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小説 囚われた男(30)

2007-02-03 10:58:25 | 小説
 取り残された初対面同士は、ぎこちなくなって会話も途絶えがちになる。生実はステレオでオスカー・ピータースン・トリオの演奏を流す。しばらく聞いていたが、生実は突然
「ダンスは?」
「下手ですけど、男性のリード次第ですわ」これは下駄を預けられたと言うことだ。踊りたければ、ちゃんとリードしなさいよと言うわけだった。

 グレン・ミラーに変える。スローバラードの「ムーン・ライト・セレナード」を選ぶ。生実にとって、女性を口説くときの定番と言える曲。美千代に手を差し伸べてステップを踏む。彼女のグラマーな肉体が感じられる。
 美千代も生実の強靭な肉体をいやというほど感じていた。このままずっと抱かれていたいという欲求が強まってくる。心の奥では、初対面という言葉がちらつきくじけそうになる。しかし、アルコールの作用はめざましく、すべてを払拭した。
 顔を見合わせ、唇を求め、狂おしくむさぼる。お互い何年、何ヶ月ぶりの肉体の饗宴だろうか。すべてが消え、二つの肉体がそれも美しい肉体が、律動から静止へと沈黙の世界に滑り落ちた。

 翌朝、生実は美千代の寝顔を眺めていた。ふくよかでセクシーな唇、色白の顔は、彫りが深く目が特に印象的だ。東に抱かれていたことを思うと複雑な気分になる。時計を見ると七時を過ぎていた。美千代を揺り起こし、生実はキッチンでベーコンエッグとトースト四枚、それにコーヒーを準備する。
 地味なグレイのスーツとスカートに着替えた美千代を見て、生実はあれっと一瞬思った。きのうは気がつかなかったが、どこかで見たような気がする。
 薄化粧の美千代は、あれほど淫乱な姿態を見せたとは思われないほど、さわやかな笑顔で「おはよう」と言ってテーブルについた。

 出された朝食を、上品に口に運び、それに口を開けず上品に咀嚼した。これは生実の好みの食べ方だった。生実は変なところにこだわりを持っていた。美千代は化粧室で口紅を直し、「ありがとう」と言って生実の額にキスをして出て行った。
 美千代はもう仕事モードに入っていた。生実は、美千代に仕事のことは聞かなかった。

 今日の残った時間は、ジムでのトレーニングと読書。夕食はいつものイタリア料理店『ジロー』に出向く。今日は予約をしてあったので、待たずにカウンター席に案内された。料理は以前食べた「牛肉のタツリアータサラダ添え」「キャベツと生ハムのパスタ」それに白ワインをボトルで注文する。
 店内に目を移すと、女同士の客が結構多い。それに子供づれ。明日のことを考える。どんな展開になるのか。シミュレーションはしてあるが、予定通りにはいかないだろう。なんといっても、瞬時の決断が生死を分ける。神に祈るしかない。神が存在するとして。
コメント
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