「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、機会をみつけては、人に聞いてみた。
できれば、過酷な体験をした人、
悲惨な体験した人に聞いてみたい。
極限状態を体験した人が、
感じる「幸せ」は、本物だろう。
自分の「幸せ」の参考にしたかった。
質問は、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
がいいだろう。
「『幸せ』とは、なんですか?」
では、評論になってしまう。
抽象的なことを言っても、しようがない。
ボランティア活動で南相馬市へ行った。2011年6月。
南相馬市は、東日本大震災と福島第一原発の事故で、
二重の苦しみを背負っている。
津波で船が、港から国道6号まで3.5kキロほど押し流されてきた。
ボランティア活動で、
いっしょになった南相馬市の人は、
福島第一原発の事故のときを、つぎのように言う。
「原発のドスンという爆発に追い立てられて、
取るものも取りあえずに逃げた。
目に見えない『放射能』の恐怖におびえ、
大混乱の避難だった」
「行方不明の家族は、放射能のために、
捜索ができなかったり、見つけられなかった」
「福島第一原発から半径20キロ以内の、
『避難指示』の人は、南相馬市を去った。
避難先は、つてを頼って、北は北海道から、南は沖縄まで」
国際放射線防護委員会(ICRP)は、毎時の被曝限度を、
0.52マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]と定めている。
ボランティア活動の現場は、毎時の被ばく量が、
1.21マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だから、
0.52マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]以上で、
「この場所から、すぐに退避しろ!」
の汚染地域である。
半径20キロ~30キロの「屋内退避指示」に、
住まわれている南相馬市の人も、汚染地域だろう。
窓を閉め切って、閉じこもるしか、ほかにない。
避難した人も、屋内退避している人も、
これからの生活が、どうなるのかわからない。
悲惨な体験をしている南相馬市の人に、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
とは、聞けなかった。
「亡くなった人の分までがんばろう!」
「そうでないと、亡くなった人が浮かばれない」
というのが、悲惨を乗り切る「はげみ」になっている。
松本には、死線をさまよった人がいる。
召集で満州に行き、ソ連に侵攻され、
捕虜になって、シベリアの収容所に送られた。
収容所では、飢えと極寒の中、重労働を強いられて、
栄養失調、発疹チフス、それに、事故で大量の死者がでた。
シベリア抑留の極限状態を、乗り越えて、
生きて、日本にもどることができた。
穂苅甲子男(ほかり かしお)さんである。1924年生まれ。
穂苅甲子男さんの著書、「シベリア俘虜記」、光人社NF文庫。
日本にもどられて、木材会社「林友」を立ち上げ、成功された。
「林友」の会長である、穂苅さんの講演があった。
生死をさまようという、極限状態にあった人が、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
を、お聞きしようと思った。
講演は、「『松本平の女傑』巴御前と川島芳子」。2010年1月。
講演の後、近寄ってお聞きした。
「穂苅さんが、『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
穂苅さんは、キョトンとされていた。
それで、聞きなおした。
「生死をさまよい、九死に一生を得た穂苅さんが、
『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
「どんなときに、ホッとされますか?」
間をおいて、穂苅さんは言われた。
「生きていることに、感謝している」
なんだか、ピンとこなかった。
「生きていることに、感謝している」
とは、はぐらかされたかな? と思った。
「幸せ」という言葉を、考えたことはなく、使うこともなかった。
「感謝」という言葉に置き換わってしまったのか?
とも思った。
それに、講演が「『松本平の女傑』巴御前と川島芳子」だから、
講演の趣旨と外れた質問だったかな? とも思った。
予想した回答は、
1日の仕事を終えて、ホッとして酒を飲むときか?
ビジネスがうまくいったときか?
ゴルフのスコアがよかったときか?
みなさんが、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
穂苅さんのつぎの講演が、翌月にあった。
「シベリア抑留生活を語る」。2010年2月13日。
シメタ! こんどの講演の内容は、
生死をさまよい、九死に一生を得た人に、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、お聞きするには、ピッタリだ。
穂苅さんは、シベリア抑留生活を語られた。
「ソ連が急襲してきた午前1時、寝ていた。
伏せたままズボンをはいて、銃に手を伸ばしたが、
立ち上がってズボンをはいた戦友は、弾に当たって倒れた」
「シベリアの収容所に抑留されたときは、
極寒と栄養失調、重労働、発疹チフスで、
仲間はバタバタと倒れた。
収容所から、毎朝、
死体を運び出すのが日課だった」
「日本に帰ってきても、
シベリアに抑留された仲間は、短命だ。
極寒と栄養失調、重労働で寿命が縮んだ。
のちに俳優になった三橋達也さんは上官で、
長生きされたが、80歳で亡くなられた」
講演が終わると、
会場で、穂苅さんの著書、
「シベリア俘虜記」を買って、
穂苅さんのサインをもらう列に並んだ。
ページを開いて、万年筆でさらさらとサインをされた。が、
なぜ、昭和22年2月13日、であるのか?
そのときは、気がつかなかった。
平成であった。
サインをしていただいて、お聞きした。
「穂苅さんが、『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
穂苅さんは、
「前にも同じ質問があった」
と思われたのだろう?
前よりも、顔を見られたような気がする。
そして、短く言われた。
「生きていることに、感謝している」
「まわりに助けられたことに、感謝している」
「松本の女傑」で、お聞きしたときと、同じだ。
さらに、お聞きした。
お酒は飲まれますか?
「酒で失敗したことがあって、酒は飲んでいない」
スポーツはされますか?
「ゴルフをする」
シベリア抑留という極限状態を体験した人の「幸せ」は?
「生きていることに、感謝している」
「生きていること」は、
当たり前だと思っていた。
当たり前のことが、
極限状態を体験した人が感じる「幸せ」。
穂苅さんのお顔がいい。
恨みを持っている顔ではない。
希望を持たれている顔である。
「生きていることに、感謝している」
ありがたい言葉にしようと思う。
そして、
「その日、その日を精一杯生きよう」と思う。
地震、災害が、いつおきるかわからない。
「今日も、がんばったな!」
「1日が、終わったな!」
と、酒を飲もう。
みなさん、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、機会をみつけては、人に聞いてみた。
できれば、過酷な体験をした人、
悲惨な体験した人に聞いてみたい。
極限状態を体験した人が、
感じる「幸せ」は、本物だろう。
自分の「幸せ」の参考にしたかった。
質問は、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
がいいだろう。
「『幸せ』とは、なんですか?」
では、評論になってしまう。
抽象的なことを言っても、しようがない。
ボランティア活動で南相馬市へ行った。2011年6月。
南相馬市は、東日本大震災と福島第一原発の事故で、
二重の苦しみを背負っている。
津波で船が、港から国道6号まで3.5kキロほど押し流されてきた。
ボランティア活動で、
いっしょになった南相馬市の人は、
福島第一原発の事故のときを、つぎのように言う。
「原発のドスンという爆発に追い立てられて、
取るものも取りあえずに逃げた。
目に見えない『放射能』の恐怖におびえ、
大混乱の避難だった」
「行方不明の家族は、放射能のために、
捜索ができなかったり、見つけられなかった」
「福島第一原発から半径20キロ以内の、
『避難指示』の人は、南相馬市を去った。
避難先は、つてを頼って、北は北海道から、南は沖縄まで」
国際放射線防護委員会(ICRP)は、毎時の被曝限度を、
0.52マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]と定めている。
ボランティア活動の現場は、毎時の被ばく量が、
1.21マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だから、
0.52マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]以上で、
「この場所から、すぐに退避しろ!」
の汚染地域である。
半径20キロ~30キロの「屋内退避指示」に、
住まわれている南相馬市の人も、汚染地域だろう。
窓を閉め切って、閉じこもるしか、ほかにない。
避難した人も、屋内退避している人も、
これからの生活が、どうなるのかわからない。
悲惨な体験をしている南相馬市の人に、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
とは、聞けなかった。
「亡くなった人の分までがんばろう!」
「そうでないと、亡くなった人が浮かばれない」
というのが、悲惨を乗り切る「はげみ」になっている。
松本には、死線をさまよった人がいる。
召集で満州に行き、ソ連に侵攻され、
捕虜になって、シベリアの収容所に送られた。
収容所では、飢えと極寒の中、重労働を強いられて、
栄養失調、発疹チフス、それに、事故で大量の死者がでた。
シベリア抑留の極限状態を、乗り越えて、
生きて、日本にもどることができた。
穂苅甲子男(ほかり かしお)さんである。1924年生まれ。
穂苅甲子男さんの著書、「シベリア俘虜記」、光人社NF文庫。
日本にもどられて、木材会社「林友」を立ち上げ、成功された。
「林友」の会長である、穂苅さんの講演があった。
生死をさまようという、極限状態にあった人が、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
を、お聞きしようと思った。
講演は、「『松本平の女傑』巴御前と川島芳子」。2010年1月。
講演の後、近寄ってお聞きした。
「穂苅さんが、『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
穂苅さんは、キョトンとされていた。
それで、聞きなおした。
「生死をさまよい、九死に一生を得た穂苅さんが、
『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
「どんなときに、ホッとされますか?」
間をおいて、穂苅さんは言われた。
「生きていることに、感謝している」
なんだか、ピンとこなかった。
「生きていることに、感謝している」
とは、はぐらかされたかな? と思った。
「幸せ」という言葉を、考えたことはなく、使うこともなかった。
「感謝」という言葉に置き換わってしまったのか?
とも思った。
それに、講演が「『松本平の女傑』巴御前と川島芳子」だから、
講演の趣旨と外れた質問だったかな? とも思った。
予想した回答は、
1日の仕事を終えて、ホッとして酒を飲むときか?
ビジネスがうまくいったときか?
ゴルフのスコアがよかったときか?
みなさんが、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
穂苅さんのつぎの講演が、翌月にあった。
「シベリア抑留生活を語る」。2010年2月13日。
シメタ! こんどの講演の内容は、
生死をさまよい、九死に一生を得た人に、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、お聞きするには、ピッタリだ。
穂苅さんは、シベリア抑留生活を語られた。
「ソ連が急襲してきた午前1時、寝ていた。
伏せたままズボンをはいて、銃に手を伸ばしたが、
立ち上がってズボンをはいた戦友は、弾に当たって倒れた」
「シベリアの収容所に抑留されたときは、
極寒と栄養失調、重労働、発疹チフスで、
仲間はバタバタと倒れた。
収容所から、毎朝、
死体を運び出すのが日課だった」
「日本に帰ってきても、
シベリアに抑留された仲間は、短命だ。
極寒と栄養失調、重労働で寿命が縮んだ。
のちに俳優になった三橋達也さんは上官で、
長生きされたが、80歳で亡くなられた」
講演が終わると、
会場で、穂苅さんの著書、
「シベリア俘虜記」を買って、
穂苅さんのサインをもらう列に並んだ。
ページを開いて、万年筆でさらさらとサインをされた。が、
なぜ、昭和22年2月13日、であるのか?
そのときは、気がつかなかった。
平成であった。
サインをしていただいて、お聞きした。
「穂苅さんが、『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
穂苅さんは、
「前にも同じ質問があった」
と思われたのだろう?
前よりも、顔を見られたような気がする。
そして、短く言われた。
「生きていることに、感謝している」
「まわりに助けられたことに、感謝している」
「松本の女傑」で、お聞きしたときと、同じだ。
さらに、お聞きした。
お酒は飲まれますか?
「酒で失敗したことがあって、酒は飲んでいない」
スポーツはされますか?
「ゴルフをする」
シベリア抑留という極限状態を体験した人の「幸せ」は?
「生きていることに、感謝している」
「生きていること」は、
当たり前だと思っていた。
当たり前のことが、
極限状態を体験した人が感じる「幸せ」。
穂苅さんのお顔がいい。
恨みを持っている顔ではない。
希望を持たれている顔である。
「生きていることに、感謝している」
ありがたい言葉にしようと思う。
そして、
「その日、その日を精一杯生きよう」と思う。
地震、災害が、いつおきるかわからない。
「今日も、がんばったな!」
「1日が、終わったな!」
と、酒を飲もう。
みなさん、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」