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小説 囚われた男(20)

2006-12-27 16:52:11 | 小説
 部屋は寒かった。このアパートメントは、入居条件に火事を心配して、ガス・ヒーターやファン・ヒーター不使用に同意させられていて、エアコンとオイル・ヒーターで温めている。 オイル・ヒーターは大型のため、電気代がかなり高くつく。生実はオイル・ヒーターの温かみが好きだ。エアコンとオイル・ヒーターのスイッチを入れる。

「飲み物は、何にする?」
「わたし、コーヒーをいただこうかしら」六畳ほどのキッチンは機能的で、生実は一人身の気楽さで、いつも食事はキッチンで摂っている。部屋はリビング・ダイニングと寝室が二つ、そのうちの一つは書斎として使っている。古い建物ながら使い勝手はいい。欧米スタイルで靴を脱ぐことはない。

 生実は部屋にいるときはいつも足の疲れを取る部屋履きを愛用している。部屋の照明は間接的でフロア・スタンドとウオール・ライトで部屋に影を作り、落ち着いた雰囲気を醸しだしている。
 生実はコーヒーを持ってリビングのソファに座っている小暮さやの前のテーブルに置いて「どうぞ」とすすめる。そのままステレオ装置に近づきビル・エヴァンスのアルバム「ワルツ・フォー・デビー」を挿入する。
 この5.1チャンネルのシステムで部屋がコンサートホールのようにピアノとベース、ドラムのアンサンブルに包まれた。

 小暮さやは、なぜか気分が癒されるのを感じた。男の部屋でこんな曲を聴かされるのは、本来何か下心がある場合が多い。さやにはむしろ生実の優しさと受け取っていた。会話のしやすい雰囲気が漂っていた。早速用件を切り出した。
「さっきの続きだけど、私のことをすべてお話しするわ。まず、私はレズビアンなの。だから生実さんのお宅であっても気にしないと言ったの。相手が誰でもこういうことをすることはないわ。生実さんのことをよく分かった上でのことよ。
 二つ目は、生実さんに協力をお願いしたいの。私の上司の千葉をマークしているのよ。これはもっと上の方からの指令でね。この組織はかなり複雑なの。
 なぜマークしているかと言えば、千葉が地位を利用して危険な取引に手を出している疑惑によるの。例えば、麻薬や銃の密輸入、人身売買までと範囲は広いわ。そういうことで、いつか千葉を消すことになるかもしれない。
 あともう一つ付け加えなきゃいけない事があるの。生実さんのターゲットだった東、その東の妻は実は潜入捜査官なの。どうやら千葉も感づいたようだから、生実さんに委ねたようね」
 
 生実は大きな溜息をふーっと吐き出した。何てことだ。女はレズビアンで、消す相手は潜入捜査官ときた。与えられた仕事を遂行しなければ自身の存続は考えられない。
 一世一代の窮地とはこのことか。この女の言うことも本当かどうかも分からない。やみくもに信じていいのだろうか。あまりにも危険すぎる。と考えながら東の部屋で見た写真を思い出していた。あの豊満な魅力的な女が捜査官? と考えながら言葉は
「一晩考えたい。いいかな?」と口走っていた。
「いいわ。でもあまり時間はないの。だってそうでしょう。千葉からの指令を理由もなく引き伸ばすことは出来ないでしょう?」
「ああ、分かった。出来るだけ早く返事をするよ。ところで、タクシーを呼ぼうか?」

 タクシー会社に電話のあと「途中まで同乗するよ。じっくり考えたいので行きつけのバーまで」タクシーの中では無言だった。
『バーニー』の前で降りるとき小暮さやが生実の頬にキスをして、にっこり微笑んで「さよなら」と言った。
「明日この店で夕方六時ごろ、そのとき返事をするよ」
「いいわ、わかった。それじゃ」
運転手に二万円を手渡し、これで足りるだろうから彼女を無事に届けてくれ、それに釣りは君のものだといいながらドアを閉めた。運転手はうなずいて車を発進させた。


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