今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1036 一乗谷【福井】気分まで緑に染まり一乗谷

2022-06-05 16:53:37 | 富山・石川・福井
校外学習の中学生だろうか、一乗谷の朝倉館跡の広場で、遺跡の歴史を学んでいる。中世の城塞都市の遺構がそっくり残る国の特別史跡を、授業の一環として見学にやって来られる子供たちは恵まれているけれど、聞かされている生徒たちはさほど嬉しそうでもない。私は彼らに60年前の自分を重ね、「緑と言っても、実にいろんな色を含んでいるんだよ」と教えてくれた先生は誰だったろうと考えている。それほどに谷は萌え、輝いているのだ。
 
 
天候に恵まれた今回の旅でも、この朝は最も爽快に晴れ上がった。これは「越前晴れ」だと私は勝手に命名した。福井平野を潤す九頭竜川の、南東隅の山中を流れ下るささやかな支流である一乗谷川が形成する谷は、東西が小高い丘陵で目隠しされ、平坦部は広いところでも幅が500メートルほどしかない狭小の土地である。15世紀から次世紀にかけての100年間、この谷は1万人が暮らす戦国列島屈指の城下町だったとは、俄に信じ難い。
 
 
桜、楓、欅、杉と、実に多彩な緑が谷を埋めている。サクラやカエデには赤や茶色が、イチョウは早くも黄色を含んでいる緑だ。杉か檜か、鬱蒼と植林された針葉樹は濃い青を含んで黒い森を形成している。いずれも朝倉時代よりずっと若い、近年植えられた樹々であろう。ただ長く雪に埋もれた季節を終え、新緑が一気に芽吹くころの谷の輝きは、500年前も変わりなかったはずだ。最後の当主・義景も、満ち足りた笑みを浮かべて眺めたことだろう。
 
 
館跡に整然と残る礎石と石組みの庭園跡は、足利将軍を迎えた朝倉家の絶頂を彷彿とさせる。しかしその慢心が視野を狭くし、戦国の世を生き抜く目を曇らせたのかもしれない。増長と油断に緩んだ朝倉勢は、東海の覇権を競ってきた織田軍団の敵ではなかった。谷への侵入を防ぐために築かれた上城戸はあっけなく突破され、裏山の標高473メートルの頂に築いた一乗谷城は、戦いに籠もることもなく落城した。ここも「兵どもの夢の跡」である。
 
 
発掘調査で確認された遺構に忠実に従っているのだろう、復元された往時の街並みは興味深い。車がすれ違うのは難しいほどの通りを挟んで、山側に重職らの屋敷が並び、排水が流れ落ちる川側には庶民の町屋が密集する。占める土地の大小が権力と富の偏在を示しているのは現代と変わらないものの、舞良戸(まいらど)や明障子(あかりしょうじ)を多用した家屋は、風通しが良さそうだ。当時の日本人は小柄だったのか、町屋の軒は極めて低い。
 
 
海から遠い分、風は穏やかでも冬の冷え込みは厳しいだろう。絵図なども参考にしたという復元武家屋敷では、畳敷きの座敷で武士が将棋に興じているけれど、町屋の暮らしは板張りに筵敷きだ。店先には火鉢が置いてある。それでも古墳時代まで竪穴住居で暮らしていた日本人は、ここまで住環境を向上させたのだと、復元街を歩いて感慨に浸る。中世の生活がそっくり復元できたのは、織田軍によって焦土と化し、間も無く放棄されたからだろう。
 
 
一乗谷は福井市の中心部から10キロほどの距離だ。谷を出ると広々とした農地が続き、田植えを終えたばかりの稲田の隣に、穫り入れを待つ麦畑が続く。福井は早生品種「ふくこむぎ」の産地なのだ。平野はゆるゆるとした丘陵に縁取られ、関東平野のような茫漠とした心細さはない。越前はほどほどに広く、ほどほどに豊かで、戦国下克上の見本のような朝倉5代も、ほどほどに栄え、滅んでいった。タイムカプセル・一乗谷を残して。(2022.5.19)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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