港区まち創り研究会(まち研)ブログ

港区まち創り研究会の活動の状況やまちづくりについての様々な情報をお伝えします。
海外の街あるきの報告もあります。

高輪地区CCクラブ納涼交流会が開かれました

2014-08-29 11:20:16 | 高輪地区のできごと
8月28日、午後5時から東海大学高輪校舎地下食堂で、高輪地区CCクラブ納涼交流会が開かれました。
55名が参加しました。
米永さんのご挨拶と乾杯の発声の後、94才の石松勝さんのトークイベントがありました。
姿勢もきちんとして、しっかりした話しぶりでした。
健康法の話から入り、広島での被爆の体験談を語っていただきました。
被爆体験して、まだ存命の方は少なく、貴重な体験談でした。
核の廃絶を強く訴えていたのが印象に残りました。
続いて、雨宮さんの軽妙な手品で会場の雰囲気が一気に和らぎました。
続いて、東海大学エクステンション所長の福崎先生は柔らかい語り口で、大学と地域との交流・連携のお話でした。
大学の施設の利用は地域の方がきちんとした目的があれば、できる限り対応したいと開かれた大学を強調していました。
現在、進行中のプロジェクトとして、児童館の学童が大学生が一緒に遊んだり学んだりする場所を大学の中に確保したので、地域の方も参加して一緒に見守ってほしいという提案がありました。
高輪CCクラブのメンバーも積極的に協力したいですね。
最後は久津弘子さんと「うたつむぎ」のメンバーによる会場と一体となった合唱でした。
いわゆる小学唱歌でなく、みんなが歌える曲の選択が楽しさを増していました。
納涼交流会、堅苦しくなくアットホームな雰囲気で、みなさん楽しんだようでした。

石松さんのトークです

雨宮さんの手品、見ている方もみな楽しんでいました。

福崎先生の柔らかい語り口でのお話です

久津さんとうたつむぎのメンバーによる合唱です。会場が一気に盛り上がりました。


会場の雰囲気です。55名も参加しました。

会場の雰囲気です
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祝い!43万アクセスを突破しました!

2014-08-26 06:58:17 | 港区まち創り研究会
祝い!ブログ開設から1231日目で43万アクセスを突破しました!
現在、総アクセス数は430044、総訪問者数は149885人です。
ご高覧ありがとうございます。
これからも港区、まち創りの情報を発信してゆきます。
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泉岳寺横マンション建設反対について

2014-08-24 09:26:23 | 高輪地区のできごと
高輪泉岳寺の門の左に8階建てのワンルームマンションの建設が予定されている。
現在3階建ての住宅があるが、それが解体中でその後にマンションが建設される。
「国指定史跡 泉岳寺の歴史的文化財を守る会」が反対運動を行い、署名を集めている。
以下がこのホームページから転載されたものである。

あの忠臣蔵で有名な国指定史跡・泉岳寺の景観が壊されようとしています!
泉岳寺の歴史的価値を貶すマンション建設計画を、どうか変更してください。

港区高輪に建つ泉岳寺は、将軍家光の時代に今の高輪の地に移って以来、約400年間この地をずっと見守ってきたお寺です。歴史的には忠臣蔵の赤穂浪士のお墓があることで有名で、国指定史跡にもなっている港区の大切な文化財の一つです。

今、この歴史的文化財の横に8階建て(高さ24m弱)のマンションを建てる計画があります。
これは泉岳寺の歴史をおおいに変えてしまうことになります。

周辺住民として港区民として、国及び区の大切な文化財の隣にこのような建築物の建設計画には断固反対です。私たちは泉岳寺の歴史的文化財を景観から守るために、「国指定史跡・泉岳寺の歴史的文化財を守る会」を立ち上げました。
会のメンバー全員が初めてのことだらけなのですが、この活動をぜひ知って頂きたいと思い、ここに活動記録をご報告させて頂きます。

マンション建設による弊害とは?!
1. 教育的見地から
泉岳寺の景観を残していくということは、後世に歴史を伝えていくためにもとても大切なことです。門の横にお寺の空を隠してしまうようなマンションが建ってしまったら、歴史を伝えようにも、伝わるものは半減してしまうことは容易に想像できるかと思います。
これは、未来を託すこどもたちへ正しい歴史認識と文化的価値のある物の保護保存の教育を阻害し、心の教育としても「大切なものは守り伝える」事を無視したものになってしまいます。

2. 経済的見地から
景観価値の減退により、近い将来における、「泉岳寺」としての「ブランド力低減やイメージ悪化」に繋がる可能性が十分にあります。その結果、参拝客及び観光客の減少、また全6店舗の仲見世の販売収益の低下が予想されます。
明治から100年以上続く仲見世商店街は、「泉岳寺」と一体であり、また今や港区内では数少ない商店街を形成しています。その歴史的商店街が、今回のマンション建設によって大打撃を被り、存亡の危機に直面しています。宗教文化的側面において、地域住民の生活基盤においても、経済的な影響は現在・未来を考慮すれば、甚大になると考えざるを得ません。

3. 文化的見地から
今より400年前、元禄期より存続し、大きな歴史詩的舞台にもなった泉岳寺。その総門の横に、8階建てマンションを建てることは、泉岳寺の文化的遺産を否定するものです。
山手線、新駅の誕生も控え世界から、観光客が訪れる事が予想されます。
景観を無視した企業の利益のみを考えたような行動は、より良い未来につながるとは思えません。
歌舞伎、浄瑠璃などの演目にも必ず取り上げられ、「忠臣蔵」の物語には必ず泉岳寺は登場します。日本人の誇りとして語りつがれてきた「忠臣蔵」。
忠誠に始まる倫理規範が日本の美徳として国の内外から多くの共感を得て、今に伝わっている大切な無形文化財でもあると思います。
泉岳寺を歴史的な文化遺産と認識し伝え守り続けて来た、先人の努力を無にしてはならないものです。

国指定史跡・泉岳寺の歴史的文化財を守る会
代表     西須 好輝
事務局長     小泉 陽一
賛同者 宗教法人泉岳寺


3階建ての住宅が解体中である。

8階建てのマンションが建つとこんな感じになる。(国指定史跡・泉岳寺の歴史的文化財を守る会作成)

泉岳寺は高輪地区の貴重な歴史的遺産であり、忠臣蔵の物語は外国人にもよく知られており、新駅が設置されるとますます観光客が増加していくであろう。
その入り口の門の横に、8階建てのマンションが建てば、景観は大きく破壊される。
少なくとも、泉岳寺と一体となる景観について、景観条例などで保存の手段をきちんと考えていかねばならない。
また、今度指定される港区の高さ制限で、もっと低くすることができないだろうか。
いずれにせよ、高輪地区の歴史的遺産の景観等の保全の手段を真剣に考える時期にきている。
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建築家東直彦さんから演奏会のご案内

2014-08-23 12:16:11 | みなと第九を歌う会
建築家でテノール歌手の東直彦さんから「我が心のカンツォーネ」というタイトルのコンサートのご案内がきました。
10月26日、午後1時半からサントリーホール ブルーローズで行われます。
どうぞ、おいでくださいとのことです。
ちらしは以下の通りです。
建築家らしく、フィレンツェのまちなみのスケッチが素晴らしいですね。


ちらし 表面

ちらし 裏面
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一郎・と志 書簡集「馬橇の鈴の音」第4回

2014-08-22 08:00:21 | 一郎・と志書簡集から
終戦直後の東京の様子(一郎からと志へ)   昭和20年9月7日

パパは相変わらず、十日市に行く日を心待ちにしている。荷物を持てるとよいが、汽車がすごく混んでいるらしいので、それが心配だ。今一番困っている下宿先と食糧のこと。復員3000万人というから、地方でも職は難しいだろう。折角いい地位を失うようになったら困る。君たちをよぶにしては、家が第一の問題だ。
 米軍は食糧を持ってくるし、軍票も使わないというから、急に食糧難やインフレになることもあるまい。反対にデフレの傾向があるから、政策さえよければ、何とか維持しうるだろう。荷物の輸送は自由になると新聞に出ている。疎開者の復帰はまだ制限しているようだ。全くどうしていいのか分からぬ。 8日に大湊に米軍が上陸するそうだ、あるいは八戸あたりも海岸に少し位は駐屯するよう遠からずなるかも知れぬ。地方民はあわてることだろう。しかし、東京の様子ではそう心配しなくてもよい。夜間外出せぬこと、途中で合図しても笑ったり、また手を振ったりしないこと、何かくれを言ったらおとなしくやっておくこと、家の戸締りをよくすること、等々を心得ておく必要があろう。
 東京も明日進駐、米軍将校の自動車を昨日見た。電車や停車場にも時々米兵を見受ける。
至っておとなしく秩序あるようだ。ある米兵など女の客に席を譲っていた。これはアメリカの風習かも分からない。

終戦直後の汽車の混み方は、尋常ではなかったらしい。父はずっと旅行がきらいだったのは、この頃の記憶が頭に残っていたようだ。
当時、復員する人が3000万人もいたのは今の人には想像もできない。
日本人は、もともと攘夷の思想があり、米軍の進駐を恐れていたようだが、予想外に米軍の行動は、紳士的で秩序だっていたので、皆驚いている様子が書かれている。
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一郎・と志 書簡集「馬橇の鈴の音」第3回

2014-08-19 08:01:14 | 一郎・と志書簡集から
村の人たちと地方の生活 (と志から一郎へ)   昭和20年8月17日

 7月29日、8月13日の便りありがとうございました。ご無事の由、安心しました。
もうここまでくれば命は大丈夫ですね。東京はどうなっているのでしょうね。マッカーサーが乗り込んでくるという噂もあり、パパは通訳に動員されるのではと心配しています。
遠く離れていて、このあたりはいたって呑気です。
今日は、8月残りと9月分のお米が配給になると知らせがあり、まず食糧は大丈夫です。
昨日は朝から晩まで庄屋さんの家に手伝い、3人でお昼も晩もご飯をご馳走になりましたので、とうとう一日少しもお米を使いませんでした。
 その上、とても大きい「あいなめ」のようなお魚を焼いて持ってきてくれ、リンゴも小さいのを10個位もらいました。とてもおいしいお魚でした。お味噌もあげましょうと言っていました。お盆が終わったらまた手伝ってくださいと言われたので、また行きます。
 先にいくと人手が余ってくるでしょうから、今のうち手伝ってお米を残したいと思います。
 子どもたちは、おばあさんが預かっていてくれますし、何と言ってもよいのです。一昨日は私ども5人の手伝いでしたが、昨日からは私一人です。一汗かいて、お嫁さんと二人でリンゴをかじっています。とてもおいしいです。
 新聞を見ても食糧はあまりよくなりそうもないし、急には東京には帰れないでしょうから食糧と薪は冬の支度をして置く方がよいでしょうね。
 炭なども庄屋さんが助けてくれそうです。こたつのやぐらは貸しますから、作るのはよしなさいといいました。子どもの洋服をほしがっているようですから作ってあげようと思っています。
日用品、衣料などはだんだんでてくるとおもいますが、どうでしょう。物価は高くなりでしょうね。
 こちらでは、皆、最後の一弾まで打ち尽くして降参すべきだなどと言っておりますのに、専蔵さんばかりは、こっちはそう被害がなかったから、そう思うだろうが、西の方は相当なのだからいたしかたないだろうと言い、出直すんだなと言うと、それが許されないと言っています。淋しそうですが、少しの批判も不平も言わず静かです。馬鹿くさいといって皆働かない時でも、一人だまって休まず働いています。私もその落ち着きぶりに感心しました。この頃は、誰もせっせと働いています。

 母が八戸市の村の人たちにうまくとけこんで、大きな地主さんのお手伝いして食糧を確保している様子が書かれている。母の適応力、生活力のたくましさに感心する。
 と同時に、非常時によそ者を受け入れてくれる村の人たちの温かさが身にしみる。
 また、村にもしっかりした人物がいて、敗戦になっても落ち着いて仕事をし、皆の手本になっていることが書かれている

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一郎・と志 書簡集「馬橇の鈴の音」第2回

2014-08-18 08:28:11 | 一郎・と志書簡集から
父から母への手紙の返信で、東京の様子が描かれている。


終戦直後の東京の様子  昭和20年8月16日

今日15日付の速達が2通、ハガキ、16日の娘の手紙が本日着いた。
娘の手紙「センソウニマケテクヤシクテタマリマセン」という文句で、涙が出てしまった。
子どもたちは一体どう感じているのか、本当に可哀想と思う。
 東京は今日から燈火管制が中止になって、夜は明るくなった。何もかも夢のようだ。やはりみなこの先どうしていいのかわからないので、ぼんやりしている。あるいは惰性で仕事を続けているようだ。学生は動員解除になって帰ってきたが、どういうところに希望を持っていいのかわからんと言っていた。お百姓たちも全くだまかされたようだろう。落ち着かぬのも無理はないと思う。東京は一般には静かだが、兵隊の中には抗戦派もあって、何かしらひと波乱あるかも知れぬ。どうも新政府にくみするものもあるし、又和平反対のもあるし、まちまちだが、今のところ、そちらで想像するほど乱れていない。もう少し戦ったらと誰もが思う。しかし、内情は我々のしらない以上に窮迫していたのかもしれない。
 我々には分からないところが随分あるらしい。敵の進駐にはまだ間があるかもしれない。停戦協定は25日だといううわさがあるが、これも真偽、見定めにくい。とにかく、慌てる必要はない。まだ、そちらにいるつもりで、十分落ち着いて今までの計画通り進んでゆき給え。食糧もなかなか大変らしいができるだけのことはしておくこと。
15日以後、十日市も八戸もまた変わるだろう。段々疎開者も帰家すると思う。応召兵や徴用工が解散になるから、田舎も人が増えるし、色々な変化がくるだろう。しかし、いろいろ民需の必要上、一般に物資が回ってくるかも知れない。魚など産地に近ければ手に入るだろう。やはり当分は田舎の方がよい。内乱的な抗争があったり、敵の進駐軍との小競り合いがあったり、不逞の輩が横行したり、輸送の途絶で食糧が窮屈になったりすることを考えるとやはり帝都や大都市に遠ざかっていた方がよいと思う。ただ冬になると寒いだろうと思い、それだけが心配だ。こちらの家のことも考えないではない。荻窪もひとつ、渡辺君にも家のことを頼んでおいた。
しかし、地方疎開者は当分都市の転入を認めないことになったから、これが許されるまで待たねばならない。それに敵進駐後の東京の状態を見定めよう。とにかく、我々は負けた経験がないから、皆目わからない。動ぜず落ち着いているのがよい。お互い気を付けていれば、きっとまた皆が一緒に暮らすときが来るであろう。これを楽しみにしているしかないね。

 当時、東京外語大に勤めていた父にも、全く戦争の状況が伝わっていないのはおどろくべきことである。後になって、なんであんなバカな戦争をやったのだろうと何度も言っていた父でさえ、終戦直後はもう少し戦ったらと思っていた。
 父らしい冷静、慎重な判断でそれぞれ現状維持の結論を出したのは正しかったのだ。早く、家族が一つになって暮らしたいという強い思いは父も母も同じだったのに、じっと我慢した。
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一郎・と志 書簡集「馬橇の鈴の音」第1回

2014-08-17 15:28:44 | 一郎・と志書簡集から
父と母の書簡集「馬橇の鈴の音」から戦中・戦後の日本の混乱期の様子の一部をお伝えします。

はじめに
 母がなくなって、書斎の書類を整理していたら、文箱の奥に、おびただしい数の書簡がしまわれているのがみつかった。粗悪な紙に書かれた手紙と葉書は500通以上もあった。
その書簡は、戦中戦後の混乱期である昭和20年6月から昭和21年8月にかけて、父が東京にいて、母と子どもたちが青森県十日市(現在の八戸市郊外)に疎開していたとき、二人の間で交わされたものであることがわかった。
 そこには、この時期、生死をかけて生きていく二人の生活がありのままに書かれていた。
 東京の家が焼かれ、母は知人を頼って十日市にいったが、その知人はそこにいなくて、町の人に、頼み込んで屯所(今の公民館)に寝泊まりするようになった。
 母は普段はおとなしいやさしい性格であったが、追いつめられると開き直って強く他人と交渉し、公民館に泊まることができた。見ず知らずの他人に公民館を使わせた十日市の方々もやさしい人たちだったのであろう。
 一方、東京に残った父は四中の同期生の好意でその家に住まわせてもらっていたが、次第に住みづらくなり、六中時代の教え子の家の一室に下宿することになる。
 二人とも、寝泊まりする場所をやっと確保している状態で、物資も体力のゆとりのないこの時期、これほどの量の書簡を交換したのは、心の交流をいかに求めていたかを示している。
 500通以上の書簡の中から極一部を抜粋しこのブログに紹介したい。

終戦(母から父へ) 昭和20年8月16日 青森県十日市

 とうとう最後の所まで来てしまいました。田舎では予想もしていませんし、ラジオを聞いてもよくわからない人が多いのでみな気抜けしているみたいです。15日の夕方でも、まだ畳など疎開している人もあるし、防空帽子を大事にみな持っています。アメリカ兵が殺しにくると怖がっている人もおります。
 いろいろ困難は来るでしょうが、子どもも夫も無事で私は幸福だと思っています。どんな苦しい所でも切り抜けて遠い未来の希望に生きたいと思います。
 陛下のお心を思うと涙がこぼれます。いつかきっとかたきをうちましょう。
 これからどうしてよいかわかりません。お手紙でもお教えください。
 食糧だけでも集めた方がよいのではと思いますが、今人心が動いていてどうにもなりません。もう少し待ちましょう。5銭切手100枚買ったけどとにかく送ります。もうこれも用がないかもしれません。


 どんな時でも楽天的、前向きに考える母の性格がでています。終戦といっても、すぐに理解できない一般の人の様子が面白いです。かたきをうちましょうというのは直後の感想で、その後は母はずっと反戦の考えでした。
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高輪地区デジタルアーカイブ事業で古い写真を募集しています

2014-08-14 06:50:17 | 高輪地区のできごと
高輪地区デジタルアーカイブ事業でみなさまの大切な写真を募集しています。
また、9月7日に古い写真を集めるワークショップがあります。
どうぞ、古い写真をお持ちの方ご参加ください。
ちらしは以下の通りですが、このちらしの中に、昭和20年代の私の母の写真が掲載されています。
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高輪地区CCクラブでお話いただく石松勝さんのインタビューが朝日新聞に掲載

2014-08-13 15:54:12 | 高輪地区のできごと
8月28日高輪地区CCクラブ納涼懇親会で、お話をいただく石松勝さん(94才)のインタビュー記事が8月6日の朝日新聞に掲載されました。
以下が記事の内容です。

■東京都港区(広島) 石松勝さん(94) 陸軍歩兵連隊員

核といのちを考える 遺す
広島・長崎の記憶~被爆者からのメッセージ


 (1)原爆は一瞬で多くの人を殺害し、傷つけました。この69年間、忘れることができない当時の体験、光景は何でしょうか。

 爆心の30キロ先からみた閃光(せんこう)。反響する雷音。異様な岩雲。翌日入った広島市内では、死んだ人と助からない人ばかりの焼け野原を見ました。

 (2)原爆は長い間、被爆者を苦しめ続けました。被爆してから現在まで、恐怖や不安、怒りを感じたことはなんですか。

 1970年代、新聞やテレビで「被爆者の子どもは変になる」と聞きました。子や孫への影響を心配しましたが、特別な検査はさせませんでした。放射能の影響を過度に心配してほしくなかったからです。戦友会には「息子の結婚に響くから」と語らない人、あえて被爆者健康手帳を取らない人もいました。

 (3)原爆投下から69年がたとうとしていますが、核兵器はなくなりません。どう思われますか。次の世代を担う人たちにどんなことを伝えたいですか。

 20年続けて広島平和記念式典に行っていますが、だんだん参加国が増え、世界の理解が広がっています。日本の政治家も各党から参列しています。今の人に言っても仕方ありませんが、史実を振り返り、原爆を試したことは間違いだったと反省してほしい。

 米国が核で殺傷したことは許せない。今でも恨みが消えず、あきらめがつきません。でも、投下した飛行機の操縦者を恨むのではなく、為政者の無鉄砲な指示を反省すべきです。いつの世も宗教や民族の争いは絶えません。世界共通の情報機関をつくり、他国と照らして自国の間違いに気づけるような教育をしてはどうでしょうか。

 (4)東日本大震災で原発事故が起き、たくさんの人が放射能への不安を抱えて苦しんでいます。こうしたなか、原発を再び動かそうとすることをどう思われますか。

 太陽や風、潮や波など他のエネルギーを研究し、乗り換えるべきです。核廃棄物の捨て場がないし、処理はひ孫より下の世代まで続くかもしれません。ただ、当分は原発を動かさないと貿易赤字になるのでは。経済上、急には無理でも、なるべく早く全廃すべきです。

 (5)安倍晋三首相は自衛隊が海外の戦争に加われる国になることをめざしています。賛成ですか、反対ですか。理由も教えてください。

 難しすぎて、分かりません。戦争をできる国になるのはよくないですが、中国が怖い。50年、100年先、強い国になるのではないでしょうか。韓国は朝鮮半島統一のために日本を仮想敵にしている。北朝鮮は戦前の日本と同じで、30年もすれば目が覚めるでしょう。世論で平和を保ち、日本もスイスのような永世中立国になるのが一番よいです。(聞き手・花房吾早子)

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