ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

これも「オーラル・ヒストリー」のひとつでんな(日野原重明氏)(8月26日午前0時ごろ発表)

2024-09-04 00:00:00 | 社会時評

過日このような記事を書きました。

オーラル・ヒストリーの重要性と「やっぱり時間が経たないと証言がでてこないな」ということを痛感する

で、本日は、その件とかかわる新聞記事をご紹介。


日野原重明さんが731部隊語った映像初公開へ…京都帝大時代に部隊長から講義、記録映画も視聴
2024/08/16 15:30

 2017年に105歳で亡くなるまで“生涯現役”を貫いた医師の日野原重明さんが、自身の戦争体験を語った未公開映像が、この秋初めて世に出される。京都帝国大医学部に在学中、旧日本軍731部隊が中国人捕虜に人体実験を行う記録映画を授業で見させられたことなどを証言しており、撮影した映像プロデューサーの早乙女愛さん(52)は「日野原先生が体験した戦争を多くの人に知ってもらいたい」と語る。(大前勇)

「戦争はどこの国の人も鬼にするんですよ」

 戦時中の満州(現中国東北部)を拠点に、細菌兵器の研究・開発に従事した731部隊。映像で日野原さんは、京都帝大出身の細菌学者で、部隊長だった石井四郎の講義を受け、旧日本軍が中国で行った残虐行為や捕虜をコレラやチフスなどの細菌に感染させる実験の映像フィルムを視聴させられたと明かし、「ひどかった」と振り返った。同大の学生の中には、後に部隊の研究に協力した者が大勢いたとも語っている。

 映像は日野原さんが90歳代後半だった08~09年に撮影された。東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区)を訪れ、当時の館長で早乙女さんの父・勝元さん(22年に死去)と一緒に展示を見て回る様子などが収録されている。

 日野原さんは、1945年3月の東京大空襲の際、聖路加国際病院(中央区)で数百人もの負傷者の治療にあたった。映像では当時を振り返り、その時の教訓を生かして95年に地下鉄サリン事件の救急治療の陣頭指揮を執った経験を語るインタビューも収められている。センターの視察を終え、戦争の悲惨さをかみしめるように述懐する中で語り出したのが、731部隊に関する記憶だった。

早乙女さんは、生前の日野原さんから映像公開の許可をもらっていたが、タイミングに恵まれず、手元で保管していた。日野原さんが結成した元気な高齢者が集う「新老人の会」(東京)から、イベントでの講演を依頼され、「日野原先生ゆかりの団体のイベントで世に出すことが一番いいのではないか」と映像を初公開することを決めた。

 早乙女さんは「ロシアのウクライナ侵略などで平和が脅かされている今だからこそ、日野原先生が戦争で何を感じ、どのように命と向き合ったのかを伝えたい」と話している。

(中略)

「忘れてはいけないことだ」
 京都帝大と731部隊の関係を調べている京都保健会理事長の吉中丈志さん(71)によると、部隊には同大出身の医師が数多く加わっていたが、その大半は戦後、口を閉ざし、何も語ることはなかった。

 吉中さんは、生前の日野原さんと交流があり、日野原さんが石井の講義について語っていたのを覚えているという。石井が他大学で軍での活動について講義をしていたことは分かっていたが、京都帝大でも実施していたことは日野原さんの証言で初めて判明した。「学生を部隊に勧誘するために講義をしていたのではないか。日野原先生が話してくれたことで、こうした石井の動きが分かった」という。

 日野原さんは吉中さんに731部隊について「忘れてはいけないことだ」とも話しており、「日野原先生には、部隊と“接点”を持ってしまった以上、その人道に反する行いを後世に伝えなければいけないという強い思いがあったのだろう」とみている。

日野原重明氏は、旧制三校を経て1932年に京都帝国大学医学部に入学し、途中体調を崩して休学しながら1937年に卒業しました。となると彼が、ことによったら731部隊に参加する可能性も、ありえなくはなかったわけです。上の記事にもあるように、トップの石井四郎が京都大学出身者だったこともあり、Wikipediaから引用すれば、

京都帝大医学部からは、助教授や講師級の若い優秀な研究者が派遣され、石川太刀雄丸(病理学)、岡本耕造解剖学)、田部井和チフス研究)、湊正男コレラ研究)、吉村寿人凍傷研究)、笠原四郎ウイルス研究)、二木秀雄(結核研究)、貴宝院秋夫天然痘研究)、などが石井の元に集められた

ということになったわけです。で、日本敗戦の後、

戦後、部隊に所属していた医師たちは、アメリカに研究資料などを提供する見返りとして、戦犯免責を受けた。また、元隊員の越定男によると、隊員たちは、「郷里に帰ったのちも、七三一に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと」「あらゆる公職には就かぬこと」「隊員相互の連絡は厳禁する」ことを申し渡された

ということになり(注釈の番号は削除)、当たり前ですが、人体実験ですからご当人らにとっても黒歴史であり、当然自分たちの過去はほじくり返されたくないものでした。そう考えれば、日野原氏も、専攻次第でことによったらリクルートされた可能性もあったわけです。そうなると満洲に彼が渡ったことも空想次元でありえないことではない。彼がそうしていれば、彼もさすがに文化勲章なんぞを受賞するなどということにはならなかったはず。

で、こういった話を、記録して後世に伝えるということもやっぱり「オーラル・ヒストリー」の強みであると私は考えるわけです。日野原氏が、こういった話を彼自身の著作などで公表しなかったのかは当方の知るところではありませんが、ともかく記録されれば、それらは後の世に伝わります。彼自身にとっても、京都大学での同窓たち(ちなみに当時の京都帝国大学医学部には、ハンセン病の研究をしていた小笠原登が在籍していました。1941年から48年まで助教授)が大勢731部隊に参加したことは、ひどい黒歴史だと考えていたはず。なお上の引用に名前がない人では、たとえば内藤良一が京都帝国大学出身者の大物です。彼も731部隊の人体実験にかかわっていた模様。、敗戦後、日本ブラッドバンク(後のミドリ十字)を創業している大変なやり手でした。ミドリ十字のWikipediaには、

内藤は医師(元軍医・陸軍軍医中佐)であり、旧日本軍731部隊を取り仕切っていた石井四郎軍医中将の片腕の一人にあたる。また、顧問に就任した北野政次は731部隊長を務めており、取締役の二木秀雄は元731部隊二木班班長であるとともに右翼系政界誌「政界ジープ」の発行者である。

とあるくらいです。なお北野は、東京帝国大学出身。かの本多勝一氏も、『中国の旅』の取材後に、北野に取材をかけていますが、ご当人取材に応じず逃げちゃっています。さすがに公然と居直ったりはしなかったようです。

早乙女愛(なおことわるまでもないでしょうが、俳優(’女優)をしていた人とは別人です。念のため)さんがどういう事情で

タイミングに恵まれず、手元で保管していた。

のかは定かでありませんが、可能ならこういったことは最大限早く公表・発表してほしいですね。了解を得ずして公表するわけには当然いきませんが、OKをもらえればこれは早急に発表してほしい。やはりオーラルヒストリーというのも大きな財産であり、国民ばかりでなく世界中の共通の知見というものになるはず。話をしてくれるのは同時代を体験している人たちですが、それをいかに公表するかは後世の人間の仕事ということになるでしょう。なかなか同時代の人たちは、それらを明らかにすることが難しい場合があるでしょう。それらができるのは、後世の人間のほうがやりやすいはず。そういった財産を生かすも殺すも私たち次第だと思います。

コメント
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