敦煌の鳴沙山(めいさざん)の頂上に駆け上って、
月牙泉(げっかせん)を見ると、
隊商が休むイメージにピッタリのオアシスだ。
オアシスをイメージする写真は撮れたから、
つぎは、オアシス都市の写真を撮りたい!
遠方には、オアシス都市、敦煌が広がるが、
敦煌は広すぎて、写真におさまりきらない。
写真におさまるオアシス都市がないか?
小さいオアシス集落でもいい、
と、探していた。
チャンスは、嘉峪関(かよくかん)城でやってきた。
嘉峪関城は、敦煌の東、300キロメートルにあって、
城であり、関所で、日本の天守閣が3つもある。
規模が大きいから、天守閣3つのうち、
写真には、2つしか入らない。
この嘉峪関城からは、北と南に万里の長城が延びて、
外敵から守るとともに、隊商を関所に集めて、
税を取り立てるようになっていた。
嘉峪関城から、北に延びる万里の長城は、
7キロメートル先の懸壁(けんぺき)長城に、
つながっていた。
復元された明時代の懸壁長城を登るが、傾斜はきつい。
希望者は、ふもとから30分ほどの頂上を目指す。
懸壁長城の左はモンゴル、右は中国の明。
懸壁長城は、そそり立つ山の頂上に到達して、
その先は、自然と一体になるように、終わっていた。
――ここから先は、万里の長城がない!
騎馬民族も、ここまでは、上がってこられないだろう。
万里の長城の終わりは、“自然の要塞”に溶け込んでいた。
その懸壁長城の頂上から見たのが、つぎの写真である。
右下は懸壁長城で、ここを登ってきた。
不毛の砂漠の中に、ここだけ、緑の集落がある。
――オアシス集落に巡り合えた!
集落を砂嵐から守るために、周囲にはポプラを植えてある。
そのポプラの中に畑がある。
中央には、さらに砂嵐をやわらげるように、
ポプラ並木があって、民家は、その中に並んでいる。
周囲のポプラも、中央のポプラ並木も、
砂嵐の脅威から集落を守るとともに、
騎馬民族からの襲撃から、護っている。
中央のポプラ並木に添って、
小川か、地下水路があるのだろう?
生活用水であり、畑の灌漑用だ。
畑には、とうもろこし、野菜があった。
中国の“農耕民族”は、集落をつくって定住している。
“騎馬民族”は、収穫期をねらって襲撃するのだろう。
農耕民族は、ポプラを植え、“万里の長城”を築いて、
騎馬民族の襲撃に耐えてきた。
オアシス集落と万里の長城は、
農耕民族と騎馬民族の“攻防”であり、
中国の“興亡”の舞台である。
攻防の舞台の写真のようだ。
月牙泉(げっかせん)を見ると、
隊商が休むイメージにピッタリのオアシスだ。
オアシスをイメージする写真は撮れたから、
つぎは、オアシス都市の写真を撮りたい!
遠方には、オアシス都市、敦煌が広がるが、
敦煌は広すぎて、写真におさまりきらない。
写真におさまるオアシス都市がないか?
小さいオアシス集落でもいい、
と、探していた。
チャンスは、嘉峪関(かよくかん)城でやってきた。
嘉峪関城は、敦煌の東、300キロメートルにあって、
城であり、関所で、日本の天守閣が3つもある。
規模が大きいから、天守閣3つのうち、
写真には、2つしか入らない。
この嘉峪関城からは、北と南に万里の長城が延びて、
外敵から守るとともに、隊商を関所に集めて、
税を取り立てるようになっていた。
嘉峪関城から、北に延びる万里の長城は、
7キロメートル先の懸壁(けんぺき)長城に、
つながっていた。
復元された明時代の懸壁長城を登るが、傾斜はきつい。
希望者は、ふもとから30分ほどの頂上を目指す。
懸壁長城の左はモンゴル、右は中国の明。
懸壁長城は、そそり立つ山の頂上に到達して、
その先は、自然と一体になるように、終わっていた。
――ここから先は、万里の長城がない!
騎馬民族も、ここまでは、上がってこられないだろう。
万里の長城の終わりは、“自然の要塞”に溶け込んでいた。
その懸壁長城の頂上から見たのが、つぎの写真である。
右下は懸壁長城で、ここを登ってきた。
不毛の砂漠の中に、ここだけ、緑の集落がある。
――オアシス集落に巡り合えた!
集落を砂嵐から守るために、周囲にはポプラを植えてある。
そのポプラの中に畑がある。
中央には、さらに砂嵐をやわらげるように、
ポプラ並木があって、民家は、その中に並んでいる。
周囲のポプラも、中央のポプラ並木も、
砂嵐の脅威から集落を守るとともに、
騎馬民族からの襲撃から、護っている。
中央のポプラ並木に添って、
小川か、地下水路があるのだろう?
生活用水であり、畑の灌漑用だ。
畑には、とうもろこし、野菜があった。
中国の“農耕民族”は、集落をつくって定住している。
“騎馬民族”は、収穫期をねらって襲撃するのだろう。
農耕民族は、ポプラを植え、“万里の長城”を築いて、
騎馬民族の襲撃に耐えてきた。
オアシス集落と万里の長城は、
農耕民族と騎馬民族の“攻防”であり、
中国の“興亡”の舞台である。
攻防の舞台の写真のようだ。