楽しみにしていた会。霧雨の中集合駅まで行ったが、午前中の降水確率70%。誰も来ない可能性が高い・・
せっかく出てきたので、1人で吉野あたりでもぶらつこうか・・降りた電車に又乗り込んだ。
知ってる人が乗っていて、福神駅からフリーハイキングがあるよという。じゃあそっちにと急きょ決定。
地図をもらって出発した。雨は霧雨程度でたいしたことはないが、少し肌寒い。
橿原では見かけないセンダングサがここには多い。 右はコセンダングサでいいのかアイノコセンダングサと言うか。
薬水八幡神社の近く、民家の横の「薬水大師堂」裏手に「弘法の井戸」と言われる井戸が。この井戸が「薬水」という地名の元になったところ。柄杓が置いてあってお水を一口いただいた。
レンガ造りの眼鏡橋「薬水門」1つは道路が通り、もう一つは用水路が通っている。
右)のトンネルの壁に明治45年に鉄道敷設工事が行われた頃の写真が貼ってあった。工事に携わる人が和服姿だ。
吉野軽便鉄道は吉野鉄道となり、今は近鉄吉野線となっている。
畦のヒガンバナも満開 コンクリートの歩道の隙間のクルマバザクロソウ
「水泥北古墳」は民家の敷地内にある。立派なお屋敷の裏手に案内された。
両袖型の横穴式石室 石棺などは残っていないが6世紀中ごろの築造だとか。
前にも1回入れて頂いたことがあるが、今日は町と共催のようなハイキングで又見学できた。
ここからすぐ近くにあるのが「水泥南古墳」 中を覗くと奥と手前に1基ずつ家形石棺が並んでいた。
南北合わせて国の史跡に指定されている。
途中曽我川を渡る。龍門山地を源流に、この辺りを通り、北へと流れ、家の近くを通って下流で葛城川・高田川を合わせて北流し大和側へと注ぐ。
「(右)かうや(高野) (左)大峯」と書かれた道しるべが残っていた。
「眼鏡橋」・「道しるべ」のことを教えてやろうと帰ってから子供に地図を見せたら「眼鏡橋」行ってきたか?
道しるべは中街道・下市街道と交わる所に立っていて交通の要衝だったことや、曽我川のことや鉄道のことなど反対に教えてもらうことになった。
板作りの階段を登ったところに「保久良古墳」があった。聞いたことがないなあと思っていたら。今年6月に発掘されたばかりという。中を覗けば向こう側に抜ける灯りが見えた。
上にも登れるというので後で登ってみたら果樹園の中に小さい口が開いていた。
飛鳥時代の女帝、斉明天皇が可愛がっていた孫(中大兄皇子と越智娘の子)「健王」(8歳で亡くなった)の もがり塚(遺体の仮安置場所)と伝わっているそうだ。
そばの民家の庭先に発掘した時の様子の写真パネルが展示されていた。今日は学芸員さんの説明付きだ。
調査の結果7世紀前半の円墳とわかった。石棺の破片らしい石や鉄の釘、琥珀玉も1つ出土したそうだ。
古墳の外側の列石、琥珀玉の出土など吉野地方では他に例がないらしい。
そこで健王の創作ファンタジーの物語「かぜの子たけちゃん」を朗読をされていた。健王の気持ちになり、地元の人の愛情も感じるすばらしい朗読だった。
坂合黒彦の墓などを見た後、天狗山泉徳寺へ。ここは役の行者創建の今木寺(廃寺)の子院だったらしい。
そばの「今木権現堂」へ。初めて来た。
権現堂への階段前に1対の石灯籠がある。普通は神社にあるものだ。 今木地区の神仏習合の名残を示す貴重なものらしい。
風情のある階段を上がると「仁王門」木造の金剛力士像は江戸時代初期のもの。
更に石段を上がったところにお堂があったが、そのそばの石仏群(写真右)が珍しかった。
途中の田んぼの縁にヒロハスズメノトウガラシの群生。 右)オモダカの花
その後、途中の公民館でお弁当を食べて、駅まで戻る。
途中まで一緒になったり離れたりしていた人とも途中で離れてしまったが、昼前から雨もやみ、「保久良古墳」「今木権現堂」など珍しい所を歩けてコース変更は正解だった。
サネカズラ雄花 エアポテト(巨大ムカゴ)
せっかく出てきたので、1人で吉野あたりでもぶらつこうか・・降りた電車に又乗り込んだ。
知ってる人が乗っていて、福神駅からフリーハイキングがあるよという。じゃあそっちにと急きょ決定。
地図をもらって出発した。雨は霧雨程度でたいしたことはないが、少し肌寒い。
橿原では見かけないセンダングサがここには多い。 右はコセンダングサでいいのかアイノコセンダングサと言うか。
薬水八幡神社の近く、民家の横の「薬水大師堂」裏手に「弘法の井戸」と言われる井戸が。この井戸が「薬水」という地名の元になったところ。柄杓が置いてあってお水を一口いただいた。
レンガ造りの眼鏡橋「薬水門」1つは道路が通り、もう一つは用水路が通っている。
右)のトンネルの壁に明治45年に鉄道敷設工事が行われた頃の写真が貼ってあった。工事に携わる人が和服姿だ。
吉野軽便鉄道は吉野鉄道となり、今は近鉄吉野線となっている。
畦のヒガンバナも満開 コンクリートの歩道の隙間のクルマバザクロソウ
「水泥北古墳」は民家の敷地内にある。立派なお屋敷の裏手に案内された。
両袖型の横穴式石室 石棺などは残っていないが6世紀中ごろの築造だとか。
前にも1回入れて頂いたことがあるが、今日は町と共催のようなハイキングで又見学できた。
ここからすぐ近くにあるのが「水泥南古墳」 中を覗くと奥と手前に1基ずつ家形石棺が並んでいた。
南北合わせて国の史跡に指定されている。
途中曽我川を渡る。龍門山地を源流に、この辺りを通り、北へと流れ、家の近くを通って下流で葛城川・高田川を合わせて北流し大和側へと注ぐ。
「(右)かうや(高野) (左)大峯」と書かれた道しるべが残っていた。
「眼鏡橋」・「道しるべ」のことを教えてやろうと帰ってから子供に地図を見せたら「眼鏡橋」行ってきたか?
道しるべは中街道・下市街道と交わる所に立っていて交通の要衝だったことや、曽我川のことや鉄道のことなど反対に教えてもらうことになった。
板作りの階段を登ったところに「保久良古墳」があった。聞いたことがないなあと思っていたら。今年6月に発掘されたばかりという。中を覗けば向こう側に抜ける灯りが見えた。
上にも登れるというので後で登ってみたら果樹園の中に小さい口が開いていた。
飛鳥時代の女帝、斉明天皇が可愛がっていた孫(中大兄皇子と越智娘の子)「健王」(8歳で亡くなった)の もがり塚(遺体の仮安置場所)と伝わっているそうだ。
そばの民家の庭先に発掘した時の様子の写真パネルが展示されていた。今日は学芸員さんの説明付きだ。
調査の結果7世紀前半の円墳とわかった。石棺の破片らしい石や鉄の釘、琥珀玉も1つ出土したそうだ。
古墳の外側の列石、琥珀玉の出土など吉野地方では他に例がないらしい。
そこで健王の創作ファンタジーの物語「かぜの子たけちゃん」を朗読をされていた。健王の気持ちになり、地元の人の愛情も感じるすばらしい朗読だった。
坂合黒彦の墓などを見た後、天狗山泉徳寺へ。ここは役の行者創建の今木寺(廃寺)の子院だったらしい。
そばの「今木権現堂」へ。初めて来た。
権現堂への階段前に1対の石灯籠がある。普通は神社にあるものだ。 今木地区の神仏習合の名残を示す貴重なものらしい。
風情のある階段を上がると「仁王門」木造の金剛力士像は江戸時代初期のもの。
更に石段を上がったところにお堂があったが、そのそばの石仏群(写真右)が珍しかった。
途中の田んぼの縁にヒロハスズメノトウガラシの群生。 右)オモダカの花
その後、途中の公民館でお弁当を食べて、駅まで戻る。
途中まで一緒になったり離れたりしていた人とも途中で離れてしまったが、昼前から雨もやみ、「保久良古墳」「今木権現堂」など珍しい所を歩けてコース変更は正解だった。
サネカズラ雄花 エアポテト(巨大ムカゴ)
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