今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

135 堺(大阪府)・・・ドライなりそうでなければ残れない

2008-06-06 21:38:59 | 大阪・兵庫

ここは日本史少年に、特別の思いを抱かせる街(のはず)であった。「自由都市」のことである。貿易と商工業の富で豪商たちが、封建暴力社会において「自治」を確保した。そんな街が日本にもあったということに、少年は胸ときめかせたのである。老年の入り口にさしかかったいま、その街角に立ち、彼は抱き続けてきた歴史の華やぎを追った。しかしもはやそれは幻でしかなく、元少年は肩を落として帰るしかなかった。

「堺」が摂津・河内・和泉3国の境にあるから付いた名称だとは知らなかった。即物的である。およそ実利の街は、即物的であるのかもしれない。利休の侘茶も「即物」をキーワードに考えると理解しやすいのではないか。それをご本人に問うてみたかったが、屋敷跡はビルに囲まれ、井戸は暗く翳っていた。

レトロな阪堺電車が行く大通りに出ると、与謝野晶子の生家跡があった。「潮の遠鳴りかぞえつつ少女となりし父母の家」である。ところが説明の図を見て驚いた。生家・駿河屋は中心部がばっさりと道路に切り取られ、晶子が「潮鳴り」を数えたかもしれない母屋跡を、電車がガタゴト通過しているではないか。

自由都市の記憶を大切にしていたら、堺は世界遺産に登録されるような街になったかもしれない。しかしそれは「即物的」な堺商人には関心の外だったのだろう、かつての特別な街は、どこにでもある、ちょっと大きな地方都市になった。それでも堺は晶子を生んだ。あでやかに言葉を織りなす行為は、およそ即物的とは言い難いけれど、才能と環境の関係は永遠の謎である。

役所が一番目立つような街は、ろくな行政が行われていないものだが、堺市役所は飛び抜けた高層ビルで、最上階が展望台になっていた。休日も開放されていて、私のような旅人には格好の施設だった。北に大阪の街、東は大和を隔てる葛城の稜線、南には百舌古墳群、そして西は大阪湾に向かって、広い並木道が延びている。地図を見ると「竹内街道」とある。「そうか、ここにたどり着くのか」と、私はしばし感動に浸ったのである。

竹内街道は、難波津と飛鳥京を結んだ最古の国道のことだ。大和憧憬病患者の私は、奈良の竹之内集落からこの道をたどり、峠を越えて堺方面を遠望したことがあった。いま、その終着地点を見晴らしているのである。「遥か海の向こうからやってきた世界の文明と文化と富は、ここで上陸して大和を目指したのだ」と、私は歴史の目撃者を楽しんだのである。

日本が中世から近世に脱皮するころの16世紀、堺は京都、博多と並ぶ豪商の街であった。人口は2、3万人と推定され、ハンザ同盟発祥の街・リューベックと同規模の大都市だったと記す書もある。リューベックは城塞が今も旧市街を取り囲み、往時を偲ばせる街が残っていたが、堺の「土居川」は暗渠になったりして影が薄い。交通の邪魔になれば覆ってしまう。堺は即物的なのである。

堺の繁栄も衰退も、立地が大きく関わっている。そうした街はドライでなければ生きていけないのかも知れない。だが巨大古墳はさすがに残された。仁徳陵(大仙古墳)の巨大さ、静寂さが、即物的な街に潤いを漂わせているように思えた。(2008.5.11)
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