今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

799 一関(岩手)照柿に支藩の昔思い出す

2017-12-03 21:08:33 | 岩手・宮城
柿はさほど好みの果実ではないのだけれど、その色はまことに美しいと、季節が廻るたびに思う。一関の街なかで、軒に柿を吊るしている茅葺家に出会う。晩秋の日差しをいっぱいに浴びて、柿は艶やかに照り返り、土壁にくっきりと影を映している。一関藩家老職の沼田家屋敷跡だという。素朴な門の内に小さな庭が造られてはいるものの、内部はやや豊かな農家の風情。支藩とはいえ三万石を領しながら、その家老屋敷は実に質素である。



もう40年も昔のことになるが、一関在住の方に中尊寺と毛越寺を案内してもらったことがある。その際、この街に立ち寄ったのかもしれないが、記憶は全くない。だから盛岡から仙台に移動する途中、新幹線を一ノ関駅で降り、短時間の一関散歩を楽しむことにする。(こうやって書いていて煩わしいのは、市名は一関なのに駅名表示が一ノ関であることだ。奈良に五條市の五条駅という例があるけれど、国鉄以来の悪しき慣行ではないか)



駅前から西へまっすぐ延びる通りを15分ほど歩くと、磐井川に突き当たる。このあたりまでが旧市街地のようだ。沼田家住宅は川に近い一角で、その辺りが上士の武家屋敷街だったという。仙台藩の支藩である一関藩は田村家が代々治めたが、城はもとより、二階屋以上を建ててはいけないと仙台の政宗に戒められたのだと、沼田家住宅の案内をしているお爺さんが教えてくれた。伊達騒動にも巻き込まれ、支藩の立場は難しかったのだろう。



そうした歴史を考えれば、一関は宮城県に組み入れられてもおかしくはなかったと思われるが、南部藩をベースにした岩手県になった。そして盛岡と仙台の中間で、県第2の都市として発展してきたのだろう。磐井川の堤防に登ると平坦な旧市街地が一望できる。戦後間もない台風で、この街は大水害を被った。だからダムを造り、堤防をかさ上げして街を守ってきたのだと聞いた。堤防の上に「太平洋まで86km」の標識が立っている。



そうやって守ってきた街も、人口は1955年の17万人超をピークに、それ以降一度も増加に転じることなく、ついに12万人を割り込んでしまった。地方都市はどこも似たようなものだとはいえ、この街の疲弊は著しく、通りはシャッターが目立って建物の老朽化が痛々しい。商圏の中心は郊外のモールに移り、駅から2分の一等地を再開発した高層マンションは、一関初の免震構造を売り物にするものの、なかなか完売に至らないようだ。



市は2年前に「一関市人口ビジョン」を策定している。近年の人口動向を分析し、様々なシンクタンクの推計を加味しながら、市独自の人口見込みを算出しようという試みだ。そのシミュレーションによると、近年の減少傾向が続く場合は2040年には一関市の人口は7万5千人にまで落ち込むという見通しが出た。このボリュームで、豊かな街は維持できるだろうか? 厳しい数値を突きつけられ、市民は打ちのめされたのではないか。



しかし当事者は、現実から目を背けるわけにはいかない。出生率を上げる政策を考え、仙台・東京圏へ出ていく一方の若者を留める方策を実行しなければならない。一ノ関駅前に「大槻三賢人像」が建っている。玄沢・盤渓・文彦を生んだ街だ、きっといい知恵をひねり出すだろう。傍観者に過ぎない私は「世嬉の一」酒造の酒蔵に立ち寄り、利き酒を楽しんでいる。ほろ酔い加減の他所者ほど無責任な者はいないと自覚しつつ。(2017.11.28)







(仙台・朝市商店街に並ぶ和歌山の富有柿と佐渡のおけさ柿)








コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 798 盛岡(岩手)岩手山イー... | トップ | 800 仙台(宮城県)よく生き... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

岩手・宮城」カテゴリの最新記事