今日(下のお断りをお読みください)は、選挙の告示日ですので選挙の話をするか、陸上競技の美女のことでも書こうと思っていたのですが、それどころではないニュースを知りましたのでそのことを記事にします。
金大中韓国元大統領がお亡くなりになりました。こちらの記事を参照してください。
<金大中元大統領逝去>衝撃と悲しみ、巷で相次ぐ哀悼の声
8月18日17時48分配信 聯合ニュース
【ソウル18日聯合ニュース】金大中(キム・デジュン)元大統領逝去のニュースに、全国は衝撃と悲しみに包まれた。
国民は金元大統領が成し遂げた民主化や南北関係改善など代表的な業績をたたえながら哀悼の意を示し、故盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領に続き1年に2人の前職大統領を失ったことを残念がった。
パク・ミンソンさん(29)は、「命をかけて民主化運動を進めたことが最大の業績。それがなければ今ほどの民主化はなかっただろう」と評価した。国際通貨基金(IMF)管理体制以降、批判する部分もあるが危機脱却に見せたリーダーシップは褒められてしかるべきだとしながら逝去を悼んだ。
チョン・ヨンドゥクさん(52)も、「金元大統領は存在自体に象徴的な意味があった。病床にいながらも人々の見舞いを受け、許しを与え和解してから亡くなられた」と悲しみを口にした。ウィ・チョンホさん(29)は、最近は南北問題が騒がしく金元大統領が求心点になる必要があったが、今後は問題をどう解決すべきか分からないと述べた。
また、主婦のソン・ウンスクさん(49)は「90歳を超えて生きる人も多いが、金元大統領は若いころに拷問など多くの苦労を経験し、早く亡くなられたようで心が痛い」と心境を語っている。
インターネット上でもネットユーザーらの哀悼の声が相次いでいる。金元大統領の逝去速報記事には1時間で8000件を超えるコメントが書き込まれた。
氏が入院もしていてけっこう危険な状態であることは報道されていましたし、年齢も年齢だったので死亡も仕方ないところでしょうか。ご冥福をお祈りいたします。
氏は、日本語の教育を受けた世代でして、非公式のインタビューでは日本語で受け答えしていたみたいです。日本で韓国政府の情報機関に拉致されて、海で布団に巻かれて放り込まれる直前に(たぶん)米軍が介入して助かったりと、日本とも何かと縁の深い人でした。日韓ワールドカップのときは、韓国側の大統領として責任者も勤めましたし、北朝鮮の金正日総書記とも会談しました。
批判も多い人でしたが、いろいろな意味で大きな方だったかなと思います。
さて、本日は、私のささやかな想い出を書きたいと思います。特に何がどうしたということもないのですが、私にとっては忘れられない想い出ですので。
1997年11月16日、私は金氏をすぐ近くで目撃したのです。ソウルで。
そのときの韓国が、私の最初の韓国旅行でした。この時は、夜最後の朝一の便で行くという私の好きな「36時間未満の旅」でした。ただし自由旅行でなくパック旅行です。韓国にパックで行ったのは、この時が最初で最後です。友人G君と行きました。
この旅行の話もいろいろ面白いエピソードがあるのですが、これは今回の記事の趣旨と異なるため、別の機会にまわすとして、金大中氏との遭遇について記します。
ソウルでちょっと本や雑誌を漁ろうということになり、ソウルで最大の書店とされるところに連れと行きました。するとなにやらものすごい人ごみです。何がどうしたのかさっぱりわかりませんが、そうすると突然拍手が起こりました。何だと思うと、高齢の男性がサインを始めました。で、その人物を見て、私はさすがに目を疑いました。どう見ても金大中氏ではありませんか。
ちょうどその時、韓国の大統領選挙の直前だったわけで、おそらく選挙運動を兼ねたサイン会だったのだと思います。しかし、私はそんな情報をまったく知らなかったわけで、本当に驚きました。偶然というものはあるものです。
しかしやはり信じがたいところがあったので、近くにいた(当然ながら)見知らぬ男性に英語で
私「彼は金大中?」
と聞いたら、そうだと答えてくれました。もしかしたら彼は、私のことを米国に移民した韓国系(しかし韓国語は話せない)の人間と思ったかも。
その場で本を買って氏のサインをもらえればよかったのですが、その方法が分からないし写真も撮れなかったので、ここで紹介することはできません。しかし、うわ、おれすごい人を見たなとは思いました。
以下は全くの余談です。ちょうどその日の夜、安ホテルでサッカーのワールドカップ最終予選日本対イランの試合を、きわめて悪い画像状態で見ました。
最後に岡野がゴールした瞬間、隣の部屋から歓声が聞こえました。それにしもそんな声が簡単に聞こえるのですからひどい部屋です。
こんな話を書いていて、当時の韓国はまだ貧しい部分があったのだなと思いました。今では、どんな安い宿でも、テレビがよく見えないということは韓国ではないでしょう。
翌日朝、隣の部屋の人と「いやあ、よかったですね」などと話しながら金浦空港(でした、当時は)に向かいました。成田で新聞を見たら、北海道拓殖銀行破たんの記事を目にしました。山一証券が営業停止の記者会見をしたのは、その一週間後です。
お断り:この記事を更新したのは、8月18日の午後7時ですが、このブログは1日1記事を鉄則としていますので、便宜上19日の更新とします。ご了承ください。
金大中韓国元大統領がお亡くなりになりました。こちらの記事を参照してください。
<金大中元大統領逝去>衝撃と悲しみ、巷で相次ぐ哀悼の声
8月18日17時48分配信 聯合ニュース
【ソウル18日聯合ニュース】金大中(キム・デジュン)元大統領逝去のニュースに、全国は衝撃と悲しみに包まれた。
国民は金元大統領が成し遂げた民主化や南北関係改善など代表的な業績をたたえながら哀悼の意を示し、故盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領に続き1年に2人の前職大統領を失ったことを残念がった。
パク・ミンソンさん(29)は、「命をかけて民主化運動を進めたことが最大の業績。それがなければ今ほどの民主化はなかっただろう」と評価した。国際通貨基金(IMF)管理体制以降、批判する部分もあるが危機脱却に見せたリーダーシップは褒められてしかるべきだとしながら逝去を悼んだ。
チョン・ヨンドゥクさん(52)も、「金元大統領は存在自体に象徴的な意味があった。病床にいながらも人々の見舞いを受け、許しを与え和解してから亡くなられた」と悲しみを口にした。ウィ・チョンホさん(29)は、最近は南北問題が騒がしく金元大統領が求心点になる必要があったが、今後は問題をどう解決すべきか分からないと述べた。
また、主婦のソン・ウンスクさん(49)は「90歳を超えて生きる人も多いが、金元大統領は若いころに拷問など多くの苦労を経験し、早く亡くなられたようで心が痛い」と心境を語っている。
インターネット上でもネットユーザーらの哀悼の声が相次いでいる。金元大統領の逝去速報記事には1時間で8000件を超えるコメントが書き込まれた。
氏が入院もしていてけっこう危険な状態であることは報道されていましたし、年齢も年齢だったので死亡も仕方ないところでしょうか。ご冥福をお祈りいたします。
氏は、日本語の教育を受けた世代でして、非公式のインタビューでは日本語で受け答えしていたみたいです。日本で韓国政府の情報機関に拉致されて、海で布団に巻かれて放り込まれる直前に(たぶん)米軍が介入して助かったりと、日本とも何かと縁の深い人でした。日韓ワールドカップのときは、韓国側の大統領として責任者も勤めましたし、北朝鮮の金正日総書記とも会談しました。
批判も多い人でしたが、いろいろな意味で大きな方だったかなと思います。
さて、本日は、私のささやかな想い出を書きたいと思います。特に何がどうしたということもないのですが、私にとっては忘れられない想い出ですので。
1997年11月16日、私は金氏をすぐ近くで目撃したのです。ソウルで。
そのときの韓国が、私の最初の韓国旅行でした。この時は、夜最後の朝一の便で行くという私の好きな「36時間未満の旅」でした。ただし自由旅行でなくパック旅行です。韓国にパックで行ったのは、この時が最初で最後です。友人G君と行きました。
この旅行の話もいろいろ面白いエピソードがあるのですが、これは今回の記事の趣旨と異なるため、別の機会にまわすとして、金大中氏との遭遇について記します。
ソウルでちょっと本や雑誌を漁ろうということになり、ソウルで最大の書店とされるところに連れと行きました。するとなにやらものすごい人ごみです。何がどうしたのかさっぱりわかりませんが、そうすると突然拍手が起こりました。何だと思うと、高齢の男性がサインを始めました。で、その人物を見て、私はさすがに目を疑いました。どう見ても金大中氏ではありませんか。
ちょうどその時、韓国の大統領選挙の直前だったわけで、おそらく選挙運動を兼ねたサイン会だったのだと思います。しかし、私はそんな情報をまったく知らなかったわけで、本当に驚きました。偶然というものはあるものです。
しかしやはり信じがたいところがあったので、近くにいた(当然ながら)見知らぬ男性に英語で
私「彼は金大中?」
と聞いたら、そうだと答えてくれました。もしかしたら彼は、私のことを米国に移民した韓国系(しかし韓国語は話せない)の人間と思ったかも。
その場で本を買って氏のサインをもらえればよかったのですが、その方法が分からないし写真も撮れなかったので、ここで紹介することはできません。しかし、うわ、おれすごい人を見たなとは思いました。
以下は全くの余談です。ちょうどその日の夜、安ホテルでサッカーのワールドカップ最終予選日本対イランの試合を、きわめて悪い画像状態で見ました。
最後に岡野がゴールした瞬間、隣の部屋から歓声が聞こえました。それにしもそんな声が簡単に聞こえるのですからひどい部屋です。
こんな話を書いていて、当時の韓国はまだ貧しい部分があったのだなと思いました。今では、どんな安い宿でも、テレビがよく見えないということは韓国ではないでしょう。
翌日朝、隣の部屋の人と「いやあ、よかったですね」などと話しながら金浦空港(でした、当時は)に向かいました。成田で新聞を見たら、北海道拓殖銀行破たんの記事を目にしました。山一証券が営業停止の記者会見をしたのは、その一週間後です。
お断り:この記事を更新したのは、8月18日の午後7時ですが、このブログは1日1記事を鉄則としていますので、便宜上19日の更新とします。ご了承ください。