港区まち創り研究会(まち研)ブログ

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一郎・と志 書簡集「馬橇の鈴の音」第1回

2014-08-17 15:28:44 | 一郎・と志書簡集から
父と母の書簡集「馬橇の鈴の音」から戦中・戦後の日本の混乱期の様子の一部をお伝えします。

はじめに
 母がなくなって、書斎の書類を整理していたら、文箱の奥に、おびただしい数の書簡がしまわれているのがみつかった。粗悪な紙に書かれた手紙と葉書は500通以上もあった。
その書簡は、戦中戦後の混乱期である昭和20年6月から昭和21年8月にかけて、父が東京にいて、母と子どもたちが青森県十日市(現在の八戸市郊外)に疎開していたとき、二人の間で交わされたものであることがわかった。
 そこには、この時期、生死をかけて生きていく二人の生活がありのままに書かれていた。
 東京の家が焼かれ、母は知人を頼って十日市にいったが、その知人はそこにいなくて、町の人に、頼み込んで屯所(今の公民館)に寝泊まりするようになった。
 母は普段はおとなしいやさしい性格であったが、追いつめられると開き直って強く他人と交渉し、公民館に泊まることができた。見ず知らずの他人に公民館を使わせた十日市の方々もやさしい人たちだったのであろう。
 一方、東京に残った父は四中の同期生の好意でその家に住まわせてもらっていたが、次第に住みづらくなり、六中時代の教え子の家の一室に下宿することになる。
 二人とも、寝泊まりする場所をやっと確保している状態で、物資も体力のゆとりのないこの時期、これほどの量の書簡を交換したのは、心の交流をいかに求めていたかを示している。
 500通以上の書簡の中から極一部を抜粋しこのブログに紹介したい。

終戦(母から父へ) 昭和20年8月16日 青森県十日市

 とうとう最後の所まで来てしまいました。田舎では予想もしていませんし、ラジオを聞いてもよくわからない人が多いのでみな気抜けしているみたいです。15日の夕方でも、まだ畳など疎開している人もあるし、防空帽子を大事にみな持っています。アメリカ兵が殺しにくると怖がっている人もおります。
 いろいろ困難は来るでしょうが、子どもも夫も無事で私は幸福だと思っています。どんな苦しい所でも切り抜けて遠い未来の希望に生きたいと思います。
 陛下のお心を思うと涙がこぼれます。いつかきっとかたきをうちましょう。
 これからどうしてよいかわかりません。お手紙でもお教えください。
 食糧だけでも集めた方がよいのではと思いますが、今人心が動いていてどうにもなりません。もう少し待ちましょう。5銭切手100枚買ったけどとにかく送ります。もうこれも用がないかもしれません。


 どんな時でも楽天的、前向きに考える母の性格がでています。終戦といっても、すぐに理解できない一般の人の様子が面白いです。かたきをうちましょうというのは直後の感想で、その後は母はずっと反戦の考えでした。
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2 コメント

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Unknown (正子)
2014-08-17 16:22:36
いつも優しい、おかおおもいだしますが、やはり凛とした、強い心をもっていらしたかたでしたのでしょうね、素晴らしい御両親さま、でしたね、
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Unknown (正子)
2014-08-19 18:11:13
歴史的大切な、資料のお手紙ですね。改めて、おどろきましたのは、外語大で、教鞭とられていた、お父様でさえ、戦争の本当の状況はつかめない、怖い時代だったとおもいました。未来の平和のため、私たちは、なにができるのかとおもいました。
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