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読書「播磨灘物語(一)~(四)」司馬遼太郎

2013-07-24 17:17:35 | 読書

                 
 戦国の世にあって策謀師として秀吉に仕え秀吉に恐れられた黒田官兵衛。大方の史実に沿った物語が展開される。

 4巻は長い。読む方からいえば余計な記述もないとは言えない。この時代、激しい気性の多い武将と違って無用の死を避けたいと思っている人物の一人だった。

 あの信長の狂っているとしか思えないような残虐行為。叡山を攻めて僧俗三千人を皆殺し、伊勢長島に籠もっていた一向宗徒の男女二万人に対し、幾重にも外から柵をめぐらして逃げぬようにしつらえてから四方より火を放ち火の中で殺しつくしたこと。
 そして荒木村重謀反による人質の婦女600人皆殺しである。尼崎郊外の刑場で、刑を執行する者も見る者も、生涯女たちが身をよじらせて死んでゆく姿や、悲鳴が忘れられなかったという。こういう信長ではあっても将来性を官兵衛は認めていて、残虐行為で見限ることはしなかった。その点は、現実主義者なのだろう。

 来年のNHK大河ドラマは「軍師官兵衛」であるが、主に夫婦愛がテーマという。そういえばこの小説には官兵衛の夫婦関係は、数行で終わっている。

 官兵衛は、30代そこそこで妻帯している。その妻と言うのが長身で、官兵衛は男と思っていたようで婚礼の夜の明け方「たしかに、女だった」と呟いた。
 その言葉は妻お悠(ウィキペディアによると光(みつ)となっているが)にとっては生涯忘れられない言葉となった。

 しかし、「婚儀は三日続くが、お悠の顔をみる機会が少なく、床入りも夜中であるためによく分からず、しみじみ顔を見たのは、お悠が庭の柿の木の下にいて侍女に柿をとらせている姿をたまたま縁側から見たときだった。

 (わが嫁は、あのように美しかったのか)陽がお悠のうなじに当たっていたが、その白さは玄妙としか言いようのない印象だった」とある。官兵衛はキリシタンでもあって一生側室を置かなかったというが、この美人の妻以外には考えられなかったのかもしれない。

 官兵衛は、59歳で亡くなっているが辞世の句が残っている。「おもひおく 言の葉なくて つゆにゆく みちはまよわじ なるにまかせて」

 ついでながら官兵衛の墓所として福岡の黒田家菩提寺の崇福寺と京都の大徳寺塔頭龍光院として息子の黒田長政が建立した。ちなみにこの大徳寺には、塔頭高桐院として細川忠興とその妻ガラシャの墓もある。
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