今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

748 上野(東京都)ゴッホに魅入られゴーギャンに魂奪われ

2017-01-09 19:28:52 | 東京(区部)
足元でカサコソと音を忍ばせていた落葉が、突然、響きを上げて石畳を走り始めた。目には見えない旋風が、渦巻く枯葉の群舞となって姿を現わしたのだ。冬晴れの上野公園噴水広場。陽だまりで休息を取っていた清掃隊が、際限無く続く落葉との戦いに「やれやれ」と腰を上げる。居合わせた私は「アルルのミストラルも、こんな具合にゴッホのカンバスを揺らしたのだろうか」と考える。私の気分はまだ、見てきたばかりのゴッホ展にある。



光と色彩を渇望するフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)が、パリから南仏アルルにやって来たのは1888年。彼はそこで才能を爆発させ、生涯の傑作を生み出して行くのだが、到着したのは2月。ローヌ渓谷から地中海へと吹き下ろすミストラルが、描きたくてたまらない男を悩ませた。「このやりきれない風さえなければ、この谷で素晴らしい絵が書けるのだが。何しろカンバスがひっきりなしに揺れる」と、弟テオに愚痴った。



それでも季節が春めくにつれ、彼の絵筆からは色彩が溢れ出し、あの『跳ね橋』やアンズ、モモなど果樹の花々が描かれていく。そして6月、今回の展覧会の目玉でもある『収穫』が生まれる。さほど大きな絵ではない。しかし私はその前に立ち、遥かな丘陵地から麦穂を揺らして渡ってくる微風を、確かに感じている。アルル南東の、広大な風光に私も包まれているのだ。それはまるで遠い日の、越後蒲原平野の稲刈りを眺めている気分である。



私はこの作品を、アムステルダムでも観ているかもしれない。しかし間も無く始まるゴッホの「うねり渦巻くタッチ」に目を奪われ、記憶する暇がなかったのだろう。それほど『収穫』は穏やかで、画家の精神の安定を物語っている。隙のない遠近法は、画面中央やや上部に光のピントを収斂し、補色が計算通り画面を引き締める。ゴッホは感情のまま筆を走らせていたのではない。この作品も、一分の隙もない構成に支えられているのだ。



そして10月、ゴーギャンがやって来る。ゴッホの歓喜はここに極まるのだが、二人の共同生活は2ヶ月で破綻する。そこでつくづく思うのは、天才というものはとかく難しい、ということだ。なかでもアルルで交錯した魂は、究め付けの天才同士だっただけに、爆発炎上する度合いも並外れている。だから事態は人類芸術史上の大事件として記憶されることになり、130年を経ても、二人のコラボ展は相も変わらず人々を惹きつける。



さてここからは、私の妄想が加わる。ゴーギャンに比べたら、人間としてゴッホは遥かに誠実である。しかしその誠実さには「緩み・遊び」がない。もし私がヴィンセントの友人だったら、どんなにか疲れるだろう。だがゴーギャンの友達になることはもっと願い下げである。理由は彼自身が語っている。「私の作品が人を驚かせ、当惑させるのは、《意のままにならない私の野生》に他ならない。だから誰にも真似できないのだ」という傲慢さ。



それでも私は、ゴーギャンに魅入られている。あの「赤色」のせいだ。彼の作品に必ず登場するオレンジに近い赤だ。その引力はゴッホを上回るほどだ。この二人に翻弄されたら、兄思いの常識人テオが、ゴッホの死後3ヶ月を経ずして病没したのもやむなし、といった思いになる。実に疲れる展覧会だった。公園の噴水が再び勢いよく上がり、冬陽に煌めいている。私も「やれやれ」と腰を上げ、次の「ラスコー展」に向かう。(2016.12.16)











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