東ドイツは、ベルリンの壁を築いて、東西の行き帰を遮断した。
そして、国民には情報規制をした。
しかし、東西の行き帰を遮断し、いくら情報規制をしても、
西ドイツの放送からは、刻々と情報が入ってくる、ドイツ語で。
「東ドイツはおくれている。もう、どうしようもない」
と、東ベルリンの市民は、気がついている。
シュプレー川沿いにある犠牲者の十字架(1988年)。
中央の黒い十字架は、だれだろう? 最初の犠牲者?
「この国には希望がない。もうだめだ。国を捨てたい、
脱出のためには命をかけてもいい」
東ベルリンの市民を、こう思わせた。
そして、ベルリンの壁を越え、シュプレー川に飛び込んで、
泳いだり、ボートに乗ったり、シュノーケルで潜ったり……と、
脱出を試みた。が、東の国境警備隊に見つかって、射殺された。
「この国には希望がない。もうだめだ。国を捨てたい」
という市民の思いは、東ドイツのハレでも感じた。
ベルリンの南西150キロメートルにハレはある。
ハレの国際見本市の会場(1989年)。
尖塔には☆が乗り、正面にはレーニンの巨大な顔像がある。
ベルリンの壁が崩壊するのは1989年11月で、
東西ドイツが統一するのは1990年10月だから、
東ドイツのハレに行った1989年3月は、
ベルリンの壁が崩壊する年(8か月前)で、
東ドイツが消滅する前年(1年7か月前)になる。
見本市のお客さんのホテルは、外人専用だった。
外人というのは、東ドイツ人以外で、私も外人。
1泊1万円は、東ドイツ人の1か月の給与にあたる。
西側基準のホテルは、東ドイツ人からすると、豪華すぎる。
キャビアがあり、ケーキや色とりどりの果物と、豊かだ。
ホテルは離れた新市街にあって、見せかけの豊かさは、
東ドイツ人には見せないようにしてある。それに、
西と情報交換や接触ができないようにしてある。しかし、
ホテルの従業員は東ドイツ人だから、西との格差は知れ渡る。
見本市会場からホテルへは、タクシーで帰る。
乗り合わせたタクシー・ドライバーのダークは話しかけてきた。
「インフレーションがないから、この20年間、
物価が上がってない。ガソリン代も値上がりしてない。
インフレーションもないし、暴力もないし、失業者もいない」
と、最初は、社会主義の良さを話した。
東ドイツ人と話ができるとは、ありがたい。
一市民が言うことは、飾りがない、重みがある。
しかも、ダークは積極的に、話してくる。
「家を建てるために、昼間は化学の教師、
夜はタクシー・ドライバーをして、稼いでいる。
給与は1万円だが、アパートメントの家賃は200円で、
子どもの学校の授業料はタダだ」
「木材は手に入り易いが、タイルなどの磁器、
トイレのバスタブやシンク、便器などの陶器が、
手に入らない。それに、照明器具も手に入らない」
と、生活の状況、国の状況を話す。
「冷蔵庫、洗濯機は、高過ぎて買えない。
電話はぜいたく品で、持っているのは一部の特権階級だけだ。
車は、タクシーが優先されているから、1年待てばいいが、
一般の使用は、後回しで5~6年は待つ。
新車よりも、いま手にしたい中古品のほうが高くなっている」
「ドル・ショップでは、西の商品を売っている。
タバコや酒、肉、バナナ、オレンジ、チョコレートもあって、
利用できるのはドルを持っている裕福な人か、一部の特権階級さ」
あとで、ドル・ショップへ行ってみた。
お客さんがいなかった。売り子が2人の小さい店だ。
西でみかける免税店という感じだ。西のチョコレートを、
ドルで買った。円換算すると……高い、日本の3倍もする。
――たしかに、東ドイツの市民が買い物をする店ではない。
そして、ダークは気を許したのか、過激になってきた。
「西から東に電話をかければ、すぐにかかる。
しかし、東から西には、申し込んでから、しばらく待たされる」
「だれと交信しているのか、チェックしているのさ。
それに、“盗聴”されているのは当たり前のことなんだ。
“脱出”の話をしたり、国家の“悪口”を言おうものなら、
“秘密警察シュタージ”に“密告”されて、連行される。
それで、“人生を失った”人が多い」
――盗聴、密告、秘密警察で人生を失う、とは恐ろしい話だ。
それも、一般市民の身の回りに起きているとは、驚きだ。
よく、こんな話を、乗り合わせた日本人にするもんだ。
一党独裁による内部の腐敗、恐怖政策、計画経済の破綻に、
市民の不満は、もう限界に達している。
「国民は、国家の悪口を言っているだろう? 脱出するだろう?」
と、政府が国民を疑って、盗聴や密告、秘密警察の恐怖で抑え込み、
「言われるがままにやってきたが、幸せにしなかった。
その国民を守らないとは、なんのための国なんだ!」
と、国民が政府に失望して、国を捨て脱出をする。
これは、末期的な状態だ。国の破滅状態を見た。
西ベルリンのイギリス管理区、シュプレー川(1988年)。
対岸は、東ベルリンで、フェンス、ベルリンの壁(白)、照明が見える。
監視塔を入れて、東西ベルリンを遮断する、お決まりの一式になる。
フェンスとベルリンの壁の間は、国境警備隊が巡回する。
歩いたり、車であったり、シェパード犬を連れたりと。
ここシュプレー川では、さらに、“警備艇”が見える。
「この国には希望がない。もうだめだ。国を捨てる」
という、東ベルリンの市民を追跡して、射殺する。
手前の警告板には、
「イギリス管理区の境界。ここを越えるな」
とある。
イギリス管理区とは、第2次世界大戦後のベルリンは、
東西に分割され、さらに西ベルリンはアメリカ、イギリス、
フランスによって、3分割されて統治されていた。
分割統治は、ドイツが敗戦した1945年から、
1990年9月まで、半世紀も続いた。
一方の東ベルリンは、ソ連によって統治された。
1945年に、第2次世界大戦は終わり、
1961年8月に、ベルリンの壁が築かれ、
1989年11月に、ベルリンの壁が崩壊し、
1990年9月に、西ベルリンの分割統治が終わり、
1990年10月に、東西ドイツは統一し、
1991年12月には、ソ連が崩壊する。
半世紀かかった“イデオロギー”の“実験”は終わった。
一党独裁の内部腐敗、計画経済の破綻は、国民を幸せにしなかった。
西も東もなくなって、“地球規模”(グローバル化)になった。
そして、イデオロギーに代わって、“先端技術”の競争になった。
歴史の“劇的な変化(パラダイム・シフト)”である。
いまは、ベルリンの壁も監視塔も……取り壊された。
ハレの☆も、レーニン像も……取り壊されただろう。
盗聴、密告、秘密警察で人生を失うは……もうないだろう。
“いまわしいもの”は取り除いて……新しい変化に対応していく。
そして、国民には情報規制をした。
しかし、東西の行き帰を遮断し、いくら情報規制をしても、
西ドイツの放送からは、刻々と情報が入ってくる、ドイツ語で。
「東ドイツはおくれている。もう、どうしようもない」
と、東ベルリンの市民は、気がついている。
シュプレー川沿いにある犠牲者の十字架(1988年)。
中央の黒い十字架は、だれだろう? 最初の犠牲者?
「この国には希望がない。もうだめだ。国を捨てたい、
脱出のためには命をかけてもいい」
東ベルリンの市民を、こう思わせた。
そして、ベルリンの壁を越え、シュプレー川に飛び込んで、
泳いだり、ボートに乗ったり、シュノーケルで潜ったり……と、
脱出を試みた。が、東の国境警備隊に見つかって、射殺された。
「この国には希望がない。もうだめだ。国を捨てたい」
という市民の思いは、東ドイツのハレでも感じた。
ベルリンの南西150キロメートルにハレはある。
ハレの国際見本市の会場(1989年)。
尖塔には☆が乗り、正面にはレーニンの巨大な顔像がある。
ベルリンの壁が崩壊するのは1989年11月で、
東西ドイツが統一するのは1990年10月だから、
東ドイツのハレに行った1989年3月は、
ベルリンの壁が崩壊する年(8か月前)で、
東ドイツが消滅する前年(1年7か月前)になる。
見本市のお客さんのホテルは、外人専用だった。
外人というのは、東ドイツ人以外で、私も外人。
1泊1万円は、東ドイツ人の1か月の給与にあたる。
西側基準のホテルは、東ドイツ人からすると、豪華すぎる。
キャビアがあり、ケーキや色とりどりの果物と、豊かだ。
ホテルは離れた新市街にあって、見せかけの豊かさは、
東ドイツ人には見せないようにしてある。それに、
西と情報交換や接触ができないようにしてある。しかし、
ホテルの従業員は東ドイツ人だから、西との格差は知れ渡る。
見本市会場からホテルへは、タクシーで帰る。
乗り合わせたタクシー・ドライバーのダークは話しかけてきた。
「インフレーションがないから、この20年間、
物価が上がってない。ガソリン代も値上がりしてない。
インフレーションもないし、暴力もないし、失業者もいない」
と、最初は、社会主義の良さを話した。
東ドイツ人と話ができるとは、ありがたい。
一市民が言うことは、飾りがない、重みがある。
しかも、ダークは積極的に、話してくる。
「家を建てるために、昼間は化学の教師、
夜はタクシー・ドライバーをして、稼いでいる。
給与は1万円だが、アパートメントの家賃は200円で、
子どもの学校の授業料はタダだ」
「木材は手に入り易いが、タイルなどの磁器、
トイレのバスタブやシンク、便器などの陶器が、
手に入らない。それに、照明器具も手に入らない」
と、生活の状況、国の状況を話す。
「冷蔵庫、洗濯機は、高過ぎて買えない。
電話はぜいたく品で、持っているのは一部の特権階級だけだ。
車は、タクシーが優先されているから、1年待てばいいが、
一般の使用は、後回しで5~6年は待つ。
新車よりも、いま手にしたい中古品のほうが高くなっている」
「ドル・ショップでは、西の商品を売っている。
タバコや酒、肉、バナナ、オレンジ、チョコレートもあって、
利用できるのはドルを持っている裕福な人か、一部の特権階級さ」
あとで、ドル・ショップへ行ってみた。
お客さんがいなかった。売り子が2人の小さい店だ。
西でみかける免税店という感じだ。西のチョコレートを、
ドルで買った。円換算すると……高い、日本の3倍もする。
――たしかに、東ドイツの市民が買い物をする店ではない。
そして、ダークは気を許したのか、過激になってきた。
「西から東に電話をかければ、すぐにかかる。
しかし、東から西には、申し込んでから、しばらく待たされる」
「だれと交信しているのか、チェックしているのさ。
それに、“盗聴”されているのは当たり前のことなんだ。
“脱出”の話をしたり、国家の“悪口”を言おうものなら、
“秘密警察シュタージ”に“密告”されて、連行される。
それで、“人生を失った”人が多い」
――盗聴、密告、秘密警察で人生を失う、とは恐ろしい話だ。
それも、一般市民の身の回りに起きているとは、驚きだ。
よく、こんな話を、乗り合わせた日本人にするもんだ。
一党独裁による内部の腐敗、恐怖政策、計画経済の破綻に、
市民の不満は、もう限界に達している。
「国民は、国家の悪口を言っているだろう? 脱出するだろう?」
と、政府が国民を疑って、盗聴や密告、秘密警察の恐怖で抑え込み、
「言われるがままにやってきたが、幸せにしなかった。
その国民を守らないとは、なんのための国なんだ!」
と、国民が政府に失望して、国を捨て脱出をする。
これは、末期的な状態だ。国の破滅状態を見た。
西ベルリンのイギリス管理区、シュプレー川(1988年)。
対岸は、東ベルリンで、フェンス、ベルリンの壁(白)、照明が見える。
監視塔を入れて、東西ベルリンを遮断する、お決まりの一式になる。
フェンスとベルリンの壁の間は、国境警備隊が巡回する。
歩いたり、車であったり、シェパード犬を連れたりと。
ここシュプレー川では、さらに、“警備艇”が見える。
「この国には希望がない。もうだめだ。国を捨てる」
という、東ベルリンの市民を追跡して、射殺する。
手前の警告板には、
「イギリス管理区の境界。ここを越えるな」
とある。
イギリス管理区とは、第2次世界大戦後のベルリンは、
東西に分割され、さらに西ベルリンはアメリカ、イギリス、
フランスによって、3分割されて統治されていた。
分割統治は、ドイツが敗戦した1945年から、
1990年9月まで、半世紀も続いた。
一方の東ベルリンは、ソ連によって統治された。
1945年に、第2次世界大戦は終わり、
1961年8月に、ベルリンの壁が築かれ、
1989年11月に、ベルリンの壁が崩壊し、
1990年9月に、西ベルリンの分割統治が終わり、
1990年10月に、東西ドイツは統一し、
1991年12月には、ソ連が崩壊する。
半世紀かかった“イデオロギー”の“実験”は終わった。
一党独裁の内部腐敗、計画経済の破綻は、国民を幸せにしなかった。
西も東もなくなって、“地球規模”(グローバル化)になった。
そして、イデオロギーに代わって、“先端技術”の競争になった。
歴史の“劇的な変化(パラダイム・シフト)”である。
いまは、ベルリンの壁も監視塔も……取り壊された。
ハレの☆も、レーニン像も……取り壊されただろう。
盗聴、密告、秘密警察で人生を失うは……もうないだろう。
“いまわしいもの”は取り除いて……新しい変化に対応していく。