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ネルソン・マンデラの46664

2013-12-15 00:01:35 | Weblog
ネルソン・マンデラが亡くなった。
2013年12月5日、95歳だった。

アパルトヘイト(人種隔離政策)の撤廃運動で、
国家反逆罪で終身刑となった。そして、
1964年に「ロベン島」に投獄された。
ネルソン・マンデラの「46664」は収監番号。
最初の「466」は、囚人番号、
つぎの「64」は、投獄された1964年を表す。
東京オリンピックが1964年だから、覚えやすい。

獄中にあっても、アパルトヘイト撤廃の活動を続けた。
1990年に釈放されたが、ほとんどを「ロベン島」で過ごした。
44歳~71歳の獄中生活である。

「ロベン島」は、ケープタウンの沖合12キロにある監獄島。
「ロベン島」は、「世界遺産」になった(1999年)。これには、
当時の松浦晃一郎ユネスコ事務局長の後押しがあった。

国宝「松本城」を「世界遺産」にしよう、という活動で、
松浦晃一郎事務局長が松本に招かれた。
その講演で、
「南アフリカ共和国からは、『ロベン島』を含めて、
いくつかの世界遺産の申請があった」
「ユネスコの諮問機関ICOMOS(イコモス)の調査では、
どれも否定的だった。しかし、『ロベン島』は、
ネルソン・マンデラのアパルトヘイト撤廃の、
歴史的、文化的な証拠として、
世界遺産にする意義があった」
と話された。

ネルソン・マンデラが27年間収監され、
獄中からもアパルトヘイトの撤廃運動をした「ロベン島」が、
「世界遺産」になったことに、松浦晃一郎事務局長が力になっていた。
「自然遺産」ではない、「文化遺産」である。

ネルソン・マンデラが亡くなったこのときに、
知っていることをまとめてみようと思う。

ヨハネスブルグとその近郊の、
クルーガーズドープソウェトは、
南アフリカの、歴史の舞台となったところ。

黒人居留区「ソウェト」Sowetは、
ヨハネスブルグの南西10数キロにある。
クルーガーズドープ」Krugersdorpは、
ヨハネスブルグの北西30キロ、高速道路で20分ほど。

「クルーガーズドープ」には、白い台地があちこちにある。
異様な光景だ! 「」を掘ったあとの「ボタ山」Mine Dump。

クルーガーズドープの動物保護区(Krugersdorp Game Reserve)から。手前は、カバがいる沼。
ボタ山は、白い石灰石で覆われている。木は生えない。

ボタ山は、巨大なものから、小さいものまで無数にあって、
クルーガーズドープの景観の主要部になっている。
松本で言えば、田んぼや果樹園のようなもの。

こうなれば、「金鉱」Gold Mineも見たくなる。
南アフリカ人は、ヨハネスブルグに連れて行ってくれた。

「この金鉱は、規模は小さいが、今でも採掘している」
「今でも掘り続けて、垂直の深さが3.2キロある金鉱もある。
人間が掘った穴としては、世界一深い」と言う。

右に「やぐら」、左の手前に「ボタ山」がある。
ボタ山が白くないのは、使用中のためだろう?
なんだか、廃鉱のようだ? 人の気配がしない。
みんな、地下にもぐっているから?

金鉱の遺跡に行った。
スタンダード銀行」の地下に金鉱の遺跡がある。

中央の青いビルディングが「スタンダード銀行」。ヨハネスブルグ。

車を、銀行近くの駐車場に止めた。
そして、足早に銀行へ向かいながら、
「一人歩きはしないほうがいい。夜は、近づけない」
と言う。

銀行への入場は、厳重だった。空港の警備よりも。
日本の銀行からは、想像できないが、
一人ずつ、透明の丸パイプに入る。
高さ2.5メートル、直径1.2メートルほど。
スキャンして、銃器や爆薬などの危険物をチェックし、
問題がないと、半円形のドアが回転して、入場できる。

金鉱の遺跡は、
スタンダード銀行の中にあるエレベータで地下に降りる。
ガラスの床から、金鉱の坑道を上から見る。
さらに、坑道を横から見る。

坑道は狭い。奥の手押し車が、やっと通れる巾だ。
坑道は木で支えられていたが、崩れ落ちないだろうか?
黒人は、劣悪な作業環境で働かされていたのだろう?

銀行の地下が金鉱とは、「金」で富を築いたヨハネスブルグらしい。
スタンダード銀行は鉱山への融資で業績を伸ばしてきた。
「金の精製過程で、ウラニウムも見つかった」
「金やウラニウウム、ダイアヤモンドを含めた鉱物資源が
南アフリカの産業になっている」

南アフリカの植民地の歴史はつぎである。
南アフリカへの入植は、
オランダ人が最初だった(1652年)。
ケープタウンに植民地を作ったが、
あとから来たイギリス人に占領され、追われた(18世紀)。

オランダ農民の子孫ボーア人(アフリカーナー)は、
新たな植民地を求めて内陸へ大移動し、
ヨハネスブルグに、トランスヴァール共和国(1852年)、
その南に、オレンジ自由国を作った(1854年)。

オレンジ自由国で、ダイヤモンドが発見され(1867年)、
トランスヴァール共和国で、が発見された(1886年)。
支配権や金の利権を巡って、支配を強めるイギリスに、
ボーア人はクルーガーズドープで蜂起して、
ボーア戦争」が始まった(1880年、1899年)。
イギリスは、激しい戦争の結果、どうにか勝って、
オレンジ自由国、トランスヴァール共和国を含めて、
植民地「南アフリカ連邦」を築いた(1910年)。

行政はアフリカーナーが担当して、
アパルトヘイト(人種隔離政策)を進めた。
鉱山に白人の職場を確保し、
黒人に土地の所有を認めず、
参政権を与えず、所定の地域に隔絶し、
外出には通行証の携帯を義務付け、
教育を施さず、白人との結婚を禁止した。

このアパルトヘイトは、イギリス本国から非難された。
このため、イギリス連邦から脱退して、国名を、
南アフリカ共和国」に変えている(1961年)。

ネルソン・マンデラは、
故郷のケープの東から、ヨハネスブルグに移り住み(1940年)、
借りた裏庭に、廃材とトタンで「ほったて小屋」を建てた。
広さは、1坪未満と言うから、ベッドがあるごく狭いものだった。

廃材とトタンの「ほったて小屋」は、
ヨハネスブルグ近郊で見かける。2003年。
左端は水タンク。水道も、下水道もないようだ。

ヨハネスブルグを訪れると、外国人はどこに泊まるか?

ヨハネスブルグの北、サントンSandtonにある、
ゲート付きの複合施設の中にあるホテルに泊まる。
手前には、満々と水をたたえた大きなプールがある。

塀で囲われ、ゲートで出はいりをチェックする。
塀の中は白人のための複合施設で、

ホテルのほかに、ショッピング・モール、レストラン、バー、カジノ、映画館、鳥園・・・、

生活に必要なもの、楽しむものがそろっている「白人天国」。
ゴルフコースはクルーガーズドープにあって、
付近は、プールつきの邸宅がならんでいる。

「ほったて小屋」から、ネルソン・マンデラは、
黒人居留区のソウェトに初めての家を持った。
この家は、ミュージアムとして公開されている。

アパルトヘイトの撤廃運動で、
ネルソン・マンデラは、国家反逆罪終身刑となって、
1964年~1990年まで27年間、ほとんど「ロベン島」で獄中生活を送る。

アパルトヘイトは国際社会から避難された。
「ロベン島」を記者団に公開して、ネルソン・マンデラと面会させたり、
別の広い刑務所に移して、国際社会の非難をかわそうとしたこともあった。
しかし、ネルソン・マンデラは、アパルトヘイトの撤廃。民主主義の実現だった。

ソウェトの蜂起」があった(1976年)。
アフリカーナーの言語を授業に強制しようとした。
白人の言語の強制に、ソウェトの黒人学生が反対してデモをした。
13歳の生徒、ヘクター・ピーターソンが警察官によって射殺された。

世界が戦りつした写真。
銃弾に倒れたヘクター・ピーターソン。
South Africa: History of Racial Conflictsから。

左端は姉のアントワネットAntoinette Sithole。
「弟がひどい状態なのは見たが、単なるけがだと思っていた。
どこがどうなったのか、わからなかったから」
と、言っている。
このソウェトの蜂起では1,000人が犠牲になった。

アパルトヘイトは国際社会から非難され、
経済制裁が厳しくなった。
ネルソン・マンデラは、
27年間の獄中生活から解放された(1990年2月11日)。
時の大統領フレデリク・デクラークとの会談で、
アパルトヘイトの終了を、勝ち取った(1992年3月17日)。

ネルソン・マンデラは、フレデリク・デクラークとともに、
ノーベル平和賞を受賞(1993年)、
全部の民族による総選挙で、
黒人初の大統領に選ばれ (1994年)。
そして、人種の融和と民主化に努めた。

ラグビーの第3回ワールドカップが、
南アフリカ共和国で開催された(1995年)。
アパルトヘイト撤廃で、初参加ができ、初優勝した。
ゴルフとともにラグビーは、
アパルトヘイトを象徴するスポーツで、
まして、黒人がジャージを着ることはなかった。が、
ネルソン・マンデラは、決勝戦のヨハネスブルグの競技場に、
主将と同じ背番号6のジャージを着て現れた。そして、
主将にトロフィーを渡し、握手をした。
人種融和の感動的なシーンだった。

2008年に90歳になったネルソン・マンデラの、
ニュースが流れたが、お元気そうだった。
政界を去って、エイズ撲滅運動46664を精力的に進めていた。
サッカーのワールドカップ南アフリカ共和国大会が開催された(2010年)。
閉会式が行われたヨハネスブルグの競技場に出席された。
ネルソン・マンデラが、公式の場に姿を見せた最後だった。

2013年12月5日、自由と希望の不屈の闘士は亡くなった。
ネルソン・マンデラの追悼式が行われた。
各国の元首から市民で埋めつくされたのは、
ヨハネスブルグの競技場だった。

「南アフリカの通知表」、2009年9月13日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/ee41fd8fbc47d4fc98273e91dad57cf0
で、ネルソン・マンデラ、南アフリカについて、
記載してあるので、参考にしてください。
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