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満蒙開拓団の集団自決で生き返った人

2015-09-20 00:00:55 | Weblog
満蒙開拓団では、集団自決が起きた。
その集団自決で、生き返った人の話を聞くことができた。
長野県の河野村から、満洲に渡った、久保田 諌(いさむ)さんである。
河野分村の男性は、1945年8月15日に「根こそぎ動員」で招集されたから、
女性と子ども、老人、68歳の団長、15歳の久保田少年ほかが、団に残された。
残された人は、1945年8月16日に集団自決をした。そして、73人が亡くなった。
久保田少年は生き返った。地獄を体験して、帰国した。

満洲開拓団地図」。

は開拓団。長野県立歴史館から。
河野村(かわのむら)、Sは新京(しんきょう)、Kは吉林(きつりん)、Rは胡蘆島(ころとう)。

集団自決をしたが、生き返ったとは、どういうことなのか? 知りたかった。
1)集団自決に追い込まれたわけは?
2)どのようにして、集団自決をしたのだろうか?
 首を絞めたというが。
3)どうして、1人だけ生き返ったのだろうか?
 首を絞められたが、息を吹き返した?
4)満蒙開拓団を送り出した河野村の村長は、
 集団自決を知って、自殺したというが、
 どうして、集団自決を知ったのだろうか?
 生き残った久保田少年が日本へ帰ったのは、
 村長が自殺をしたあとだったというから。
5)壮絶な体験をした人が、今に伝えたいことは?

長野県立歴史館で、証言「満洲移民を語る」が、2015年9月12日に開催された。
河野村から、満蒙開拓団で河野分村へ行った久保田 諌さんが話された。
15歳の久保田少年は、85歳になっていた(1930年1月生まれ)。
腰は曲がりかけているが、記憶力はしっかりしていて、
メモを持たず、よどみなく、話された。
2時間近くのお話しだった。

0)満蒙開拓団に参加したいきさつも、知ることができた。
実家は農家ではなく、木材、薪を扱っていた。
馬車を使った運送業に切り替えて、順調だった。

当時は、予科練へ行って、あこがれの少年航空兵になるか、
満蒙開拓団へ行くかだった。
戦争は嫌だ! という雰囲気ではなかった。
学校の先生は、予科練を勧めたが、満蒙開拓団を選んだ。
叔父が村の議員で、満蒙開拓団を勧めたこともあった。

1944年8月、満洲の河野分村に渡った。単身、14歳だった。
(1944年8月とは、終戦の前年ではないか? すでに戦局は悪く、
敗戦が色濃かったが、国民は知らされていなかった)

S新京(長春)の西へ12キロメートルのところで、
広大な土地、作物が獲れるいいところだった。
新京にはあった電気、ラジオはなかった。

1945年8月15日に、「根こそぎ動員」があった。
18歳~45歳の男が対象者で、43歳の副団長や、
団長の長男ほか、17人が新京へ出征した。
(1945年8月15日とは、終戦の日ではないか!)

残されたのは、女性と子ども、老人、68歳の団長、
耳が遠い25歳のマッサージ師、そして、15歳の久保田少年だった。

久保田少年は、満人の苦力(クーリー)を使って、農作業をした。
苦力頭(トウ)に必要数を言うと、苦力を集めてくれた。
8月15日、畑で大根の追肥と除草をしていた。

すると、団の婦人が知らせに来た。
日本が負けたから、団本部に来るように」
日本の敗戦は、隣のカ行村の少年が、馬に乗って伝えに来てくれた。
カ行村には、電気があり、ラジオがあった。河野分村は知らないでいるだろうからと思って。

久保田少年は、確認に行くように言われて、
4キロメートル西のカ行村に、自転車で行った。
日本が負けることは考えられなかった。無条件降伏だった。
新京では、暴動が起きて、日本人は外に出られなかった、と聞いた。

「団に集結せよ!」と命令された。それから、
丘のような低い山があって、そこへ避難した。
夜中に雨が降り出した。

1)集団自決に追い込まれたわけは?
1945年8月16日。朝、腹ごしらえに、山から団にもどった。
外の雰囲気が違ってくる。11時ころ、原住民が200人くらい集まる。
馬に乗っている。拳銃を放つ。宿舎の物資を運び出す。
窓枠も取り去る。燃料に使うのだろう。
畑からジャガイモを掘り出す。

着の身、着のままで、西のK吉林(きつりん)方面に逃避する。
マッサージ師と逃げる。25歳だが、耳が遠かったために、
「根こそぎ動員」を免れたと思う。

疲れて、コーリャン畑で寝てしまった。
数百人の現地人に襲撃されて、こん棒で殴られた。
若かったから、手で防いだりして、致命傷にはならなかった。
ところが、こん棒で殴られても、68歳の団長は年寄りだから弱い。
虫の息で、
早く楽にしてくれ!
若者は、日本へ帰って、報告してくれ!

副団長の奥さん、校長先生の奥さん方が集まって協議した。
召集された夫は、新京ですでに戦死したと思った。
集団自決をすることになった。

2)どのようにして、集団自決をしたのだろうか?
団長の首を絞めた。
母は腰ひもで、赤ちゃんから首を絞め始めた。
小学5、6年生には、
お父さんのところへ行くから
と、言い聞かせて首を絞めるが、息苦しくなると、
お母さんの手を、払いのけてしまう。
殺すのをやり返すのは、「かわいそうだ」
と、看護婦さんの助言をもらいながら、
一気にやってしまうことになる。

子どもの次は、身内のおばあさんの首を絞める。
肉親のつぎは、若い婦人が絞められる。
73人が殺された。

3)どうして、1人だけ生き返ったのだろうか?
25歳のマッサージ師と、15歳の久保田少年が残った。
2人は石を探した。大きな石を探したが、畑には大きな石はなかった。
中でも大きな石を右手に持ち、左手を相手の肩にかけて、
石を相手の眉間をめがけて、殴り合った。
目に血が流れてきた…倒れた。
血が出て失血死するように、頭を下にした。

久保田さんは、話をしながら、を触って、
今でもあるデコボコや傷は、殴り合ったときにできた。
あとで、近くで見る機会があったが、眉間はへこみ、
その眉間から左上に裂けた傷痕があった。
右手の石で殴り合ったから。

久保田少年は目が覚めた。しかし、立ちあがれない。
太陽が見えたから、5~6時間、気絶していた。
スコールの水が足跡にたまっていた。
さかずき位の水をすすった。
生き返った。

2人とも気がついた。
73人の死体が転がっている。
女性も子どもも、衣類がはがされていたから、丸裸だった。
久保田少年も、シャツもズボンもとられていて、パンツだけだった。
1週間、畑の中にいた。どうすればいいのか? どこへ行けばいいのか? わからない。

現地人の馬車が来て、女性と子どもの死体を荒地に捨てる。
2人は邪魔にされて、どこかへ行け。

夜になって、現地人に見られて、迷惑にならないように、苦力頭の玄関を叩いた。
苦力頭は、久保田少年の傷つき、衰弱したパンツ姿を見て、大泣きした。
中国では、米のご飯を食べない。食べても、おかゆだが、
ご飯を炊いてくれた。それに、卵焼き、塩で味つけした。
あんなにうまい飯はなかった! 今でも覚えている。

苦力頭は、2人分の衣服、履物を用意してくれた。
12キロメートル先の新京へ行く。苦力を、前に2人、
後ろに2人つけて、苦力頭が新京まで連れて行ってくれた。

新京では、満洲軍の乗用車で日本軍の憲兵隊へ連れて行かれた。
車に乗るのは初めてだった。憲兵から逃亡兵の嫌疑がかけられた。
疑いが晴れて、収容所へ行く。つぎに開拓研究所へ行く。
「根こそぎ動員」された団長の長男ほか10人がいた。
となりは、関東軍司令部だが、関東軍はいなかった。
関東軍に見捨てられた。

その後、列車でH奉天(ほうてん)へ行く。
奉天は略奪、強姦で、新京よりもひどかった。
奉天から、南へ行くらしい貨物車に潜り込んで、
着いた先がA安東(あんとう)だった。セメント工場で袋詰め、
木材会社で船造り、鉄道工事などをして、生き延びる。
マッサージ師は、熱を出して亡くなった。
八路軍でD大連へ行った。帰国まで1年3か月待った。
食べ物に不自由した。140人いた日本人は37人に減った。

4)満蒙開拓団を送り出した河野村の村は、
 集団自決を知って、自殺したというが、
 どうして、集団自決を知ったのだろうか?
久保田少年は、1948年7月、R胡蘆島 (ころとう)から船に乗った。
7月23日に舞鶴へ着いた。1948年7月31日に家へ帰った。
帰国を、胡桃沢 盛(もり)村長に伝えることはできなかった。
村長は、2年前の1946年7月27日に自殺していた。
死ぬために送り出したことを、苦にされた。

村長は、集団自決をどうして、知ったのだろうか?
村長の弟が奉天の学校にいた。分村移民のことは、
気になっていて、連絡を取っていたから。

5)壮絶な体験をした人が、今に伝えたいことは?
絶対に戦争を起こさないように!
(集団自決で地獄を見てきた人の言うことは、重みがある)

自分が85歳になって、70年前の15歳のことを、2時間近くも話せるだろうか?
年月日、出来事、順番、場所、人名、数字…を、
久保田さんは、鮮明に記憶されている。
「エーっと、あれは何だっけ?」
は、まったくなかった。

それで、話が終わった後で、お聞きした。
「素晴らしい記憶力ですね!」
すると、すぐに答えられた。
「満蒙開拓団のことは、よく覚えている。
きのう、何をしたか? は覚えていなくても」
久保田さんにとって、満蒙開拓団は、
刻み込まれていて、一生、忘れることができないもの。
集団自決、逃避行、地獄が、生々しくよみがえる。
人生のすべてのように、強烈に凝縮されている。

河野村と神稲(くましろ)村が合併して、豊丘村になった、1955年。
豊丘村には慰霊碑がある。
海外犠牲者 慰霊碑」。2012年7月撮影。

長野県知事 西沢権一郎 書。
昭和の中世 時の国策の悠久大義なるを信じ
それに順応し祖国を離れて海外の新天地に活躍中
太平洋戦争の悲惨なる終結に伴ない
雄図空しく挫折し凡そ文明社会の想像し得ざる悲惨な現実に直面し
幾多の同志は想を故郷に馳せつつ異郷に散華し
生あるものは辛うじて身をもって故山に帰るの止むなきに至れり
今茲に平和なる母村の清丘に碑を建設して
異郷に眠る同志の声なく帰郷を希い 以て慰めんと欲す
想を馳すれば 吾等の雄図は事志と違い
悲惨なる結末を告げたりとはいえ 決して無為にあらず
必ずや後世の歴史は平和に本建設の礎たりしことを証明するであろう
この丘に立ちて 眼科に天龍の清流と栄ゆく母村の姿を見
仰いで青天に一片の白雲 悠々たる故山の姿を眺むる時
遠き思新にして感無量なるを覚ゆ
御霊よ 安らかに 永眠されんことを
1974年8月15日

長野県は、全国で一番多く満蒙開拓団を送り出した。

長野県は、全体の14.2%を占めて、断トツ。
長野県の戦没者は15,000人近くだから、半数が亡くなった。

久保田 諌さんの豊丘村を見る。
満洲移民の市町村別比率」。

豊丘村は、長野県の南部。
満洲移民の比率は6.4%と高く、赤色で表示されている。

豊丘村の、渡満者比率、帰国者比率のデータを見る。
市町村の渡満者比率」。

渡満者の内訳で、
義勇軍は、満蒙開拓青少年義勇軍、
勤労奉仕隊は、移住ではなく、お手伝いに満蒙開拓団に行った人。

一番下の豊丘村は、
人口9,244人の内、614人が満州に渡った。
渡満者比率は、6.4%である。

市町村の帰国者比率」。

豊丘村は、614人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は234人である。、

帰国者比率は38.1%である。
帰国者比率が極めて低いのは、
河野分村の73人の集団自決による。

下から2行目の市川村も、帰国者比率が26.3%と低い。
瑞穂村で集団自決が起きたから。
満洲最大の悲劇である佐渡開拓団事件は、つぎを参照してください。
「満蒙開拓団の集団自決」、2015年8月30日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/edfa477d159f70a385860d55d571f8e1

豊丘村の死亡者ほかを見ると、
死亡者は355人、(河野村は94人)、
残留者は21人、(河野村は0人)、
不明者は4人、(河野村は0人)、
豊丘村は合せて380人、(河野村は合せて94人)になる。

久保田 諌さんの河野村の集団自決と、
高山すみ子さんの瑞穂村の集団自決をみると、
集団自決には、共通点がある。
① 満蒙開拓団の男性は、「根こそぎ動員」で、出征していた。
② 団に残されたのは、女性と子ども、少年、そして、老人である。
③ 集団自決をしたのは、団に残された女性と子ども、少年、そして、老人である。
④ 集団自決をした日は、終戦の1945年8月15日より後である。
  河野村では1945年8月16日、
  瑞穂村では1945年8月25日。
⑤ 日本の敗戦を、団に知らせなかった。
  団では、日本が負けることは考えられなかった。
  満洲最大の悲劇、佐渡開拓団事件は、団は敗戦を知らずに、
  ソ連を襲撃して20数名を殺害したために起きた。
  怒ったソ連は1,200名で報復した。助からないと観念した団員は、
  戦車隊に突撃して玉砕した。戦闘での死者は1,464人にのぼった。
⑥ 現地人は、日本の敗戦を知ると、団を襲撃、略奪した。
⑦ 守ってくれるはずだった関東軍は、いち早く逃げていた。
  瑞穂村の場合は、関東軍は、橋という橋を破壊して、逃げた。
⑧ 現地人や、ソ連兵によって、男は殺され、女性は暴行される絶望から、
  生きてはずかしめを受けるよりも、自決を選んだ。
⑨ 自決の方法は、考えられるあらゆる方法を選んだ。
  銃殺、首絞め、石で殴り合う、子どもを川に投げ捨てる。
  そして、自分の子ども、つぎに、お母さんと、肉親を殺した。
  子どもには、「ノノさんのところへつれていってあげるから」、
  「お父さんのところへ行くから」と、言い聞かせて、殺した。
⑩ 土地は、現地人のものを、関東軍によって、安く収奪したものだった。
⑪ 集団自決の前後では、死の逃避行があった。
  市川村、豊丘村では、半数の人が亡くなり、残留孤児や残留婦人が生じた。

豊丘村役場。2012年7月撮影。


豊丘村の人口。豊丘村役場で、2012年7月撮影。

2012年7月1日の人口は6,916人。
1944年の人口9,244人だったから、
2,300人以上減少している。
過疎化、満蒙開拓団の犠牲が影響していると思う。

満蒙開拓団の15歳の少年は、集団自決という、地獄を体験して生き返った。
「早く楽にしてくれ!」と言う、虫の息の団長の首が絞められた。
母は赤ちゃんの首を絞め、つぎに、小さい子どもから首を絞めた。
それから、自分のお母さん、お義母さんの首を絞めた。
身内が終わると、若い母から首を絞められた。
残った15歳の少年と、25歳のマッサージ師は、
石でお互いの眉間を殴って、殺し合った。
戦争は、人を絶望にさせ、狂気にさせた。
「絶対に戦争を起こさないように!」
と、眉間の傷は言っている。
満蒙開拓団を送り出した村長は、
凄惨な結末を知って、自殺した。

土地を奪えば、相手は取り返す。
銃を撃てば、相手も撃ち返す。
関東軍は、いち早く逃げていた。
アジアの盟主になろうとした日本は、
その度量はないとされて、集団自決に追い込まれた。
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