広辞苑は《野》を「自然の広い平地。山すその傾斜地」だといい、《原》は「平らで広く、多く草などが生えた土地」だという。違いはよくわからない。その野と原を組み合わせた《野原》は「草などが生えている広い平地」と、やはり似たようなものである。しかし「古く日本人は、野と原を明確に使い分けていた」という解説を読んだ記憶がある。「野」は耕作地あるいは耕作可能な土地で、「原」はもっと荒蕪な原野を指すのではなかったか。 . . . 本文を読む
日本人は、いや日本人に限らず、いやいや人間に限らず、その身を地中から沸く湯に浸すことは大好きなようである。確かに疲れがとれ、肌が奇麗になるような気がするし、周囲の景色が良ければなお結構だ。だから私もその機会があれば喜んで入る。しかし入るためにわざわざ出かけるほど好きというわけではない。その程度だから、日本中のいたるところで温泉場が成り立ち、湯客で賑わう様子が時には不思議に思えることがある。 . . . 本文を読む
利根川が上越国境の谷を駆け下り、関東平野を潤い始めるあたりの赤城山西麓に、《三原田》という地域がある。かつては群馬県勢多郡赤城村といったが、現在は合併して渋川市に含まれる。林野と畑地が混在する台地が崖となって利根川に落ちる三原田の段丘上に、閑静な住宅地が広がっている。市街地から遠く利便性に欠けるけれど眺望は抜群である。そこは5000年前にも住宅団地が広がっていた。暮らしていたのは三原田縄文人である。 . . . 本文を読む
新宿から伊香保を経由して草津に向かう高速バスを利用して、月に1、2度、群馬県西北部の山中に通っている。山での陶芸を愉しむためで、もう3年を超える。そのバスが伊香保温泉を通過し、榛名山を下って吾妻川に差し掛かると、「えも言われぬ風景」が車窓をよぎる。対岸の山麓に点在する集落が、南面する小さな扇状地の日溜まりに抱かれている、ただそれだけの眺望なのだが、自然と生活がしっくり溶け合って、実に美しい。 . . . 本文を読む
大戸から中之条方面への道をとって吾妻川を渡ると、国道145号線の「郷原」分岐点に出る。東吾妻町の小集落に過ぎないこの地名は、私のような考古マニアにとっては大変な重みを持っている。この地から、顔はハート型をして胴は異様にくびれ、腕と股は左右に開いて踏ん張っている、奇妙な土偶が発掘されたからだ。縄文人が遺した造形物のなかで、土偶ほど不可解なものはないけれど、郷原のハート型土偶はその代表格だ。 . . . 本文を読む
若いころ、群馬で6年間暮らした。その北西部は山間地が占め、南部は関東平野の北端を担う平坦部だ。そして東に細い首を延ばして隣県に接している。中古のマイカーであちこち走り回ったから、ほとんどの街に行き尽くした気分でいた。しかし小さな県といえそうはいかないようで、改めて地図を点検すると未踏の地は残っている。かの国定忠次が破った大戸の関所跡も行っていない。別に忠治に義理立てする必要は無いのだが、行ってみる。 . . . 本文を読む
その時の私を見かける人がいたら、絵に描いたような「茫然自失状態の男」を観察できただろう。群馬県嬬恋村鎌原の、小さな観音堂の夕暮れである。お堂に通じる石段には朱塗りの橋が架かり、堂が建つ小丘の傍らには巨大な観音像が立っている。さらにその周りには土産物店や食堂が数軒、いずれも錆の浮いたシャッターを閉じている。私はそうした佇まいを見回し、呆然としている。40年前に訪ねた場所と、ここは同じところか? . . . 本文を読む
おそらく日本中で「恋」という文字を含んでいる自治体名は、群馬県吾妻郡の嬬恋村だけであろう。明治22年の市町村制施行時に、12の村々が合併して採用された村名で、記紀にある倭建命の伝説に由来しているという。しかし建命が妻を想って溜め息をついた「坂」が、嬬恋村の鳥居峠かどうかは誰も知らない。だが古くは「吾妻庄」と呼ばれた地であることをヒントに、それを援用して村名を考えついた知恵者がいたということだ。 . . . 本文を読む
草津温泉の麓に六合(くに)という地域がある。私が陶芸のまねごとを愉しむために、月に1、2度滞在している村だ。今回は車を借りてやって来たので、晴天に恵まれたら「志賀・草津高原ルート」をドライブしようと考えていた。そこで六合唯一の「道の駅」に隣接した観光案内所で道路の様子を訊ねると、係員が「レベル2になったため、夜間は通行止めです」と教えてくれた。草津白根山の噴火警報が引き上げられたというのだ。 . . . 本文を読む
これを「いさま」と読むのは難しい。群馬県の北西部、吾妻郡中之条町に含まれる山里で、山襞に張り付いたり隠れたりして集落が点在している。昭和30年までは伊参村を名乗るれっきとした自治体だったというが、40年代後半の6年間、群馬で暮らしたことのある私をして、全く耳にした記憶がない地名である。南面が緩やかな傾斜を成して開けている地勢にふさわしく、大きな事件や事故には縁遠い、穏やかな日溜まりの山村なのだろう。 . . . 本文を読む
「碧天」とは、こうした空を指すのだろうか。私は六里ヶ原と呼ばれる高原で独り、深呼吸をしている。眼前で陽光に全身を晒しているのは、浅間山(標高2568m)だ。残雪の端切れをわずかにまとい、神々しくも冷ややかに鎮座している妖艶な美女の如くである。その肌は天を瞬時に氷結させたかのように、触れたら手が張り付いてしまうだろうほどに冷たく滑らかに輝いている。山頂からわずかに上る白煙は、彼女の息づかいなのだろう。 . . . 本文を読む
関東平野に広大な流域を形成する利根川だが、悠々たるその流れも群馬の渋川あたりまで遡ると、さすがに平坦部は狭まり、東を赤城山に、西を榛名山、そして北を子持山と小野子山が塞いで、それより奥は上信越の山塊に分け入ることになる。高山村は、その子持・小野子の稜線に隠れるように、山の北側の盆地にひっそりと静まる村である。かつては越後に通じる三国街道の宿場として賑わったらしいけれど、いまや隠れ里の風情が濃い。 . . . 本文を読む
子供のころの同級生と草津温泉に泊まり、少年に還った。ホテルは6人まとまると貸し切りにできるというので、6人目は無理に頼んで新潟から駆け付けてもらった。小さなロッジではあったけれど、貸し切りのおかげでリラックスでき、草津の湯を堪能した。草津はその湯量・薬効において、紛れもなく天下の名湯である。しかし温泉とは地中から湧き出す熱湯に過ぎない。つまり大地の恵みなのであって、それがなぜ「私有」されるのだろう。 . . . 本文を読む
これを「やんば」と読むことができるのは、私が群馬で暮らしたことがあるからで、それは40年以上昔のことになる。当時すでに「八ッ場ダム建設計画」は県政の大テーマになっており、群馬県北西部を西から東に流れ利根川に合流する吾妻川を堰止めて、首都圏の水瓶にしようという構想は、水没住民を賛否2派に分断し激しい騒動を招いていた。そして今、計画地は空中高く橋が架かり、ダム湖の広がりが想像できるまでになっている。 . . . 本文を読む
ダムサイトの説明板には「シナキ」とルビがふられているものの、土地の言い方では「シナギ」と濁るのかもしれない。群馬の西北部、旧六合村の入山地区の小字名で、草津温泉から流れ下る湯川の強酸性水質を中和させるためのダムがある品木だ。シナの国・信濃に近いことから、元は「科木」とでも書いたのではないかと私は想像するのだが、地名はともかく、かつてこの谷で営まれた品木集落はもはや無い。ダムに沈んだのだ。 . . . 本文を読む