喧騒のこちらの世界 と 静寂のあちらの世界。
二つの世界を、歴然と区分けする・・・
『校門』
あちらの世界へ向かう私。 あちらの世界から出てくる生徒たち。
学問の聖域を守るために置かれた『校門』。
『主なる神は、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムときらめく剣の炎を置かれた。』
校門もケルビムも同じことですね。 創世記 3章24節
『命の木に至る道』 まだまだ続きます 『学問の聖域に至る道』
歩いて歩いて。 上って上って。 最後の階段を上ると・・・『教室』
学問は、命の道。 命へ至る道。 そう思う私です。
今日は木曜日。 今学期最後の授業です。
授業時間は1時間40分。 準備周到で奥深い授業は、瞬く間に過ぎてしまいます。
先生は、大学学長 で 牧師さんでもあります。
学長と牧師といえば、両職ともに、人格の問われる仕事ですよね。
実際には、頭が低く、まじめで、。。。。。。と。 謙遜のお見本の先生です。 聖域の人です。
こんな『言葉』を、今日、思い出していました。
『読書は学問の術なり、学問は事をなすの術なり。』
福沢諭吉:『学問のすすめ』
事をなすには、読書をすることが必須の条件。 ということですよね。
先生の姿を拝見しながら・・・事を成すには、謙遜が必須の条件。 とも思いました。
そして。
今日は15日。 年間第一木曜日。
『今日の福音』
『重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、
「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」 と言った。
イエスが深く憐れんで、
手を差し伸べてその人に触れ、 「よろしい。清くなれ」 と言われると、
たちまち重い皮膚病は立ち去り、その人は清くなった。』
マルコ福音書 1章40~42節
私は、こんな風に考えました。
イエスは、わたしたちの確信に合わせて働かれる方です。 ←確信している私です。
重い皮膚病の人は、
「イエスは病者を癒す人」 と。 確信がありました。
「自分の皮膚病が直ることが神の御心である」 との 確信はありませんでした。
確信と不確信の間で・・・
「もしも自分の皮膚病の完治が神の御心ならば、イエスは自分の皮膚病を必ず治す。」 との確信は、確実にありました。
その結果
重い皮膚病の人の祈りは、
「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」 となったのです。
『イエスへの、絶対なる確信 と 絶対なる信仰。』 に満ちた祈り。 となりました。
同様に。
今日の第一朗読。 『使徒・パウロの言葉』
『兄弟たち、
私たちは最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、
キリストに連なる者となるのです。』
ヘブライ人への手紙 3章12&14節
又。私は考えました。
イエスへの、最初に抱いた確信を、
最後までしっかりと持ち続ける。 それが信仰です。
『信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れることがないように注意しなさい。』 同12節
学問も信仰も、とても地味な作業です。
『学問は、読書を基礎とする、事をなすの術なり。』 福沢福沢諭吉
『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。』
ヘブライ人への手紙 11章1節
皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
お人への確信は、信頼が基礎かもしれませんね。 お人と心と心の交流で信頼をお互いに築いてまいりましょう!