今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

871 鼻高(群馬県)ドイツよりこの山河へと身を寄せて

2019-04-05 10:16:37 | 群馬・栃木
達磨寺境内の一隅に「洗心亭」という名の簡素な平屋が建っている。若き日、『日本美の再発見』や『日本文化私観』に大いに刺激をうけた私としては、達磨の寺以上に訪れたいと思い続けてきた場所である。著者で建築家のブルーノ・タウト(1880-1938)が、ナチスの迫害を逃れてたどり着いた日本で、滞在過半の日々を過ごした家なのだから。北面の傾斜地に建つ家の裏から、榛名連山へと広がる上州の山河に見入る。



1933年5月、シベリア鉄道経由で日本に逃れて来たタウトは、建築学界の客員として国内を廻り、桂離宮や東照宮を観る。1934年8月、群馬の財界人に招かれ高崎に移住、洗心亭に落ち着く。6畳と4畳半の二間だけの庵についてタウトは「この上もなく質素な小住宅であるが、私達にとっては凡そ日本で持ち得る最も快適な足溜りである」と書いている。私達とは、ドイツから同行した女性秘書との暮らしである。



しかし三国同盟を深化させる日本に、タウトは危険を感じたのだろう、1936年11月、日本を離れ、トルコに移住して2年後に没する。私の故郷・新潟をかなり辛辣に書いているから困ってしまうのだが、ヨーロッパの知性が感じたままの日本を、この小住宅で書いていたのだと思うといっそう懐かしい。その人生の真実はわからないけれど、梅がほころぶ佇まいの中で、そうしたドイツ人が生きていたのだと噛み締める。



洗心亭はもともと大正年間に、八幡村という鼻高の対岸にあった村の産業組合で指導に当たった佐藤寛治・東京帝国大学教授のための別荘として建てられたのだという。教授は専門の農学を伝授したのだろう、こうした学者の指導を仰ぐために、別荘を用意した時代があったわけだ。洗心亭は建築当初のままだとすると、南向きに建てられている。しかし北側こそ、厳しい寒風に晒されるであろうが眺望は抜群である。



達磨寺の裏山に、群馬県土木事務所の「少林山地すべり対策事業」という大きな解説板が建っている。それによるとこの傾斜地は「実は巨大な地すべりの土塊の一部」なのだという。達磨寺の境内はもとより、隣接する集落、碓氷川、さらには国道18号辺りまでの85ヘクタールが潜在的脅威にあるのだとか。だから県は30年にわたって対策工事を続け、「当地区の主活動域への対策は既成と判断された」のだという。



明治年間には地すべりが頻発、災害が多発した、ともある。だとしたら達磨寺や洗心亭、さらにはその真っ只中にある古墳はなぜ無事なのか、不思議ではあるが無事でよかったというしかない。「鼻高展望台」という案内に誘われて山道を登る。ほどなく丘陵の上に出たらしく、素晴らしい眺望が拓けた。早咲きの桜並木の向うに浅間が近く、北は榛名連山が横たわっている。洗心亭裏の展望を更に雄大にした上州の山河である。



その榛名山に、私は前日、登った。闘病中の友人を春の上州路に招待しようと、下見に出向いたのだ。5月中旬、榛名はツツジに彩られる。そうした風景に闘病の疲れを癒してもらいたいと、伊香保の宿を確認し、榛名湖までの道路をチェックした。数日後、友人からメールが届いた。「骨髄検査で癌細胞が認められ、抗がん剤の量を増やすことになった。申し訳ないが旅行は中止してほしい」。私は祈るしかない。(2019.3.26)











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