一体なぜ明智光秀は謀反を起こしたのか?歴史の考証に基づいてあらゆる観点から諸説を検証してみせる。
このミステリーは出尽くした感があって、絶対的な確証がない。天正十年(1582)には、光秀が67歳だったという。この歳になってある意味暴挙に出たのは、やむにやまれぬ何かがあったのだろう。
結局秀吉に追われ、逃亡の途中土民に殺害される。そこで、謀反を起こさずに信長の命(めい)を守っていれば、どのような歴史が描かれたのだろうか。そんな興味も湧いてくる。
謎がつきないためにテレビドラマに頻繁に現れるのも特徴といえる。謀反の決意の表明といわれる句「ときは今 あめが下(した)知る 五月哉(さつきかな)」は有名。いつの世もこういう人間くさいドラマが繰り広げられているのだろう。
いつの日か京都に旅したとき、光秀にまつわる名刹などを巡ってみたい。蛇足ながら、9月21日付読売新聞の記事を引くと“京都市中京区の旧本能寺跡で先月、織田信長が明智光秀に討たれた1582年当時の堀の跡や大量の焼けた瓦が出土した。
本能寺の変に直接かかわる遺構や遺物が確認されたのは初めてで、戦国史の転換点となった大事件の真相を探る重要な手がかりとして注目されている”とあって、さらに興味を起こさせる。