今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

798 盛岡(岩手)岩手山イーハトーブに輝けり

2017-12-01 13:28:17 | 岩手・宮城
早朝5時過ぎに目が覚めた。盛岡・北上川畔のホテルである。カーテンの隙間から覗く街はまだ真っ暗なので、昨日眺めた岩手山の堂々たる姿を、ベッドの中で思い出してみる。今日もよく晴れると予報は伝えていたから、盛岡の街から望む岩手山は、朝日を正面から浴びるはずだ。だとすれば、白銀の山塊がピンクに輝く瞬間があるかもしれない。そう思い付いて身支度を始める。日の出は東京より少し遅いらしいから、6時半ころだろうか。



地下道を抜けて旭橋に出る。山は薄明の空に稜線を延ばし、川は留まることを知らないかのように、北から南へゆったり流れている。気温は氷点下なのだろう、川原の草叢はまだ頑張って緑を残しているものの、しっかりと霜に覆われ、私の靴の下でシャキシャキ音を立てている。開運橋越えに下流の屋根屋根の稜線を探すと、オレンジ色が夜を押しのけ広がり始めている。岩手山(標高2038m)の山頂が、うっすら赤く染まり始めた。



まだ眠りの中にある街のはるか上空で、朝の光が東から西へ差し込んでいる。しっかり身支度してはきたけれど、身体が冷えて来るのは致し方ない。それでも欲張って、上流の夕顔瀬橋へと歩き出す。私の歩調と同じようなのろさで、山頂に始まった赤色がゆっくり裾野を降りて来る。やがて朝日が白々と下界を照らすまでになると、岩手山のピンク色は薄れ、山はどっしりと白い塊りになった。山が赤味を帯びた時間は、20分程度だろうか。



名もゆかしい夕顔瀬橋を渡り、左岸を旭橋へと戻る。ここは前日歩いた材木町商店街である。そもそも今回、盛岡にやってきたのは、妻が「またあのお店に行ってみたいわ」と言い出したからだ。あの店とは、岩手のホームスパンに憧れる私と妻が、4年前の東北旅行で探し当てたホームスパン専門店のことだ。その店が材木町の「いーはとーぶアベニュー」にあるのだ。店の女性は私のコートを見て、「あ、それは‥」と私たちを思い出した。



妻は生地を探し始め、私は向かいの光原社に行く。光原社は材木町に本店を置く、漆器や和紙、陶磁器などを扱う世界の民芸品セレクトショップだが、それ以上に1924年(大正13年)に宮沢賢治の『注文の多い料理店』を発刊した出版社として知られている。盛岡高等農林で賢治の1年後輩であった及川四郎が、親友と興した出版社が前身である。だから店の奥庭には賢治の資料室があり、賢治の原稿や初版本が展示されている。



資料室は「賢治に捧ぐ・柚木沙弥郎マヂエル館」と表示されている。「ゆのき・さみろう」は芹沢銈介の弟子で、90歳を過ぎてなお活躍中の高名な型染作家だという。賢治関連の装丁などで作品は目にしているものの、名に覚えはない。今回、資料室でポスターなどに接し、その造形力、色彩感覚に惹きつけられてしまった。ひたすら「うまいなぁ」とため息が出る。店では来年、作品展を計画しているという。また盛岡に来たくなることだろう。



盛岡は啄木贔屓の街らしく、北上川畔に歌碑が建っている。「かの時に言ひそびれたる大切の言葉は今も胸にのこれど」。啄木は相変わらずイジイジしている。私にはそれよりも、光原社の塀にある「まるめろの匂のそらにあたらしい星雲を燃せ」という賢治27歳の詩の方がさっぱりとして好もしい。盛岡の繁華街・大通り商店街はますます居酒屋とカラオケ店に占領されて、不来方城跡へと続く城下街の風情は消えてしまった。(2017.11.27-28)
























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