今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

299 箕輪(群馬県)・・・タヌ公に出会うのもよし百名城

2010-09-10 13:42:54 | 群馬・栃木

上州は、狸の産地なのだそうだ。佐藤垢石というご仁がそう書いている。「私の故郷の村は、利根川の崖の上にある。その崖に続いた雑木林の中には、私の幼いときまで随分狸が棲んでいた」と。何でも浅間噴火の土石流が流れ下った河原が楢や椚の雑木林となり、ドングリを落とす。それが狸の大好物だというのだ。上州の野山を思い出すと、これはなかなか説得力を持つ話だ。榛名山麓・箕輪城跡などは、いまもタヌ公に出会いそうである。

この佐藤さんは雑誌「つり人」の創刊者。前出の『たぬき汁』は名随筆として知られ、私の書棚の平凡社版「世界教養全集・別巻1」にも採録されている。前橋市出身ということだが、この浅間噴火の土石流が堆積したあたりというと、箕輪とはさほど離れていないはずだ。

先ほどから繰り返し書いている「箕輪」とは、群馬県中西部の、かつては箕郷町といった榛名山南麓の里で、古い城跡がある。城は、山麓を削って流れ下る榛名白川の段丘上に築かれ、南は深い濠で守られている。いまは雑木林で塞がれている視界を往事の眺めに戻せば、眼下の城下を越えて、遠く高崎方面が望めることだろう。

見知らぬ街を歩いていると、ひと時代昔の集落に迷い込んだような奇妙な感覚に襲われることがある。私にとって、この箕輪もそうした記憶の中の街である。それは若き日、土地のお方に案内していただいた折りに、中国の詩人なら「桃源郷」と詠い、白洲正子氏なら「かくれ里」のリストに加えることだろうといった思いになったからである。それは梅林が匂い立つ早春の一日だった。

『たぬき汁』を読み返して、しきりにあの界隈が歩きたくなった。再訪は夏の盛りとなったので、山里は梅の香に替わって濃い草いきれが漂い、蝉時雨がかしましい。いまも城下は白壁土蔵などをよく残し、「矢内宿通」と書かれた提灯が下がっている。かつて近在から買い物客を集めた商店街の名残りが微かに感じられる。

城下も何やら小奇麗になったが、この歳月で城跡は随分と整備され、大手尾根口の入口では、郷土史愛好サークルらしきお年寄り集団がガイドの説明を聴いている。本丸に至る道には「日本百名城」と染め抜いた幟が誇らし気に掲げられ、その分、廃城の風情を薄れさせている。

しかし城最奥部の御前曲輪まで行くと、さすがに深閑とした空気が支配し、昭和初めの豪雨で偶然発見された大井戸が、どっしりとした石組みによって復元されていた。永禄9年(1566年)の武田信玄侵攻で落城を覚悟した城主・長野業政は、累代の墓を井戸に投げ込み、一族とともにここで自刃したのだという。曲輪をグルリと見回した。所領に命を懸けた戦国の亡霊たちが、いまなお木立の奥で息をひそめている気配であった。

ところで「日本百名城」とは、日本城郭協会という財団法人が選定した古城の指針で、世界遺産の姫路城もあれば、城郭はすべて失われた箕輪城のような、無名に近い城も選ばれている。この選定にしても「百名山」にしても、勝手に対象を絞り込むなど余計なお世話だといいたくなるが、城に関しては建築・土木・考古など、専門家ならではの視点が加えられていることは参考になる。
            
ちなみに私自身、百名城のいくつを訪れているだろうかとリストを点検してみたところ、54カ所に足跡を残していた。訪ねた城はもっと多く、私なりに《名城》から外された城への同情を覚える例もある。(2010.8.11)
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