今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

323 有田(佐賀県)・・・石を砕き器を産んで400年

2011-02-05 17:24:56 | 佐賀・長崎

私は呆然としている。あったはずの丘陵が深々とえぐられ、白茶けた胎内を剥き出しにされた山の残骸が寒風に晒されているのだ。だが呆然となったのは、その見慣れぬ光景もさることながら、山が消えるほど膨大な量の土が採られ、磁器となって国内外に運ばれて行った、そうした人間の営みの凄まじさを見せつけられたことによる。ここは佐賀県有田町の街はずれ、400年前に朝鮮人陶工・李参平が発見したとされる泉山磁石場である。

有田の街は、この磁石場あたりから西へ流れ下る川に添って続いている。この流れが有田川の本流かどうか私は知らないが、川は街はずれで流路を北に変え、伊万里湾に注ぐ。山里といえばそれらしい風景ではあるが、山に分け入ったような深さはない。陶芸の里というものはどこも似た佇まいをしているもので、有田も三方を山に囲まれ、その谷を川が下って行く構造になっている。

ただ有田の街並みの特徴を挙げるとすれば、おそらく他のどの焼き物の街よりも富が蓄積された土地だと感じられることだろうか。泉山の磁石場からゆるゆる下って来ると、古風な商家が軒を連ねる広い通りが続く。日本企業史といった研究分野があるとすれば、外すことのできない事例であろう香蘭社や深川製磁が本社ギャラリーを構え、さらには柿右衛門や今右衛門といった看板が現れて、この街が日本磁器の本家であることを教える。

秋の陶器市には100万人を超える人波で埋まるという大通りも、古い窯のレンガを積み上げたトンバイ塀が続く裏通りにしても、年の瀬のこの日は人影が薄く、閉めている店が目立つ寂しいものであった。だからというほど短絡視はできないにしても、この陶磁の道を旅する途上で繰り返し耳にした「産地はどこも苦しい。なかでも有田は深刻なようだ」といった話が気にかかる。

有田町の統計を見ると、陶磁器関係の販売額は1991年には336億円を売り上げるまでに伸びたのだが、その後は減少を続け、10年後には半額以下にまで落ち込んでいる。その後の統計は非公開ということで、金額をオープンにできないほどの不振なのかもしれない。バブル経済破綻後の、20年間の日本経済と同じ流れだ。

自分の生活周辺を思い浮かべれば分かることだが、核家族化が進んだ家庭では、もはや法事などに備えて大量の食器を保有することはなくなった。和食器のお得意先である料亭の数もめっきり減った。伝統の絵付けは敬遠され、シンプルな器が時流となって産地のブランド力は薄れる一方だ。人気のデザインはすぐにコピーされ、安価な輸入品に売り場を奪われる。日本の窯業は、有田に限らずどこも深刻な現実に直面しているのだ。

日本磁器発祥の街を見渡せる高台に、白磁製の鳥居を構えた陶山神社があり、李参平が陶祖として祀られている。急な石段を揃え直し、モルタルで強化している人たちがいた。「韓国からのツアーの人たちが数百人の単位で参拝されるものですから、石段がぐらついてしまう。けがなどさせたら申し訳ないから」と話していた。

秀吉の朝鮮出兵の折り、本人の意思に関わりなく連れて来られた朝鮮陶工がたくさんいた。それは暴力的な拉致を連想させるが、結果として連行先で新たな産業を産み出し、いまも関係子孫から篤く祀られている。その地を訪ねて父祖の地から多くの人が訪れる。そんな話を聞いて、少しホッとした気分になった。(2010.12.23)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 322 伊万里(佐賀県)・・・... | トップ | 324 波佐見(長崎県)・・・... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

佐賀・長崎」カテゴリの最新記事