重も増し、太鼓腹を突き出し、貫禄のそなわった風貌をしており、顔も肉づきがよく、常にしかめっ面をし、口元は引き締まっていた。
 髪は赤褐色で、白髪もなく、耳の周りは豊かなカールヘアになっていた。性格は率直で、部下に対しては威圧的だった」いわゆる陽気なアメリカ人とは程遠い人物だったようだ。
 著者のピーター・ブース・ワイリーは、1942年生まれ。サンフランシスコ在住の歴史家。ウィリアムス・カレッジ卒業後、ウィンスコンシン大学大学院で修士号習得(アメリカ史)。ベトナム戦争の反戦活動家として活躍し、政論雑誌『リバイアサン』創刊に関わり、編集を担当。その後、通信社パシフィック・ニュース・サービスの編集者兼記者を経て、ボブ・ゴトリーブとコラム配給会社ウェスト・ポインツ社を設立し、アメリカ西部に関する新聞コラムの共同執筆に携わる。出版社ジョン・ワイリー&サンズの取締役として、国際的な出版事業にも従事している。
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デジカメ持って小旅行「観福寺(かんぷくじ」

2009-10-20 12:28:40 | 旅行

          
 逢善寺のある茨城県稲敷市から千葉県佐原市に向かった。稲敷市から佐原市へは、県境の利根川を渡ればすぐのところだ。一般道愛好者のわたしは、近頃は地図の赤い線、つまり国道も極力避けるようになった。黄色で表示の県道や緑の地方道を選んで走っている。今回もそんなことで、のんびりと走った。
 佐原市は、最近人気のスポットで江戸時代の風情を残した街並みが一部残っている。もう一つの目玉は、大日本沿海輿地全図を作成した伊能忠敬(いのうただたか)が有名。観光客に開放されている忠敬の住居が、江戸時代の街並みの中にある。
 その佐原でのお目当ては、荘厳寺、法界寺それに観福寺であった。ところが、観福寺の参拝を済ませて法界寺と荘厳寺に向かったが、今日から向こう三日間お祭で車通行止めとなっていて、二つのお寺を断念しなければならなかった。もっとも駐車場を見つけて、徒歩で行く方法もるが土地不案内の身であれば、またの機会にと気が変わった。
          
 さて、この観福寺広い駐車場を持った真言宗豊山派の寺院で、寛平2年(890年)尊海僧正の開基といい、本尊は平将門の守護仏とされる聖(しょう)観世音菩薩。 千葉氏の祈願所として歴代武将の厚い信仰を受けていたが、中世以降佐原の伊能家一族の信仰を受けるようになった。
          
 山門を入ると掃除が行き届いているのか、台風の置き土産小枝の散乱もなかった。全体にしっとりとした風情を感じさせるお寺だった。
              
 そしてここには、伊能忠敬のお墓がある。伊能忠敬の凄いところは、五十歳から江戸幕府で西洋暦学を修得、幕命によって17年間をかけて、全国の海岸線実測を成し遂げたことだ。江戸八丁堀において73歳でこの世を去った。遺体は浅草源安寺に葬られ、このお墓には遺髪と爪が納められているという。
 なお、国指定重要文化財として、釈迦如来坐像『弘安5年(1282年)銘』、十一面観音坐像『弘安5年(1282年)銘』、地蔵菩薩坐像『延慶2年(1309年)銘』、薬師如来坐像がある。あともう一つ、ここには仁王門や仁王像はなかった。
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デジカメ持って小旅行「逢善寺(ほうぜんじ」

2009-10-15 11:55:26 | 旅行

        
 茨城県稲敷市小野にあるこのお寺は、一坂太郎著「仁王」で胎内納入品が見つかった仁王として紹介されている。仁王像に興味のあるわたしには、訪れないと言う理由がないので出かけた。中心付近の最大瞬間風速60メートルとか70メートルといわれた激しい台風18号は、ほぼ日本列島を縦断したが、私が寝ている間に足早に過ぎ去ったらしい。
 ニュースでは、倒れた大木の下敷きでけがをしたとか突風で空き家が吹き飛ばされたとかが報じられていた。一夜明ければ、台風一過の青い空がどこまでも広がっていて、気持ちのよい日だった。いつものように迷った末、公民館で場所を訊ねて、ようやくお寺にたどり着いた。
 村落の中心にある滋雲山逢善寺天台宗の第一印象は、なんとなく寂れた雰囲気が漂っていた。
        
 仁王門から広い境内に入っていくと、左手に墓地が見え正面にはがっしりとした堂々たる本堂がある。右手には水と柄杓(ひしゃく)のない手水鉢(ちょうずばち)が乾ききっていた。本堂の修復に喜捨を願う古びた看板が一層寂しさを誘う。
           
 本堂の外観も内部も飾り気がまったくなく、本堂を取り巻く欄干もひび割れが目立つ。こういう建物は修復にいくらかかるのだろうと庇を見上げながら考えた。見当もつかない、が私の結論だった。
 このお寺は、天長3年(826年)逢善が千手観音菩薩を本尊として創建したと伝えられる。淳和(じゅんな)天皇は勅願所とし、寺領八百町歩を寄せた。
           
 仁王像は、像内の銘によると、応永9年(1402年)の作で、寄木造、玉眼、腕にはいくつもの力瘤(ちからこぶ)があって、うらやましくなるほど逞しい。それにこの玉眼というのが珍しいし、見た目まるで生きているような錯覚を覚える。この玉眼には、水晶なんかを入れるらしい。
        
 本堂の上り框(かまち)に置かれた小さな坐像は、目がくりぬいてあって真っ黒に見える。一瞬はっとするほど異様だ。
            
 もう一つは、木製なのか陶製なのか判然としないが、乳飲み子に乳を与えている仏像があった。これらの詳しいことは、説明がないので分からない。
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泉三郎「誇り高き日本人・国の命運を背負った岩倉使節団の物語」

2009-10-10 14:27:48 | 読書

          
     
     右から大久保利通、伊藤博文、岩倉具視、山口尚芳、木戸孝允
 知られざる歴史的壮挙というべき大旅行がある。「岩倉使節団」の物語である。明治四年、誕生間もない維新政府は、革命的大手術「廃藩置県」のわずか四ヵ月後にもかかわらず、大使節団を米欧に派遣する。岩倉具視(いわくらともみ)、木戸孝允(きどたかよし)、大久保利通(おおくぼとしみち)という維新革命の立役者が、揃いも揃って西洋文明の探索に出かけるのだ。幕末に条約を結んだ米欧12カ国へ、1年9ヵ月余(632日)にも及ぶグランドツアーである。それは「黒船」に象徴される西洋列強の圧倒的なパワーに対する、「誇り高き日本人」の果敢なチャレンジであった。(著者まえがきより)
 明治4年11月12日(陽暦1871年12月23日)三本マスト、4500トンの外輪蒸気船「アメリカ号」は、岩倉具視特命全権大使をはじめ、随員や留学生を含めて総勢107名を乗せて横浜港を離れた。107名の中には、駐日公使デ・ロング夫妻が世話をする日本人少女5人も含まれていて、その中に津田塾大学の創設者津田梅子、当時6歳の姿もあった。
 使節団派遣の目的は、三つあるという。一つは、封建的な将軍国家から近代的な天皇国家に生まれ変わったこと。さらに、200年の鎖国政策から開国という新日本のデモンストレーション。二つ目に、条約改正についての打診。当時は法的整備が未熟のため、とても対等に改正交渉できる状態になかった。第三に欧米列強の視察であった。
 アメリカ、イギリス、フランスからヨーロッパ、アジアと歴訪した。アメリカは、大陸横断鉄道が走っているし、イギリスも鉄道網はすでに充実し地下鉄まであった。フランスも花の都にふさわしく先端ファッションや街路の美しさに一行は堪能する。しかし、ロンドンのアヘン窟を見て持てるものと持たざるものの格差の大きさに驚きながらもことの本質に迫ろうとする。急進的開化派と漸進的開化派それぞれが、欧米の現状を見ることによって現実的になっていくのが面白い。
 政権ががらりと変わった点とその政権が抱える問題点は、明治も平成も変わらないのがこれまた面白い。明治政府が抱えるのは、財政問題、金融貨幣問題、失業者対策などがあった。平成の民主党政権も規模の大きさが違うだけで、同じような問題に直面している。
 明治政府から教訓を読み取ろうとすれば、それは急激な変革に何の利点もないことだろう。民主党政権もややマニフェスト実現を急いでいるように思われる。むしろ今の状況を見ていると、もともと政権を取れるとは思っていなかった印象が強い。というのも各閣僚のコメントが「マニフェストに書いてあるとおり実行します」を連発しているのと前原国交相や北沢防衛相が就任後現地を視察したことがその証左と言える。
 小沢の戯言(ざれごと)と思っていたのか、本気で政権をとろうという意欲が浸透していなかったのだろう。北沢防衛相が視察のあと、見ると聞くのは大違いと言うようなことを漏らしていたのは、何を今更という感が強い。
 岩倉使節団メンバーの観察、洞察、分析、表現、立案にそれぞれ秀でた力を発揮したが、残念ながら交渉力に経験不足が災いした。いずれにしても日本の近代化に大いに貢献したことは確かだ。
 さて、その使節団メンバーの年齢は、岩倉具視47歳、木戸孝允39歳、大久保利通42歳、伊藤博文31歳という若さであった。平成の民主党政権は、人材に恵まれていないのかもしれない。
 著者の泉三郎は、昭和10年(1935年)生まれ。一橋大学経済学部卒業。在学中に石原慎太郎らと南米大陸横断のスクーター旅行。事業の傍ら1976年から岩倉使節団の足跡を追う旅をはじめ、約8年で主なルートを訪ね終える。その成果をもとに、数々の著作やスライド映像を制作。96年には「米欧回覧の会」を設立、代表となる。
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スポーツ 2016年のオリンピックに、東京が落選した理由!?

2009-10-04 21:10:13 | スポーツ

 今朝(10月4日)の新聞は、オリンピック開催国決定や東京の落選について、いろいろとレポートをしている。それらは至極もっともなことで異論はない。一つ気になることがある。それは石原東京都知事のコメントに「日本のプレゼンテーションは、一番よかった。だれに聞いてもそう言う」がある(褒め言葉には、多分に外交辞令が含んでいるのかも)。
 ではなぜ落選したのか? それには首をひねるばかりのようだ。新聞記事から思いをめぐらし、私なりの結論は、個性とユーモア感覚の欠如だろうと思う。たしかに台本は立派に書けているし演技者も水準以上だったかもしれない。しかし、観客(IOC委員)の感情に訴えるものがないと、映画で言うアカデミー賞には程遠い。ゼスチャーが足りないと急ごしらえでパフォーマンスを付け加えたことも報じられている。
 鳩山総理の演説も効果があったようには思えない。ある委員が言ったそうだ。「国連でもあるまいし、温暖化対策でもないだろう」鳩山総理も当意即妙の言葉は苦手のようだ。民主党議員の交付金のキャバクラ費消の答えを、インターネットで読んで感じたことだ。何を言いたいのかサッパリ分からなかった。
 日本人がまったくユーモア感覚がなかったかと言うとそうでもない。井沢元彦著「壌夷と護憲」には、薩英戦争、薩摩藩と英国が戦争をした後の事が書かれたあり、薩摩藩は、留学生を送りたいとか軍艦や大砲の製法を学びたいと盛んに英国人に言った。英国人が、その目的は何だ? と聞いたとき「あなたたちと戦うためだ」と答えたという。それで、大笑いになったと書いている。ユーモアは、人間関係にとって潤滑油の役割を果たす。
 これからの教育や家庭のしつけにも、ユーモアという感覚が欠かせないだろう。それは遊びを意味し、どんな精密機械にも一定の遊びを設けてある。自動車のブレーキ・ペダルにも遊びがある。これでぎくしゃくしないで、スムーズに車を停めることができる。
 私のいなくなった世界では、吉本興業のような笑いでなく、レベルの高い上質なユーモアやウィットが身につけられているのではないだろうか。
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ジョン・ハート「キングの死」

2009-10-02 15:15:49 | 読書

          
 久しぶりに上質のミステリーに堪能した。ジョン・グリシャムが初期にもたらしてくれた興奮を味わえた。というわけで、主人公は弁護士だ。
 キングとまで言われた父の言いなりのジャクソン・ワークマン・ピケンズ。周囲からは、ワークと呼ばれている。頭は切れるが、父の支配下のせいか男らしい決断力に欠ける。妻のバーバラも、父の意向が強く働いた結果だった。ヴァネッサという恋人がいながら。
 一年半を経て父の遺体が発見される。母の死の夜から始まった父の行方不明。数ページに一度の割合で、徐々に展開される謎解きに、だれたり眠気を催したりする暇はない。わたしという一人称で語られているが、難しいとされる一人称で、600ページにわたり読者を引きつけるのは並大抵ではないだろう。
 特異な人物像として描かれる父親の死後、良くも悪くも父親の手から離れた優柔不断なワークの精神的成長を克明に描いてあり、一時精神を病んだ最愛の妹の顔にも笑顔が戻るという兄妹愛(きょうだいあい)に涙腺が緩む。
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