今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

749 ウィーン①【オーストリア】

2017-01-14 20:47:47 | 海外
空港からの直行列車がウィーン・ミッテ駅に着くと、音楽の都はワルツではなく、雪景色で私たちを迎えてくれた。私にはそれで結構なのだ。私はベートーベンやモーツアルトに会いに中欧のこの街までやって来たわけではない。私が会いたいのはシーレである。妖しげで哀しそうなあの瞳に見詰められたい、ひたすらその思いで長時間のエコノミーの旅に耐えて来たのだ。翌朝から美術館を巡り、シーレを堪能する。あの1枚を除いてだが。



エゴン・シーレ(Egon Schiele 1890-1918)がウィーン近郊の街で生まれた1ヶ月後、パリ郊外の農村でファン・ゴッホが命を断った。「美は継承される」などと安易な解釈を加えたくはないけれど、シーレはクリムトやゴッホの影響を受けながら画風を確立、わずか28年の生涯で人気画家の系譜に名を連ねた。常人では見通せないような、どこか異様な描写に私などは仰天させられるのだが、そこにゴッホの存在が感じられなくもない。



美術館巡りはホテル近くのアルベルティーナから始める。折しもゴッホの『種まく人』を中心にした企画展が開催中で、印象派からキュビスムに至るヨーロッパ絵画が楽しめた。そして美術史美術館、レオポルト美術館、ベルヴェデーレ宮殿を3日間かけて歩く。シーレは自画像や女性像だけでなく、妻も好きな街並みの風景画を堪能することになり、その「すべては生きながら死んでいる」とする画家の死生観を、いくらか感じ取った。



地球の反対側までやってきて、こうやって好きな絵を追いかけて喜んでいる私は、滑稽な「名画の追っかけ人」に見えることだろう。しかし私にとって芸術的快楽は、私が尽きない興味を抱いている「人の暮らし」「その集合体としての街」を垣間見せてくれる手段なのだ。つまり今回は、シーレの眼を通してオーストリア・ハンガリー帝国の世紀末的ウィーンを見ようとしている。彼によれば「芸術家は予見者的才能を持つ」のだそうだから。



時代と生活を教えてくれる画家の代表格はピーテル・ブリューゲル(?-1569)だと、かねがね憧れてきたのだが、美術史美術館でその代表作を一挙に鑑賞できたことは幸運だった。『バベルの塔』はともかく『雪中の狩人』『農民の婚宴』『謝肉祭と四旬節の喧嘩』は、中世のユーラシア大陸西端の庶民の暮らしが衒いなく写し取られていて、言語・風習こそ違え、人間は不思議なほど似た歴史を歩むものだと、極東の島国の末裔は思うのである。



こうやって私たちは、ベルヴェデーレ上宮の最奧に安置されているクリムトの『接吻』まで、ウィーンの絵画鑑賞を満喫したのだった。パリに比べれば都市の規模としては小さいウィーンが、これだけ美の至宝を有していることは奇跡のようである。美術史美術館をルーブルの小型版とするなら、アルベルティーナはオルセーに比せられる。衰亡したとはいえ神聖ローマ帝国以来のハプスブルグ家の遺産は、今も市民の生活を潤している。

(エゴン・シーレ『左足を高く上げて座る女』)

ただシーレの作品で最も親しまれているらしい、私も妻も大好きな『左足を高く上げて座る女』は、チェコのプラハ国立美術館の所蔵で、ウィーンにはいない。今回の旅で会うことは叶わなかったので、アルベルティーナのショップで大型のポスターを購入し、帰ってパネルに貼った。どこに飾るか迷った挙句、私の寝室の壁に掛けた。これからは眠るまでの暫し、彼女の瞳に見つめられて世紀末ヨーロッパを偲ぶことにする。(2016.12.21−25)



(ピーテル・ブリューゲル『バベルの塔』)

(ピーテル・ブリューゲル『雪中の狩人』)

(ピーテル・ブリューゲル『謝肉祭と四旬節の喧嘩』)

(ピーテル・ブリューゲル『農民の婚宴』)














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