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裁判員裁判でなかったら、懲役3年執行猶予5年(求刑懲役4年)になっただろうか

2015-06-26 20:50:04 | 社会

 東京・目黒で昨年7月、介護していた夫(当時79)を殴って死なせたとして、傷害致死の罪に問われた妻(71)の裁判員裁判の判決が25日、東京地裁であり、懲役3年執行猶予5年(求刑懲役4年)を言い渡した。

 公判で明らかになったのは、約50年前に大手銀行員の夫と結婚。夫の退職後も生活に不自由することはなかった。ところが昨年2月、胃がんなどの手術をした夫は介護が必要な状態になる。

 介護の苦労もあったのか思い出したのは、1979年、夫は45歳、妻は36歳だった。夫はゴルフだと言って、よく泊まりがけで出かけた。ある日、夫の名刺入れから女性の写真を見つけた。夫の職場前で待つと、20歳ぐらいの女性と一緒に出てきた。夫は不倫を認め、謝罪した。

 夫はこれで一件落着と思ったのか、夫婦で思い出話をするうちに夫はこの不倫について、女性と旅行に行ったなどと話した。

 「妻としては、一番聞きたくないことでした」と述懐している。そしてカウンセリングを受けて「もっと夫に頼って、甘えれば良かった」「お互いに本心をぶつけ合う機会だったのに、逃してしまった」と綴ったという。

 私はこの女性に同情するし執行猶予がついてよかったとも思う。夫はあまりにも配慮が足りない。不倫に時効はないと肝に銘ずるべきだ。それに名刺入れに女性の写真というのも不用心すぎる。

 逆の立場で妻が浮気をしゃあしゃあと話せばどんな気持ちになるのか推測できるはずだ。そして裁判員裁判でなければ、この執行猶予がついたのかどうかとも思う。

 というのも裁判員を務めた実家で母親が父親を介護する20代の女性は「母も不満がたまっているかもしれない。自分も改めて家族を見つめ直そうと思う」。

 補充裁判員を務めた男性(34)は「身近に起こりうると感じた。家族でコミュニケーションをとり、不満をためないことが大切と感じた」と話した。

 こういう裁判員の冷静な判断が有効だったのは疑いない。そう妻には不満がたまっていたんだ。夫婦喧嘩も子供の手前セーブしたらしいから本音をぶつけ合う機会がなかった。夫婦喧嘩を大いにやるべし。喧嘩は本音の発露だから。それに精神衛生上も非常によろしい。
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ワンデイ・トリップ 宇都宮の大谷資料館と道中の道の駅

2015-06-26 17:41:25 | ドライブ

 梅雨の中休みの24日水曜日は、朝から真夏を思わせる陽射しが眩しいほどだった。以前から行きたいところの一つの大谷資料館(おおやしりょうかん)を目指した。

 ここは大谷石(おおやいし)の採石場のあとを資料館としたもの。大谷石は軽石凝灰岩の一種で、柔らかく加工がしやすいことから、古くから外壁や土蔵などの建材として使用されてきた。

 日本列島の大半がまだ海中にあった新生代第三紀の前半、火山が噴火して噴出した火山灰や砂礫が海水中に沈殿して、それが凝固してできたものとされている。

 大谷町付近の大谷石の分布は、東西8km、南北37kmにわたり、地下200〜300mの深さまであることが確認されており、埋蔵量は10億トンと推定されているらいい。

 その採掘あとの巨大地下空間がこの大谷資料館として公開されている。大谷石にまつわるエピソードをウィキペディアから引用してみよう。「大谷石はフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルライト館(旧所在地は東京都千代田区内幸町、現在は愛知県の屋外型展示博物館・明治村に中央玄関を中心に移築され保存)の建材として使用されたが、その完成披露宴の当日である1923年9月1日、披露宴の準備の真っ最中に関東大震災に遭遇した。しかし、小規模な損傷を受けたもののほぼ無傷なままで残った。このことを設計者のライトは知り、狂喜したという」

 大谷石の採掘あとの巨大空間は、映画のロケやコンサート会場として使われることが多いという。外気温30度近くのこの日、30メートル地下にある巨大空間の温度は、10度という。ホームページには、上着を持参くださいとあった。私はカッターシャツ1枚で地下に降りたが、30分ぐらいなら風邪を引く心配はない。

 駐車場に着いたところ、若い人も大勢来ていた。ウィークデイでも来館者があるのは、先週だったか読売新聞の夕刊に大谷資料館の紹介記事が載った。そのせいなのかもしれない。なお入場料大人700円、JAF会員なら100円引きになる。

 大谷資料館へ行く途中の国道294号線沿いに「しもつま」と「にのみや」の二つの道の駅がある。道の駅は、地元産の野菜や果物が売りで、安い野菜を買い込んだ。

 「にのみや」は、二宮尊徳の二宮からとってある。二宮尊徳は、武家奉公人として小田原藩で働き家老・服部家の財政を立て直したことから、小田原藩主・大久保家の分家であった旗本・宇津家の所領であった下野国桜町領(現在の栃木県真岡市)の仕事を任せられたというから、なんのことはない今風に言えばサラリーマンの転勤先だった。それを後世の人は都合よく取り入れているにすぎない。何とかわが町や村を全国に売り込もうという涙ぐましい努力といえなくもない。
            
            
            
            
               
            
            

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