今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

147 長野(長野県)・・・光るのは仏と道と若葉なり

2008-06-30 00:22:42 | 新潟・長野

善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来像」は、本堂最奥部の瑠璃壇に安置されている、ということになっているが、秘仏であるから確認しようがない。ただその床下に回廊があって、仏の足元を一周することはできる。途中、あるものに触れると御本尊と結縁を果たしたことになり、往生する際には阿弥陀如来にお迎えに来ていただけるという。さっそく潜ってみたのだが、情けないことに絶対の「暗闇」に圧倒され、何に触れたか覚えがない。

これを「お戒壇巡り」といい、《あるもの》とは回廊の中ほどに懸かる錠前のことだ。本尊を絶対秘仏とした時、寺の知恵者が考え出した信仰の仕掛けなのだろう。私がちゃんと触れていたかどうかは、往生際にお迎えがあるかどうかではっきりする。

そんなことより私は、「闇」の存在力に押しつぶされた。闇とは恐ろしい。色がないのだ。無い色を見ようと見開いているのか、目が痛くなる。六感全てが狂い出し、沸騰しそうだ。

その体験をしたのは、この街でオリンピックが開催される直前のころだ。街は空前のイベントを控え、緊張していたけれど、同時に、デパートが撤退する中心商店街の疲弊に頭を抱えてもいた。

久しぶりに長野市内に宿を取った朝、街は本降りとなった。善光寺の本堂大屋根が、黒い雨雲を何とか支えているといった風情である。大人たちが険しい顔つきでそれぞれの「戦場」に向かう中を、子どもたちは屈託ないおしゃべりで学校に向かう。子どもがいないと街は暗くなる。これはどこの街でも同じだ。

衰退が心配された参道商店街は、それなりに再開発されて、県都の面目を保っているように思えた。私はよそ者に過ぎないけれど、勝手に安堵させていただいた。だが敢えて言わせてもらうと、目抜き通りの一角に整備された「ぱていお大門 蔵楽庭」なる観光モールには、「やれやれ、ここでもか」とため息が出た。

内部は小奇麗に工夫が凝らされ、長野土産やおしゃれなカフェで溢れているのだろう。それはそれで結構ではあるが、なぜ白壁に瓦屋根の蔵造りなのか。そして気恥ずかしくも「ぱていお」ときた。倉造りの街をヒットさせた倉敷は偉い。しかしそれから、あの街もこの街もみんなが真似て、いまやどこに行っても蔵造りである。地方分権とは、独創性を競うことを言うのだ。

宗教施設と行政の拠点が混在している稀有な街である長野には、もっとユニークなアイデアが欲しい。善光寺の瑠璃壇は、門前町の臍であろう。臍の下に戒壇巡りという、かくも絶対の闇を湛えている街は、もっと重々しくあってほしい。6世紀、善光さんが難波から運んできた仏様が、なぜこの地に安置されることになったか。善光寺平には光と闇がうごめいているのである。そんなオーラのある街になって欲しい。  

新幹線の駅に、巨大な五輪のエンブレムが掲げてあった。こんなことができる街は日本に3つしかない。善光寺のある街に生まれたことを、子どもたちは喜んでいるか、オリンピックを開催した街で暮らしていることを、子どもたちは誇りにしているか。質問してみたかったけれど、乙女たちは、おじさんを無視して学校を目指すのだった。雨は上がった。靴の中までびしょ濡れである。(2008.6.22-23)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 146 信濃(長野県)・・・濡... | トップ | 148 島原(長崎県)・・・微... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

新潟・長野」カテゴリの最新記事