港区まち創り研究会(まち研)ブログ

港区まち創り研究会の活動の状況やまちづくりについての様々な情報をお伝えします。
海外の街あるきの報告もあります。

安藤一郎デジタルアーカイブその2

2017-03-15 08:38:05 | 一郎・と志書簡集から
安藤一郎デジタルアーカイブの続きです。
一郎の趣味はバラであった。毎日、小さな庭にでてバラの手入れをしていた。

一郎独特の書体と絵

庭での写真

庭に小さな池があり、金魚などを飼っていた

昔から猫が家にいた。今のレオは4代目である

私が大学生の頃、庭で撮影した写真

父の書斎 よくお客がきていた

父の詩の原稿 何度も修正した後がある
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安藤一郎デジタルアーカイブ

2017-03-12 08:15:25 | 一郎・と志書簡集から
古いアルバムから父安藤一郎の写真をいくつかご紹介する。


我が家に残る最も古い家族の写真である。昭和19年位か?場所は下落合である。私は2歳位か

昭和29年ベルギーの世界詩人会議に出席し、帰国した時の写真である。
その時父が朗読したのが、原爆の「死の灰詩集」だったと記憶している。
出迎えに来ていた詩人北園克衛、村野四郎、北川冬彦、伊藤信吉などの顔が見える。

世界詩人会議の日本での帰国歓迎会である。

現代詩の講演風景 昭和30年ごろか。

サントリーの広告に使われた家族の写真。 私が小学生のころ
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一郎・と志 書簡集「馬橇の鈴の音」第4回

2014-08-22 08:00:21 | 一郎・と志書簡集から
終戦直後の東京の様子(一郎からと志へ)   昭和20年9月7日

パパは相変わらず、十日市に行く日を心待ちにしている。荷物を持てるとよいが、汽車がすごく混んでいるらしいので、それが心配だ。今一番困っている下宿先と食糧のこと。復員3000万人というから、地方でも職は難しいだろう。折角いい地位を失うようになったら困る。君たちをよぶにしては、家が第一の問題だ。
 米軍は食糧を持ってくるし、軍票も使わないというから、急に食糧難やインフレになることもあるまい。反対にデフレの傾向があるから、政策さえよければ、何とか維持しうるだろう。荷物の輸送は自由になると新聞に出ている。疎開者の復帰はまだ制限しているようだ。全くどうしていいのか分からぬ。 8日に大湊に米軍が上陸するそうだ、あるいは八戸あたりも海岸に少し位は駐屯するよう遠からずなるかも知れぬ。地方民はあわてることだろう。しかし、東京の様子ではそう心配しなくてもよい。夜間外出せぬこと、途中で合図しても笑ったり、また手を振ったりしないこと、何かくれを言ったらおとなしくやっておくこと、家の戸締りをよくすること、等々を心得ておく必要があろう。
 東京も明日進駐、米軍将校の自動車を昨日見た。電車や停車場にも時々米兵を見受ける。
至っておとなしく秩序あるようだ。ある米兵など女の客に席を譲っていた。これはアメリカの風習かも分からない。

終戦直後の汽車の混み方は、尋常ではなかったらしい。父はずっと旅行がきらいだったのは、この頃の記憶が頭に残っていたようだ。
当時、復員する人が3000万人もいたのは今の人には想像もできない。
日本人は、もともと攘夷の思想があり、米軍の進駐を恐れていたようだが、予想外に米軍の行動は、紳士的で秩序だっていたので、皆驚いている様子が書かれている。
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一郎・と志 書簡集「馬橇の鈴の音」第3回

2014-08-19 08:01:14 | 一郎・と志書簡集から
村の人たちと地方の生活 (と志から一郎へ)   昭和20年8月17日

 7月29日、8月13日の便りありがとうございました。ご無事の由、安心しました。
もうここまでくれば命は大丈夫ですね。東京はどうなっているのでしょうね。マッカーサーが乗り込んでくるという噂もあり、パパは通訳に動員されるのではと心配しています。
遠く離れていて、このあたりはいたって呑気です。
今日は、8月残りと9月分のお米が配給になると知らせがあり、まず食糧は大丈夫です。
昨日は朝から晩まで庄屋さんの家に手伝い、3人でお昼も晩もご飯をご馳走になりましたので、とうとう一日少しもお米を使いませんでした。
 その上、とても大きい「あいなめ」のようなお魚を焼いて持ってきてくれ、リンゴも小さいのを10個位もらいました。とてもおいしいお魚でした。お味噌もあげましょうと言っていました。お盆が終わったらまた手伝ってくださいと言われたので、また行きます。
 先にいくと人手が余ってくるでしょうから、今のうち手伝ってお米を残したいと思います。
 子どもたちは、おばあさんが預かっていてくれますし、何と言ってもよいのです。一昨日は私ども5人の手伝いでしたが、昨日からは私一人です。一汗かいて、お嫁さんと二人でリンゴをかじっています。とてもおいしいです。
 新聞を見ても食糧はあまりよくなりそうもないし、急には東京には帰れないでしょうから食糧と薪は冬の支度をして置く方がよいでしょうね。
 炭なども庄屋さんが助けてくれそうです。こたつのやぐらは貸しますから、作るのはよしなさいといいました。子どもの洋服をほしがっているようですから作ってあげようと思っています。
日用品、衣料などはだんだんでてくるとおもいますが、どうでしょう。物価は高くなりでしょうね。
 こちらでは、皆、最後の一弾まで打ち尽くして降参すべきだなどと言っておりますのに、専蔵さんばかりは、こっちはそう被害がなかったから、そう思うだろうが、西の方は相当なのだからいたしかたないだろうと言い、出直すんだなと言うと、それが許されないと言っています。淋しそうですが、少しの批判も不平も言わず静かです。馬鹿くさいといって皆働かない時でも、一人だまって休まず働いています。私もその落ち着きぶりに感心しました。この頃は、誰もせっせと働いています。

 母が八戸市の村の人たちにうまくとけこんで、大きな地主さんのお手伝いして食糧を確保している様子が書かれている。母の適応力、生活力のたくましさに感心する。
 と同時に、非常時によそ者を受け入れてくれる村の人たちの温かさが身にしみる。
 また、村にもしっかりした人物がいて、敗戦になっても落ち着いて仕事をし、皆の手本になっていることが書かれている

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一郎・と志 書簡集「馬橇の鈴の音」第2回

2014-08-18 08:28:11 | 一郎・と志書簡集から
父から母への手紙の返信で、東京の様子が描かれている。


終戦直後の東京の様子  昭和20年8月16日

今日15日付の速達が2通、ハガキ、16日の娘の手紙が本日着いた。
娘の手紙「センソウニマケテクヤシクテタマリマセン」という文句で、涙が出てしまった。
子どもたちは一体どう感じているのか、本当に可哀想と思う。
 東京は今日から燈火管制が中止になって、夜は明るくなった。何もかも夢のようだ。やはりみなこの先どうしていいのかわからないので、ぼんやりしている。あるいは惰性で仕事を続けているようだ。学生は動員解除になって帰ってきたが、どういうところに希望を持っていいのかわからんと言っていた。お百姓たちも全くだまかされたようだろう。落ち着かぬのも無理はないと思う。東京は一般には静かだが、兵隊の中には抗戦派もあって、何かしらひと波乱あるかも知れぬ。どうも新政府にくみするものもあるし、又和平反対のもあるし、まちまちだが、今のところ、そちらで想像するほど乱れていない。もう少し戦ったらと誰もが思う。しかし、内情は我々のしらない以上に窮迫していたのかもしれない。
 我々には分からないところが随分あるらしい。敵の進駐にはまだ間があるかもしれない。停戦協定は25日だといううわさがあるが、これも真偽、見定めにくい。とにかく、慌てる必要はない。まだ、そちらにいるつもりで、十分落ち着いて今までの計画通り進んでゆき給え。食糧もなかなか大変らしいができるだけのことはしておくこと。
15日以後、十日市も八戸もまた変わるだろう。段々疎開者も帰家すると思う。応召兵や徴用工が解散になるから、田舎も人が増えるし、色々な変化がくるだろう。しかし、いろいろ民需の必要上、一般に物資が回ってくるかも知れない。魚など産地に近ければ手に入るだろう。やはり当分は田舎の方がよい。内乱的な抗争があったり、敵の進駐軍との小競り合いがあったり、不逞の輩が横行したり、輸送の途絶で食糧が窮屈になったりすることを考えるとやはり帝都や大都市に遠ざかっていた方がよいと思う。ただ冬になると寒いだろうと思い、それだけが心配だ。こちらの家のことも考えないではない。荻窪もひとつ、渡辺君にも家のことを頼んでおいた。
しかし、地方疎開者は当分都市の転入を認めないことになったから、これが許されるまで待たねばならない。それに敵進駐後の東京の状態を見定めよう。とにかく、我々は負けた経験がないから、皆目わからない。動ぜず落ち着いているのがよい。お互い気を付けていれば、きっとまた皆が一緒に暮らすときが来るであろう。これを楽しみにしているしかないね。

 当時、東京外語大に勤めていた父にも、全く戦争の状況が伝わっていないのはおどろくべきことである。後になって、なんであんなバカな戦争をやったのだろうと何度も言っていた父でさえ、終戦直後はもう少し戦ったらと思っていた。
 父らしい冷静、慎重な判断でそれぞれ現状維持の結論を出したのは正しかったのだ。早く、家族が一つになって暮らしたいという強い思いは父も母も同じだったのに、じっと我慢した。
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一郎・と志 書簡集「馬橇の鈴の音」第1回

2014-08-17 15:28:44 | 一郎・と志書簡集から
父と母の書簡集「馬橇の鈴の音」から戦中・戦後の日本の混乱期の様子の一部をお伝えします。

はじめに
 母がなくなって、書斎の書類を整理していたら、文箱の奥に、おびただしい数の書簡がしまわれているのがみつかった。粗悪な紙に書かれた手紙と葉書は500通以上もあった。
その書簡は、戦中戦後の混乱期である昭和20年6月から昭和21年8月にかけて、父が東京にいて、母と子どもたちが青森県十日市(現在の八戸市郊外)に疎開していたとき、二人の間で交わされたものであることがわかった。
 そこには、この時期、生死をかけて生きていく二人の生活がありのままに書かれていた。
 東京の家が焼かれ、母は知人を頼って十日市にいったが、その知人はそこにいなくて、町の人に、頼み込んで屯所(今の公民館)に寝泊まりするようになった。
 母は普段はおとなしいやさしい性格であったが、追いつめられると開き直って強く他人と交渉し、公民館に泊まることができた。見ず知らずの他人に公民館を使わせた十日市の方々もやさしい人たちだったのであろう。
 一方、東京に残った父は四中の同期生の好意でその家に住まわせてもらっていたが、次第に住みづらくなり、六中時代の教え子の家の一室に下宿することになる。
 二人とも、寝泊まりする場所をやっと確保している状態で、物資も体力のゆとりのないこの時期、これほどの量の書簡を交換したのは、心の交流をいかに求めていたかを示している。
 500通以上の書簡の中から極一部を抜粋しこのブログに紹介したい。

終戦(母から父へ) 昭和20年8月16日 青森県十日市

 とうとう最後の所まで来てしまいました。田舎では予想もしていませんし、ラジオを聞いてもよくわからない人が多いのでみな気抜けしているみたいです。15日の夕方でも、まだ畳など疎開している人もあるし、防空帽子を大事にみな持っています。アメリカ兵が殺しにくると怖がっている人もおります。
 いろいろ困難は来るでしょうが、子どもも夫も無事で私は幸福だと思っています。どんな苦しい所でも切り抜けて遠い未来の希望に生きたいと思います。
 陛下のお心を思うと涙がこぼれます。いつかきっとかたきをうちましょう。
 これからどうしてよいかわかりません。お手紙でもお教えください。
 食糧だけでも集めた方がよいのではと思いますが、今人心が動いていてどうにもなりません。もう少し待ちましょう。5銭切手100枚買ったけどとにかく送ります。もうこれも用がないかもしれません。


 どんな時でも楽天的、前向きに考える母の性格がでています。終戦といっても、すぐに理解できない一般の人の様子が面白いです。かたきをうちましょうというのは直後の感想で、その後は母はずっと反戦の考えでした。
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