ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

『アメリカン・グラフィティ』をしばらくぶりに見て

2011-10-11 05:31:16 | 映画


午前十時の映画祭」で、『アメリカン・グラフィティ』を見ました。この映画自体は何回も見ていますが、映画館で見たのは(たぶん)2回目です。

なお、以下すべてネタばれですので、ご承知の上お読みになってください。映画評でなく、この映画について想うところを書いていきます。

で、このブログの読者の多くはたぶんこの映画は見ていると思いますけど、いちおうこの映画についての特徴をあげてみますと…。

①特定の主人公がいない→リチャード・ドレイファスが主人公ではありますが、しかし決定的な主人公ではありません。個人的な意見では、どうも映画の製作者たち(ジョージ・ルーカスフランシス・フォード・コッポラら)は、むしろジョン役のポール・ルマットに強い期待をしていたように思います。基本的に彼の出演シーンはかっこいいシーンばかりです。



左がポール・ルマット、真ん中の女性がシンディ・ウィリアムズ。そうは見えないでしょうけど、彼女は撮影時25歳くらいです。

が、けっきょくルマットは、この映画が最高の代表作になってしまいました。あまり成功した俳優人生とはいえません。元ボクサーで、アクションシーンも決まっていたのですけどね。



②特定のストーリーがない→この映画は、基本的にある日の夕方から翌日の(たぶん)朝、すくなくとも午前中が舞台です。ほとんどのシーンが夜で(一部「アメリカの夜」を使ったかなと思われるシーンもありました)、最初から最後までたぶん十数時間しかありません。その時間で4人の若者たちとその周辺の人々のさまざまな行動をある意味落書き(グラフィティ)のようにせっせとつづった映画です。

③ラストで、主人公たちのその後を説明している→これは『フレンチ・コネクション』ですでにされていますが、『フレンチ・コネクション』が実話をもとにしたフィクションであるのにたいして(映画には、エディ・イーガンなどほんとの事件の捜査をした警官たちが登場します)、完全なフィクションである映画でも「その後」を映画に出すというのはなかなか斬新だったかなと思います。このあと『アニマル・ハウス』などでも使われました。

それはそうと、この映画は1973年の発表で実際の撮影は1972年にされています。そして舞台は1962年ですから、実はせいぜい10年前の話でしかないんですね。映画の登場人物たちにしても、1945年生まれのルマットや47年生まれのドレイファスなどはバリバリの現役の時代だったわけで、そう考えるとそんなに彼らも違和感なく演じていたのかなという気もします。



左からロン・ハワード(映画では「ロニー・ハワード」。彼はこの当時はもっぱら「ロニー」を名乗っていました)、キャンディ・クラークチャールズ・マーティン・スミスです。

で、個人的にいろいろ印象的なところを書いてみますと…

①女の子がみんなスカートをはいている→最近のパンツ系が多くなった時代からすると、違和感を感じるくらいみーんなスカートですね。そういう時代だったんでしょう。そして、スカートがみんなひざ下です。ルマットが車に乗せる女の子がジーンズだったのは、やはり何かの意味があるんでしょうね。

②みんな飲酒運転してるじゃん→今はともかく昔はそんなもんだったんでしょうが、チャールズ・マーティン・スミスなんか大丈夫かよとい感じの飲酒運転ぶりです。今では考えにくいですね。

③作品とは直接関係ないんですが、私が見たものは字幕を戸田奈津子が担当していまして(あるいは今回の上映にあわせて? もしくはソフト発売時に字幕を再制作したのでしょう)、見ていると「mother」とか「father」とかいうセリフでもけっこう「ママ」「パパ」と訳していますね。これ、「母」とか「お母さん」て訳すほうがニュアンスとしてもいいんじゃないかと思うんですが、でもたぶん世間は「ママ」「パパ」という呼び方に私ほどは違和感を感じないんでしょうね(笑)。もちろん字数の問題もあるでしょう。もっともこの映画ではありませんが、成人男性が「ママ」「パパ」と親を呼ぶのは(映画では「mother」「father」なのに)どうもなあという気がします。



で、ポール・ルマットを挑発してカーレースを挑む青年をハリソン・フォードが演じています。これは、映画雑学のイロハですから皆さんご存知でしょうね。



結果は、フォードの惨敗ですが、ルマットは「自分が負けていた」みたいなことを語ります。あるいは、こんなこといつまでもやっていられないな…という自分の明日も考えていたのかもしれません。



ラスト、大学へ進学するため東部へ向かうリチャード・ドレイファスの主人公が、離陸する飛行機から地上を見ますと、彼があこがれていた女性が運転する白いサンダーバードが走っています。もう彼は、彼女に声をかけることも何もできません。主人公にとっても、青春の一つの段落の終わりを感じた瞬間です。もちろん私は、ラストも全部知っていますが、今回もこれを見てけっこうしんみりしました。それだけ優れた映画だということです。

ある意味『アメリカン・グラフィティ』は青春映画の一つの形を作ったと思います。極端にいえば、この映画以降の青春映画は、すべてこの映画の影響から抜けられないかも。未見の方は(あ、でもそれならこの記事読む前に見てほしかったな)ぜひ見ていただきたいと思います。損はしないよ。
コメント (2)
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ミャンマーの旅 2011年 夏 (24)

2011-10-11 05:20:43 | 旅(ミャンマー)



この女性は、現地の方だったらかなり裕福でしょうね。



これもたぶん日本で活躍したバスでしょう。



売れているんですかね。





なかなかきれいな女性がトウモロコシを売っていました。



市場には服がずらりとつるされていました。



子どもたちの僧侶です。









こういったところで何か食べてもよかったな。



(つづく)

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