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小説 囚われた男(31)

2007-02-07 13:58:08 | 小説
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 四月二十八日金曜日午前九時、キッチン横の壁掛け電話が鳴った。
「わたし、さや。下にいるわ」今日はクリーム色のチノパンにブルーのボタンダウンのシャツ、ノーネクタイでこげ茶色のコーデュロイのジャケット、靴は先端に金具の入ったウレタン底の音のしない茶の革靴という出で立ち。これが生実の仕事着と言ってもいい。
 さやはジーンズに薄いグレイのフランネルのシャツ、黒のジャンパーにサングラスで運転席に座っているが、笑顔が全く見られない。かなり緊張しているようだ。
ランドローバーの高い位置にある運転席からは、セダンの屋根が視線を落とす角度になり、視界が良好で運転しやすい。生実は手帳に(尾行車は?)と書いてさやに見せる。さやは首を左右に振った。

 八王子の料金所を過ぎて小仏トンネルに向かう長い上り坂の周囲の木々は、薄緑色の芽が萌え始め、薫風が心地よい新緑の季節を予告している。サラリーマンは、週休二日の前日ということもあって、些細なことには腹が立たない日になっているだろう。こちらは、そんなこととはお構いなしで、生か死を選ばなくてはならない。

手帳に(藤野PAで小休止)と書いてさやに掲げる。
藤野パーキング・エリアは、九時台とあって、かなり空いているほうだ。自動販売機のコーヒーを買って、外のベンチに腰掛ける。
「気分はどう?」暑いくらいの陽射しがさやの頬に反射している。
「そうね。緊張しているわ。とにかく初めての経験ですもの。殺すのも殺されるのも。殺されるのは、誰でも初めてになるけど」
「冗談を言えるくらいなら大丈夫だ。射撃の訓練や無言でのやり取りのサインを習ったんだから、現場で思い出せばいい。あまり考え過ぎない方がいいよ。私の指示通りに動いてくれ」
「……」さやは無言でうなずいた。

 甲府昭和インターから甲府昭和警察までは、さして距離はなかった。午前十一時前に裏の駐車場に乗り入れた。《甲信電気工事》と名前を書き込んだ、工事専用トラックが置いてあった。裏口から制服姿で、五十がらみの長身の男が出てきた。さやを見てほうーと口をとがらせて感嘆の表情から人のよさそうな口元をほころばせ
「小暮さんと生実さんですか?」
「ええ、はじめまして。わたしは小暮です」
「わたしは生実です。よろしくお願いします」と挨拶を交わす。
「申し遅れましたが、副署長の栗沢です。今日は高齢者の集まりで、署長に代わって挨拶をしなきゃならないんで、こんな格好をしています。おっと、余計なことですな。ご指示のものは、すべて用意しておきました。ご案内しますから、お確かめください」といいながら先に立って歩き始めていた。二人はついていった。
 案内されたのは、小ぢんまりとしたロッカー・ルームだった。おそらくここは幹部用の部屋なのだろう。署内の電話や人声の活気が扉越しに感じられる。栗沢副署長がロッカーの一つを鍵で開け、大きなダッフルバッグを二つ引っ張り出してきた。

 一つには、電気工事関係の作業服や道具類が入っていた。あと一つには、拳銃を始めとして、こちらからの要望は満たされていた。栗沢副署長は
「作業用の機械の操作は、体験済みとうかがっていますが?」
「ええ、その通りです」と生実。
「それじゃ、ここで着替えてください。小暮さんは隣の部屋を使うといいでしょう」生実に向かって
「ロッカーの鍵をお渡ししておきます。廊下からのドアは中の錠をひねっておいて、裏口から出られるとき元に戻してください。裏口のドアはそのまま何もしなくて結構です。
 それから仕事の後は、衣類だけバッグに入れてこのロッカーに鍵とともに入れて置いてください。あと一つ、お帰りになるときは、無言で挨拶なしと言うことにしてください。それじゃ、わたしはこれで……」さやが声をかけた
「わたしが使う部屋に誰か来ることは?」
「ありません。予備の部屋で、ほとんど使われていませんから、お気遣いなく」
「いろいろとお世話になりました」生実とさやは同時に栗沢に言っていた。栗沢は「幸運を祈ります」と笑顔で言って出て行った。

 生実は紺の作業服に着替え、腰にペンチやニッパーの入ったベルトを締め。それに並ぶように鞘に入れたコンバット・ナイフをつけた。その上、鼻の下から顎にかけて変装用髭をつける。まるで別人だ。
運転席でキーをひねると、ディーゼル・エンジン特有のガラガラと言う音とともに、黒い排気ガスと臭気が漂った。
生実がトラックの周囲を回り、タイヤやミラー、荷台の様子を確認していると、作業服姿のさやが出てきた。頭からバンダナをたらしてその上にヘルメットをかぶり、小さなサングラスで目を隠している。顔色が一層青白い。工事人に見えないかもしれない。それに生実を見ても驚きの声もない。

 国道二十号線に出る途中のコンビニに寄り、サンドイッチと缶コーヒーを買って、白州(はくしゅう)町の千葉の別荘付近に着いたのは午後一時を過ぎていた。車中で買ってきたサンドイッチを食べた。さやは一口食べてコーヒーで流し込み、「もういらない」と言って大きく息を吸い込んだ。相当緊張しているなと生実は思った。ムリもない。
コメント
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