ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

沖縄県最後の官選知事である島田叡は、第32軍司令官牛島満らの推薦で知事になった?

2024-06-10 00:00:00 | 社会時評

bogus-simotukareさんのブログを読んでいまして、次の記事を知りました。なお「嶋田」は元サイトのままです。

嶋田叡知事は沖縄戦での「恩人」か?(上) | OKIRON

筆者(伊佐眞一氏)は、沖縄戦の最中の沖縄県知事(最後の「官選知事」となります)で、現地で死んだ(自ら命を絶ったか事故死か銃や砲弾に倒れたかは不明。遺体も未発見)島田叡がなにかと高評価であることの理由として、以下を指摘しています。なお「荒井退造」とは、島田とともに消息を絶った当時の沖縄県警察部長です。Wikipediaをかりれば、

栃木県芳賀郡清原村(現在の宇都宮市上籠谷町)に農家の次男として出生[1][2]鐺山尋常小学校清原尋常高等小学校栃木県立宇都宮中学校と進み、その後上京し高千穂高等商業学校(現高千穂大学)に進学した後、巡査をしながら明治大学夜間部を卒業、1927年高等試験に合格、同年内務省に入省した苦学力行の人物

という人物です。1900年生まれで、島田より1歳年上ですが、役人になったのが遅かったので、島田の部下ということになります。


嶋田叡や荒井退造が、「恩人」「島守」といわれる理由は、大きく3つあると思います。1つは「沖縄の住民を安全な場所に疎開させた」ということ。


2つ目が食糧についてです。沖縄戦が目前に迫る中で、台湾から米を持ってきて沖縄住民を飢えから救ったというわけです。「結局米は届かなかった」ともいわれてきましたが、積み下ろしの作業に当たった人たちの証言によると、45年3月の慶良間諸島への米軍上陸の約1か月前に那覇港に、そして3月下旬には名護に届いていたようです。


3つ目は、前任の泉いずみ守しゅ紀き知事との比較ということがあると思います。泉知事は「仕事ができなかった」「十・十空襲のときには中部に逃げた」「沖縄戦で死ぬのがこわいと東京出張に行って、そのままほかの県に異動になった」ということで、「逃げた知事」といわれてきました。嶋田さんはこの泉知事とは対照的に、毅然と死を覚悟して沖縄に乗り込んできて、粉骨砕身、沖縄のために一身を捧げた立派な知事というわけです。

これら3つについて伊佐氏は1つ1つ反論しています。それらは直接伊佐氏の記事をご確認ください。泉守紀前知事に関しては、私もかつて記事を書いたことがあります。

島田叡沖縄県知事の前任者である泉守紀についての本を読んでみたい

その記事で紹介した『汚名―第二十六代沖縄県知事 泉守紀』は私も読みました。非常に面白い本でしたので読者の皆さまもぜひお読みになってください。ただなかなかこれだけで「そうか、泉氏は過小評価され、島田は過大評価されているんだな」と一刀両断に言えるわけでもありませんが、泉について伊佐氏は


 泉さんは「逃げた」と一部では言われているけれども、ここでよく考えてほしい点は、日本の統治機構のなかで、官庁の中の官庁と言われていた内務省のことです。これは明治の初期、大久保利通の頃からですが、内務省の官僚は自分たちが日本をリードしているというエリート意識が非常に強かった。

ですから、まがりなりにも噂や風説ならともかく、実際に逃げたような行動があったと認められる者を他県の知事に、勅任官として転任させることは決してありません。泉さんは1944年12月、東京に正規の出張をして予算折衝等の仕事をしており、かりにその機会を利用して他県への転任活動をしたとしても、それが「職務放棄」とか「敵前逃亡」でないかぎり問題はなかったでしょう。

意気地がなかったとかの風評はあったにしても、特別問題にもならなかったので、翌年1月に香川県転任となったのです。逃げたという「事実」がはっきりすれば、文官懲戒令の対象になります。内務省が転任を発令したということはそういうことです。この点をきちんと押さえておいてほしいと思います。

なお、泉知事は、沖縄県の意見や要望が第32軍によって軽視されているということで、沖縄の政治大権をもつ知事として大いに不満をもち、ときには抵抗もしていたようで、軍にとっては思うようにならない非常にやっかいな知事であったことは確かです。泉さん個人にも多少は問題があったでしょうが、私にいわせれば、それは好悪の範疇に入るものが多かったという気がしますね。

と評されています。このあたりの伊佐氏の評価については、よろしければ上の本などもお読みいただいたうえで、読者の皆さまも各々お考えになっていただければ幸いです。

それで私がこの記事を読んで「へえ」と思ったのがこちら。いや、もしかしたらそんなことは「常識」の範疇かもしれませんが、私は知らなかったので、ぜひ読者の皆さまにも情報提供したいと思ったわけです。


泉知事のあと、すぐ嶋田に決まったわけではなく、中野好夫によると2、3人断られたあと、ならば嶋田はどうかとサジェッションをしたのが第32軍の牛島だったらしいのです。彼らはそれ以前に中国戦線で知り合っており、互いの仕事をよく熟知していたことが大きく影響した。

中野好夫は、島田と旧制第三高等学校時代の野球部の先輩(島田)・後輩(中野)であり、大学も法学部と文学部のちがいはありますが、同じ東京帝国大学です。中野には、1961年に出版した『最後の沖縄県知事』という著作もあります。で、中野がこういうことでそんなに無責任な発言をするとは考えにくいので、そういうことはあったのだろうなと私は思います。

島田は内務省に採用されたあと本省でなく地方回りをしていて、上海で勤務していた時期もありました。この時牛島満とも面識ができたらしい。さらにWikipediaには、

沖縄駐留の第32軍の参謀長長勇とは上海事変のときから懇意にしており

とありまして、つまりは第32軍のトップとNo.2と人間関係があったわけで、島田のWikipediaにある

現地に赴任するに至った背景には、佐賀県警察部長在任中、旧佐賀城西濠端にある龍泰寺で開かれていた「西濠書院」という勉強会に参加したことがきっかけとされる。島田は、その書院を主宰していた住職・佐々木雄堂に出会い、『葉隠』と『南洲翁遺訓』について学び、その思想に深く感銘を受けたとされる。後に、佐々木は沖縄に赴任する島田に対し、葉隠と南洲遺訓の2冊を贈り、島田はこの2冊を携えて「敢然と沖縄に赴任する」旨を佐々木に書き送っている。

なんていうまだるっこしい話ではなく、ずばり見込まれたということなのでしょうね。なお島田のWikipediaには、長勇と人間関係があったという話は上に引用したように明記されてていますが、牛島については書かれていません(2024年6月9日現在)。

泉知事の次の沖縄県知事は、沖縄に着任すると米軍の上陸が予想され非常に危険なので、みなこわいので逃げまくったのですが、上のような事情があるのであれば、打診を受けた島田に沖縄県知事を断る選択肢はなかった、あるいは非常に断りにくかったのでしょうね。職務としてなら断る余地はあっても、人間関係でからめとられると、断るのは相当に難しくなるでしょう。ご当人いろいろな考えはあったでしょうが、いずれにせよそうであるなら確かに気の毒なところはあります。ただそういった部分は、島田が知事としてしでかしたよろしからぬ行為を免責するものでもないでしょう。これは、やはり内地からの高等文官だった荒井もそうですが、特に島田に関しては、ドキュメンタリー映画『生きろ 島田叡-戦中最後の沖縄県知事』(佐古忠彦監督 2021年)や『島守の塔』(五十嵐匠監督 2022年)などが製作されたりと、どうも美化の傾向が強いと思われます。で、この状況に異を唱える本が出版されました。今年の4月28日の発売とのこと。

沖縄県知事 島田叡と沖縄戦

著者は、沖縄史の研究者である川満彰氏と林博史関東学院大学名誉教授(今年3月に退職、退職後の最初の著書です)です。林氏のHPから引用しますと、


ご存知のように、沖縄戦のときの県知事島田叡が、「命どぅ宝」と訴え続けたという根拠のない話が、2本の映画となっています。すでに歴史の歪曲をおこなってきた育鵬社が中学校歴史教科書にその話を載せていましたが、この4月からは小学校社会の教科書にも載せられるようになりました。
 こうした歴史の歪曲が、右翼/極右によってなされているのではなく、沖縄の琉球新報と沖縄タイムス、沖縄の3つのテレビ局・2つのラジオ局というように沖縄のほぼすべての主要メディアが加担しているだけでなく、毎日新聞、中日新聞(東京新聞も含む)、神奈川新聞、北海道新聞、中国新聞、神戸新聞、下野新聞など多くのマスコミがこの企てに加担していることにこの問題の特徴があります(これらのメディアの名前は、映画『島守の塔』公式ウェブサイトより抜粋。なお仕掛けたのはTBSですが)。これによって沖縄戦の平和教育の変質も始まっています。
 沖縄のなかではこうした歪曲した映画に対する批判・違和感は強いのですが、主要メディアがすべて加担している翼賛体制の状況にあり、きちんとした批判がなされないままに来ています。この点は本土でも同じで、こうした歪曲を批判すべきメディアが共犯者になってしまっています。
 そこで沖縄戦研究の第1線で論陣を張っている川満彰さんと二人で、沖縄戦(その準備過程も含めて)のときに島田知事や荒井警察部長が何を語り、何をおこなったのか、歴史の事実に基づいて検証する本を出すことにしました。これまで美化されてきた彼らの実像がよくわかるように、くわしい資料編も付けており、事実に基づいて議論できる材料を揃えた本にしています(ほとんど知られていないような資料もいろいろ収録しています)。

とあります。これは読まないわけにはいきません。というわけで、さっそくAmazonで注文しました。本日(2024年6月10日)に入手できます。非常に楽しみです。

いずれにせよ本土人である人物(佐古忠彦氏や五十嵐匠氏ら)が本土人を本土側の視点でとらえて、「やあ島田さんは人格者で沖縄のために働いた」なんてほざいて本土人もそれを見て聞いて満足しているようでは、やっぱり進歩がありません。同じ本土人でも、林博史氏のような人物こそが、私たちが参考にすべきだと思います。本土人の私はそう思います。


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