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小説 囚われた男(34)

2007-02-19 11:37:27 | 小説
22

 爽やかな乾燥した涼しい風が、窓を開けた車の中で渦を巻いて、美千代の髪を、鳥の巣のようにしていた。サングラスをかけた魅力的で美しい顔から笑みが絶えなかった。何か質問してその答えに、肩を震わせて笑っていた。
少し真面目な話題になったのは、生実の何気ない一言だった。
「それにしても、潜入捜査官なんてよくやったね」
「そうね。最初は婦人警官として勤務したわ。逮捕した犯人は五人。空き巣、痴漢、銀行強盗。銀行強盗の三人は、太ももや手を撃ったけど。それが評価されたと思うけど、警視庁捜査一課特殊班に配属されて最初の仕事が潜入捜査官だった」
「なるほど、なかなかやるじゃないか」
「運が良かっただけね。私の性格に合うかもしれない。小さなことは気にしないし、かなり楽天家なの。それにいたずら好き」
「それにセックス好き」と生実。
「まあ、失礼しちゃうわ」と言いながらも目は笑っていた。

 さやの病室はもう何もないといってよかった。点滴もなし、腕を吊ってあった器具もなし。あるのは腕の包帯が目立つ程度だった。パジャマを着ていて、胸のボタンが外れ、さやの胸のふくらみに目が釘付けになった。
 その様子を見た美千代の手が伸びて、生実の腕をつねった。さやが目ざとく見つけて
「どうかした?」
「いや、なんでもない。ところで元気そうじゃないか」
「ええ、順調に回復しているそうよ」
「ごめんなさいね。怪我を負わせちゃって……」と美千代の小声の語尾が消えていった。
「ううん、わたしが悪いの。とんでもないことをしでかして、恥ずかしいわ」
「ところで、立ち入ったことだけど、そのとんでもないことの原因というのは、何なんだい? 聞いてもよければだけど」生実の言葉に、さやは一瞬窓の外に視線を泳がせたが、決然とした表情で
「そうね。他人から見れば馬鹿げているけど、わたしは真剣だった。弟が一人いるのだけど、その弟は、肝不全で臓器移植をしないと余命三ヶ月と言われていたわ。たとえ移植に成功しても一年生存が見込まれる程度なの。
 わたしの家族は弟ただ一人、少しでも長く生きて欲しいと思っていたわ。完全なかたちの肝臓は、死んだ人からしか供給できないのでいつになるか分からない。比較的チャンスが多いアメリカで移植するとすれば莫大なお金がかかるわ。わたしはそれでもアメリカで手術をしたいと、お金の工面のためブツの横取りを画策した。そして見事に失敗した。
 でも、落ち着いて考えると、これでよかったと思っているわ。汚れたお金で手術しても、弟は喜んでくれない。しかも、うまくお金に変えられるか、逃げ長らえることができるかも疑問だし。一生、日陰の生活者に成り果てる道しかない。むしろ目を覚ましてくれたお二人に、感謝してるわ。ありがとう」さやの頬は流れる涙が幾条にも縞を作り、さやはそれを拭おうともしなかった。美千代の肩は、大きく震え嗚咽に包まれ、すっくと立ってさやを抱きしめた。
「可哀想なさや!」あとは言葉にならなかった。

 生実は病院からの帰路、今夜久しぶりのクルージングに美千代を誘った。美千代は子供のようにはしゃぎ、うれしさで目がきらきらと輝いていた。生実が迎えに行こうかと言ったが、美千代は気を遣っているのか、自分の車で生実のアパートまで来るという。
 東を殺(あや)めた場所に招くのは好ましいことではないと配慮したのだろう。それにしても、その場所に住んでいるというのも気丈な一面なのだろう。

 美千代は午後五時に現れた。ジーンズにタータンチェックのシャツ、それに紺のハーフコートを着て、口紅を薄く引いているだけで、ほかの化粧気はまったくない。それでも大きくて澄んだ目と健康的な肌で十分魅力的だ。
 夢の島マリーナに停泊しているヤマハCR―三三クルージング・ボートに美千代を案内した。船内を見せて回り、キャビンでコーヒーをご馳走した。美千代は物珍しそうに何十という質問と何百という笑い声で、舷側に当たる波の音を消してみせた。生実はますます美千代が好きになった。美千代なしでは生きて行けないのではないかとさえ思っていた。

 クルージングは、東京ディズニーランド、三番瀬から幕張副都心、京葉工業地帯から海ほたるに沿って川崎へ、京浜地帯を通り都心のベイエリアを眺め、夢の島マリーナに帰港したのは午後九時ごろになった。
 ウィークデイということもあって、周囲は閑散としていて、倉庫の影や植物園の暗闇が不気味なくらいだった。赤ワインの栓を抜いて、テイクアウトしたピザを温める。ギャレーは狭いのでキャビンに持っていく。桟橋の外灯の明かりがキャビンまで届いているが、壁のライトと天井からのダウンライトで少しは雰囲気が出そうだ。
 赤ワインとビザで空腹をいやし、さやのことや久美子とその友人たちのことなど、取り留めのない話題で時が過ぎていった。
生実は決心をしていた。
「美千代さん。私はあなたを愛している。一生私から離れないで欲しい。私もあなたを離さない。結婚しよう。どうか首を横に振らないで……」美千代は言葉が出なかった。まさかこんなに早く求婚されるとは思ってもいなかった。
「うれしいわ。本当にうれしい。でもわたしのことをよくご存じないのでしょう?」
「美千代さん。それは過去のことを言っているんだったら、問題にならない。どうしてかというと、今のあなたをよく知っているから。それよりも、私のことはよく知っているよね」
「ええ、それはもう何から何まで、一つだけ知らなかったことがあるわ」
「ほう、それは……」
「キスの味よ。それも知ってしまったから」生実は笑うしかなかった。それから美千代は語りだした。
「潜入捜査官として東の妻ということになったけど、それは形だけのものだったわ。東にこわれて自然な形でそうなったの。何もかも話し合った末なの。東は世間体を気にしただけ。夫婦関係はなし、表向き装うだけ。もっとも性生活を営む能力がなかった状態だったけど。東には子供が二人いたわ。その面倒を主に見ていたわけ。その上で情報収集も。
 わたしは、三十代はじめに結婚したけどうまくいかなかった。相手は新聞記者だった。ところがその男は、言うこととすることが矛盾していて結局別れたわ」美千代は遠くを見るような焦点の定まらない眼差しから、一転、真剣な目で
「今、気がついたけど、生実さんは東との関係も聞かなかったわね。今のわたしを求めていらっしゃるのがよく分かったわ。わたしは首を横に振らないわ。ありがとう」
美千代の目は、みるみる涙が浮き上がりこぼれ落ちた。立ち上がって窓に向き涙を拭っていた。生実は近寄って振り向かせて抱きしめ、ふっくらとした唇に唇を重ねた。
コメント
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