みどりの野原

野原の便り

11月24日 娘と壱岐島 2日目-① 勝本浦 町歩き(建築物・石垣・朝鮮通信使の接待跡・地蔵堂や神社・漁師のおじさんの家で・・))

2023年11月24日 | Weblog

2日目の朝 窓の外を見る。曇って風で木が揺れている。
寒がりの私は防寒対策ばかり考えてきたが、昨日はいい天気で上着いらずだった。
今日は風があるので寒いかな?

壱岐島は玄界灘・日本海側で、何となく寒い北のイメージがあったが・・「対馬暖流の影響を受け、年間を通じて穏やかな気候」だそうだ。

午後からは晴れて寒くはなかった。

さて、今日は午前中「勝本浦」の町歩き。
勝本浦は漁師町で、昔ながらの町屋が並ぶ街並み。
又、大和政権時代から朝鮮半島と深いつながりのある海上航路の重要な港。
見るものは多い。


*朝市通り。お年寄りが数人、野菜や海産物を並べていた。
観光客はこの時期少なく、近所のお年寄りが買い物に来ておしゃべりを楽しんでいる感じだった。


古い町並みが残る通りは懐かしい雰囲気。
懐かしい型板ガラスもたくさん見ることができる。


*旧松本薬局(登録有形文化財)
明治時代の町家。横壁は耐火を考えた煉瓦積み。
2階の銅板張りの開き窓がインパクトがある。

江戸時代頃、捕鯨が盛んで「鯨組」という組織があった。
鯨組の1つ「土肥家」は、鴻池・三井と共に三大富豪の一つとして数えられたという。

*旧石橋酒造店 鯨組の1つ「土肥家」の新宅として、1799(寛政11年)に建てられた。
現在は酒店


*印鑰神社(いんにゃくじんじゃ) 
鑰=「鍵」の意味だそうだ。
外敵の侵入を警戒して、壱岐には大量の武器や防具が運び込まれたという。
武器庫の「鍵」や、重要な「官印」を保管する場所だったようだ。


上記、*鯨組の「土肥家の御茶屋屋敷跡」 
今は敷地を取り囲む 90mの「大石塀」が残るのみ。
あまりのデカさに阿房塀(アホウ塀)と言われたとか。 
飛鳥には「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」と言われた壮大な運河を作った天皇さまがいましたね)

*石垣
上記の、印鑰神社や土肥家の御茶屋屋敷跡に使用されている石垣の他、町中の石垣は、砂岩と泥岩が堆積して薄く層状に重なった独特のもの。


町中にあった石垣


港に続く「区切られた海」船が出入りする入口が見られないが。
生け簀なのか?? と言っていたが、後で家に招いてくれたおじさんによると、埋め立て予定地なんだそう。


通りにあるちょっとおしゃれな感じの建物は・・
*旧つたや旅館 平成5年まで旅館として利用されていたそうだ。
木造3階建ての歴史的建造物   
リノベーションしてゲストハウス「ランプの宿」になっている。


町並みに戻る。家の間に「しめ縄」が掛けてある。
(他にも同じようなところがあった)
何やろう? 2階の窓辺にいたおじさんに聞こうと声をかけた。
おじさんは「ちょっと入っていき」と言って下りてきた。
「コーヒー飲んでいき」(方言だったようだが・・)
ちょっとだけ・・と家に上がらせてもらうことに。

「インスタントやけど」と出してくださったコーヒーをおよばれ。
部屋の壁には大きい魚と一緒に写った写真など・・
おじさんはウニ漁師だそうだ。


ウニは潜って獲るのではなく、浅い海で箱眼鏡で見て獲るそうだ。


ウニをひっかける道具。
この土間はウニの作業場だそう。ここで獲ってきたウニを割ったりするらしい。
4月から10月ぐらいまでがウニのシーズン。残念!ちょっと遅かった。
話の中で埋め立てのこともわかり、お礼を言っておいとまする。

そして、しめ縄のかかった細い道を登ると・・


右手に琴平公民館 その横に「金刀比羅宮」の鳥居
そこを登っていくと「金刀比羅宮」の社があった。


高台の「金刀比羅宮」から湾のながめ。

鳥居まで下って、さらに上に登れば・・
頂上を少し向こう側に下ったところ左側に「地蔵堂」がある。
杖を突いて買い物帰りらしいおばあさんが地蔵堂の扉を開けてくださった。
上り下りの多い島の暮らしはお年寄りには大変そう。

・・とういうことで、家の間の細道に掛かっていたしめ縄は、神社のある場所を示したものだった。

町歩きの中でも神社はいっぱいあった。
案内書によると「神社の密度は世界一多い」のだとか。
 

大久保本店(元海産物問屋)
築後140年以上になる古民家は、最近までカフェになっていたようだが、表に「閉店のお知らせ」が貼ってあった。
表には「ばったり床几」もあった。
写真は家の横側。斜めに張り出した窓が面白い。

 
田間川尻公民館 中に「毘沙門堂」があるらしい。
壱岐では、他にも公民館にお祀りしているところが多いように思った。 
公民館の下には地蔵堂。 お堂の向かって左に「6面地蔵」があるのに娘が気付いた。


一岐風本浦(いき かざもとうら=勝本浦)「朝鮮通信使迎接所ノ図」
勝本浦のこの通りは、朝鮮通信使の接待所が設けられていた大事な場所だったようだ。


町並みの端にある「聖母宮(しょうもぐう))
この西門(表門)と社寺廻りの石垣は豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に加藤清正が寄進したもの。
門に社名もなくて、よくわからないまま写真を撮って帰った。
『本殿は、18世紀中葉に遡る建築年代は県内の神社本殿では最古に近い。極彩色や彫刻が施されている』ことを後で知る。(後の祭り)
周りを囲む石垣は見た。

海の近くに出る。


イカ釣り船がたくさん停泊していた。ランプの形もいろいろ。


鯨供養塔

駐車場近くのカフェ「酒造喫茶 との」


「殿川酒造場」(酒造喫茶 との)の町側の玄関
築150年の酒造場は改修して「酒造喫茶 との」になっている。

お昼を食べようと駐車場側から店内に入った。


すごい!大きい梁が眼に入る。


2階へ自由に上っていいとのことなので「壱岐カレー」を注文しておいて、階段を上る。


2階 広~い。


下から見た梁も凄かったけれど・・縦に貫く長~い梁にビックリ。
端から端まで長すぎて写真に撮れない。
手すりの左側の天井は抜いて吹き抜けになっている。
(下に客席がある)落ち着いて居心地がよかった。

他にもたくさんの建物や小さいお堂や神社などを見た。


町の中の建物に絡みついていたオオイタビ。
いたるところにオオイタビがはびこっている。
ここには「果のう」が出来ていた。雄のように見える。
落ちているのをいくつか拾って帰った。(詳細は後に)


ここには書かなかったが「月日大明神」のそばに実をつけていたのは「オオムラサキシキブ」じゃないかな?
ハマビワやシロダモなどはあちこちで見た。
                      2日目の②へ続く。

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