
大戸から中之条方面への道をとって吾妻川を渡ると、国道145号線の「郷原」分岐点に出る。東吾妻町の小集落に過ぎないこの地名は、私のような考古マニアにとっては大変な重みを持っている。この地から、顔はハート型をして胴は異様にくびれ、腕と股は左右に開いて踏ん張っている、奇妙な土偶が発掘されたからだ。縄文人が遺した造形物のなかで、土偶ほど不可解なものはないけれど、郷原のハート型土偶はその代表格だ。

上野の国立博物館に展示されている実物を、正面・横・裏から観察すると、全高は30㎝ほどで、顔の造作では眼と鼻が目立つ。眼は大きく突起した輪郭に細く釣り上がった瞳が彫り込まれている。全体にデフォルメされた造形ながら、眼だけが妙にリアルで向き合うと凄みがある。鼻は不自然なほど大きい。しかしそのことが顔全体を引き締めてもいる。おざなりなのは口で、アゴ部分の小さな穴がそれなのか、無いに等しい。耳も無い。

ハート形の頭部は板状に過ぎず、それを支えるために奇妙な枕?が付属している。全身に入れ墨を施し、乳房が膨らんでいるから女性に違いなく、くびれた胴の中央を妊娠線らしき筋が伸びている。腕と脚は大きく開いてリキんでいるのは、まるでいま赤児を産み落とした、と言わんばかりの姿である。洗練さでは山形県西ノ前遺跡出土の国宝指定土偶に譲るとしても、ハートの中にリアルな瞳を彫りつけた郷原陶工のセンスは際立っている。

出土状況ははっきりしない。昭和16年とも20年とも伝えられるころに、道路工事あるいは鉄道敷設に際しJR吾妻線郷原駅の西50m付近で見つかったらしい。顎の少し欠けている辺りに工事のつるはしが当たったのだろうか、詳細な記録が取られないまま見つけた人が持ち帰ったのか「個人蔵」であり、世に知られたのは昭和29年になってからだ。駅の周囲を歩いてみる。しかし国道は殺伐として、考古マニアが夢想に耽る余地はない。

土偶が埋められていたということは、そこで何らかの祭祀が行われたと考えるのが自然で、だとすれば周辺にはそれなりの集落が形成されていたことになる。すぐ南側を吾妻川が東行していて、この川筋には縄文の集落跡がいくつも発掘されている。群馬県の標識では魚が元気に飛び跳ねているけれど、白根山からの強酸性水に侵されたこの辺りでは、魚は生息できなかったのではないか。吾妻の縄文人たちは何を食べていたのだろう。

土偶が埋葬?されていたあたりの北面は、岩櫃山の絶壁に塞がれている。剥き出しの岩肌は草木を寄せ付けず、おそらく縄文人が眺めた奇観そのままではないか。かつて地元の大学が調査のため登攀してみると、天空の窪みに人が葬られたらしい痕跡があったという。列島にも鳥葬の習俗があったのだろうか。それがいつの時代のものか解明されたとは聞かないが、その断崖下に3000年ほど埋もれていたハート型土偶と関連はあるのだろうか。
岩櫃山は戦国時代、砦として使われ、麓には城塞が築かれもした。戦乱のなかで、太古の土跡や土塊などは見向きもされず破壊されて行っただろう。ハート型土偶が大きく損なわれることなく、20世紀まで眠り続けることができたのは奇跡である。そんな思いに耽っていると、2両編成のローカル列車がホームに入って来た。無人駅での乗客の乗り降りはまばらである。そんな現代の営みを、岩櫃山の絶壁が黙って見下ろしている。(2014.9.19)


上野の国立博物館に展示されている実物を、正面・横・裏から観察すると、全高は30㎝ほどで、顔の造作では眼と鼻が目立つ。眼は大きく突起した輪郭に細く釣り上がった瞳が彫り込まれている。全体にデフォルメされた造形ながら、眼だけが妙にリアルで向き合うと凄みがある。鼻は不自然なほど大きい。しかしそのことが顔全体を引き締めてもいる。おざなりなのは口で、アゴ部分の小さな穴がそれなのか、無いに等しい。耳も無い。

ハート形の頭部は板状に過ぎず、それを支えるために奇妙な枕?が付属している。全身に入れ墨を施し、乳房が膨らんでいるから女性に違いなく、くびれた胴の中央を妊娠線らしき筋が伸びている。腕と脚は大きく開いてリキんでいるのは、まるでいま赤児を産み落とした、と言わんばかりの姿である。洗練さでは山形県西ノ前遺跡出土の国宝指定土偶に譲るとしても、ハートの中にリアルな瞳を彫りつけた郷原陶工のセンスは際立っている。




出土状況ははっきりしない。昭和16年とも20年とも伝えられるころに、道路工事あるいは鉄道敷設に際しJR吾妻線郷原駅の西50m付近で見つかったらしい。顎の少し欠けている辺りに工事のつるはしが当たったのだろうか、詳細な記録が取られないまま見つけた人が持ち帰ったのか「個人蔵」であり、世に知られたのは昭和29年になってからだ。駅の周囲を歩いてみる。しかし国道は殺伐として、考古マニアが夢想に耽る余地はない。

土偶が埋められていたということは、そこで何らかの祭祀が行われたと考えるのが自然で、だとすれば周辺にはそれなりの集落が形成されていたことになる。すぐ南側を吾妻川が東行していて、この川筋には縄文の集落跡がいくつも発掘されている。群馬県の標識では魚が元気に飛び跳ねているけれど、白根山からの強酸性水に侵されたこの辺りでは、魚は生息できなかったのではないか。吾妻の縄文人たちは何を食べていたのだろう。

土偶が埋葬?されていたあたりの北面は、岩櫃山の絶壁に塞がれている。剥き出しの岩肌は草木を寄せ付けず、おそらく縄文人が眺めた奇観そのままではないか。かつて地元の大学が調査のため登攀してみると、天空の窪みに人が葬られたらしい痕跡があったという。列島にも鳥葬の習俗があったのだろうか。それがいつの時代のものか解明されたとは聞かないが、その断崖下に3000年ほど埋もれていたハート型土偶と関連はあるのだろうか。

岩櫃山は戦国時代、砦として使われ、麓には城塞が築かれもした。戦乱のなかで、太古の土跡や土塊などは見向きもされず破壊されて行っただろう。ハート型土偶が大きく損なわれることなく、20世紀まで眠り続けることができたのは奇跡である。そんな思いに耽っていると、2両編成のローカル列車がホームに入って来た。無人駅での乗客の乗り降りはまばらである。そんな現代の営みを、岩櫃山の絶壁が黙って見下ろしている。(2014.9.19)

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